1-2 やまだゆうた Lv.1 瀕死
なだらかな一本道。
舗装もされていない土の道は、終わりが見えないほどに長かった。
歩く景色は左から森、道、また森のみである。
既に泥に汚れた脚は疲労感を覚え、火照った身体は学ランを脱いで肩に担いでいた。
体力に自信がない、わけではなかった。
もう少し歩けるだろうと絶望を先延ばしにして、未知の道を行く。
そういえば、いつだったか一度だけ、マラソン大会で六位入賞を果たしたことがある。
その夜は両親が奮発してくれて、すき焼きに霜降りの肉が