4-25 間違いだらけな物語
朧月が青く暗く郊外の牧草地を照らしている。
ブランは牛舎の軒下から覗く月から視線を切り、柵で区分けされた寝床で休む牛たちに向ける。
柵を挟んで手前側、広間に伏せる巨大カメレオンは相変わらず大きな目玉だけをクリクリ動かしつつ、身体は微動だにしない。
その胴に映るのは、彼女の子供たちの視界。
子供たちの巡回に合わせて、郊外の畜舎が代わる代わる映し出される。
養鶏所に養豚所、馬小屋、鳥小屋などなど、種類は多岐に渡る。
今夜のミッションの第一段階は……それらの映像を三人で眠気と戦いながらひたすら眺めるというもの。
それほど負担とは思わずに始めた監視だが、ふたを開けてみれば……そこそこの地獄であった。
「臭、くっさ……」
交代で眠りながら、などという方式は周囲に漂う牛糞の香りが許さなかった。
退屈が臭いを増幅させ、増幅された臭いが睡眠を阻害し、阻害された睡眠が眠気と退屈を寄こす。
目と鼻にくる地獄であった。
地獄への耐性が皆無であった黒髪の少年少女は、血走る目でファフニーナを食い入るように見ている。
「くさい、ねむい、来るならさっさと来てくれよキリグイ」
「ってか今更だけど畜舎で待機する必要ある? あの馬鹿鞭女……これ終わったら絶対ぶっ飛ばす……」
瞳に剣呑な光を宿し始めた少年少女とは対照的に、銀髪のブラン・シルヴァだけはキリグイの出現を望んではいなかった。
それは彼が、キリグイを捕まえに向かうであろう二人へ、共について行くべきかを迷っているからである。
誰にも届かないわずかな呟きが、知れず口から零れた。
「余は……」
少なくとも鏡遠影の調教において、自分は何の役にも立たなかった。
自分よりいくつも年下な少年少女に守られ、片隅で震えていることしかできなかった。
二人は責めなかったが、そんな優しい二人だからこそ、自分から退く決断をすべきであったと後悔している。
「……決断、か」
青年にとって決断という行動は……そのものが苦痛であった。
◇◇◇◇◇
ずっと、間違ってきた。
――ブラン・シルヴァは東のエルフ国家『エルタルナ』の首都『エルタナ』王宮で産声をあげた。
当時、ディープエルフ一の美女とされた母は王の一番のお気に入りであった。
故に息子の自分には誰もが笑顔で接してくれた。
無条件に周囲から好かれていると思い込んで、先に生まれた兄たちに屈託なくついて回った。
残念間違い。
兄弟の間にあるのは絆ではなく王位継承の序列と、序列を覆すための謀略だけであった。
母が飽きられ、寵愛の対象から外れると、兄たちを含め、それまで作り笑いを浮かべていた者のほとんどは蔑みの表情を向けるようになった。
ずっと、間違ってきた。
王族はかつて国を造り上げるために前線に立った戦士たちの末裔。
故に多くの者が遺伝的にマナに愛され、強力な魔法を使うことができる。
きっと自分も兄たちのように素晴らしい魔導師になれるものと思っていた。
残念間違い。
エルフが成人を迎える百歳になっても、自分は何一つ魔法が使えなかった。
才がないことは早々に親族内に広められていて、自分と母は王宮を離され、辺境に飛ばされていた。
たまに王族一同が会する場が設けられる時だけ王宮に呼ばれ、母が嫌味の標的になっている陰で、自分も兄弟たちに突き飛ばされ、踏みつけられていた。
ずっと、間違ってきた。
屋敷に引きこもり、たった二人の味方だった老兵とメイドの誘いからも逃げて、本の世界に没頭した。
物語の中では、棚ぼたで破格の力に目覚めた主人公たちがちやほやと理想的な人間関係を築き上げていく。
自分はそんな力に目覚めることなく、この屋敷で一生を終えるのだろうと考えていた。
残念、なんとそれも間違い。
ある日、引きこもっていては身体に悪いと言うメイドに無理やり連れ出された森の中でウルフの群れに襲われた。
目の前で身を挺して自分を守ったメイドが力尽きかけそうになっているのを目の当たりにして、無力な自分に絶望し、発狂した。
すると今までどれだけ呼んでも見向きもしなかったマナたちが、緑に乱れ飛び、気づけばウルフの群れは突如現れた大樹に絡めとられ、取り込まれ、首だけ出して絶命しており、メイドの傷は完治していた。
ずっとずっと、間違ってきた。
力を手に入れたと思った。
老兵からは制御ができないからときつく使うことを禁じられていた。
主人公になれると思った。
メイドは王宮の召集に応じようとする自分を止めた。
大丈夫だなんて言いながら、自分は王――自分の父親に力を報告した。
嫉妬の目を向ける兄たちの何人かが御前試合を望んだので、応じてやった。
父に認められ、兄たちを見返すつもりであった。
――残念、大間違い。
辺境で練習は何回か積んでいた。
加減はできるつもりであった。
それが慢心となった。
意気込みと共に芽生えた心の高ぶりが、力を制御不能にした。
大樹の化け物が、王宮を内から突き破ってエルタナに聳え立った。
王が言った。
「なんということをしてくれた」
全ての視線が憎しみに満ちていて、誰も認めてくれなかったと絶望に落ちかけた。
そんな中、赤髪の長兄が自分の力に利用価値があると発言した。
彼だけは認めてくれたと、一縷の希望に縋った。
繰り返し間違えても懲りることなく希望を抱く自分の滑稽さを、兄が教えてくれた。
「無能な人格はいらんが、天使には兵器として破格の価値がある。私が捕らえ、愚かなスー・フェイを討ち滅ぼすために見事使ってみせよう」
その時の野心に満ちた燃えるような紅眼が、脳に焼き付いて離れない。
ずっと間違ってきた。
王宮から逃げたい一心で更に力を暴走させたが、使う頭が弱かったのだろう、被害だけが拡大して、肝心の兄への抵抗は灼熱の魔法に全て焼き払われた。
必死に隠れ、逃げ回り、転げまわった。
転げまわった先の水路の濁流に呑まれ、何とか一時的に追っ手を撒くことができた。
やはり自分にはあの屋敷で本を読み漁っているのがお似合いなのだと、帰ってきた。
老兵がそんな自分を無理やり捕まえて、母やメイドを想うなら、今は戻ってはいけないと諭した。
彼女らは自分が捕えられない内は、自分を捕えるため、そして天使の力を強要するための人質として利用価値があるのだという。
全部間違った。
間違いを犯した。
今も多分、ずっと間違い続けている。
狙われている自分が、気持ちに流されて他国の首都に来てしまっていることも、役立たずの自分が目標を掲げた少年少女と行動を共にしていることも。
だから――
◇◇◇◇◇
悪戯っぽい金色の瞳孔が絞られた。
「……ん? ……おいユータ! ブラン! これ、この畜舎見て!」
ファフニーナの肩口あたりに映る子供の視界――その一つが、松明と柵に区切られた羊たちの畜舎を移していた。
ネピテルが示した映像に二人が注目すると、畜舎中央に一本通った幅広の通路に、青い光がチラついたのがわかった。
松明に照らされた仄明るい暖色の中を、青が蛍の光のように、チラ、チラと光っては消える。
「これは……マナ、だろうか……?」
慎重に観察するブランの視線の先、青い光は一つ、また一つと数を増やしていった。
ネピテルが黒の双剣を下げたベルトを腰に巻いた。
釣られるように悠太が濃緑の篭手を装着した。
――やがて、青い光はひゅらひゅらと、発光するつむじ風となる。
そのつむじ風が羊の数倍はある体格の四足の獣をかたどった頃、二人は駆け出した。
「ほら行くよ! A-2の畜舎だ!」
「了解! 行こう、ブランも……」
黒髪の少年が当たり前のように差し伸べた手は、掴み返されることはなかった。
ブラン自身、ビクとも動かない身体と耳にうるさい鼓動を自覚するのに時間がかかった。
「ブラン……?」
「何してんの早く行かなきゃ取り逃すよ!」
ずっと、間違ってきた。
「……余は、行かぬ」
押し殺して震えた声に、二人は二の句をひっこめた。
「ファフニーナ、との一戦で身に染みたのだ……余は、ユータ殿とネピテル殿に守られてばかりで、その、ついて行っても、足手まといにしか……ならない」
「んなこと」
「あるのだ!」
優しい少年の言葉を強く遮って、赤い目は険しく細められる。
「ずっと、今までもずっとそうであった。余のやりたいこと、成したいことは全て間違いで……誰の役にも立ったことがない。正解をしたことがない。それどころか……」
――多くの人たちを脅威に晒した。
言い淀んだ言葉はそのまま吐き出されることはなかった。
「じゃ、ユータ行こ」
冷たげな声がブランを置いてさっさと踵を返す。
「おいネピテル! ちょっとは待ってやっても……」
「取り逃しちゃうってば。来ないんだろ? じゃあ待つ必要ないじゃん」
あっけらかんと言い放つ少女に悠太もブランも言葉を返せなかった。
悠太も今するべきことは現場に駆けつけることであり、青年の事情に耳を傾ける時間的余裕はないとわかっていた。
その点を割り切っている少女は郊外の道に踏み出す。
そして背を向けたまま、迷える青年に言葉を残した。
「間違いだか正解だか知らないけど、結局君は何したいわけ?」
彼女にも、青年の気持ちがわからないわけではなかった。
間違いとは後悔であり、彼女自身も大きな後悔を抱えてこの場所にいる。
「……どうありたいわけ?」
後悔を清算するためには進むしかないことを知っているから、大昔の誰かさんのように、迷い惑い蹲る青年に苛立ちを覚えたのである。
「……ボクは進むよ。間違えようが何だろうがボクの行きたい方へ行く」
それだけ残して、艶やかな長髪を揺らして小柄な背中は夜道に駆け出す。
「ネピテル……もう、待てってば!」
頭の整理がつかない悠太は、キリグイに立ち向かいに行った少女に続いて駆け出す。
その際に一度だけくるりと振り返って、ファフニーナの隣、泣きそうな顔で佇む青年に声をかけた。
「ブラン! 無理じゃなきゃサーバさんに伝鳥飛ばしておいてくれ! 頼む!」
手持無沙汰は良くないだろうとの気遣いを置いて、少年も学ランと共に夜の闇に消えていく。
――残された青年は銀髪を俯かせ、運動してもいないのに激しい鼓動と、高揚した顔の熱を鎮め、震える足を一歩ずつ、畜舎の入り口の伝鳥かごへと進めていった。
抜き足差し足、石橋を叩いて、慎重に……もう間違わないように。
「……これで、これで良いのだ……これで」
これで正解を選んだはずの青年の目には、どうしてか涙が滲んでいた。





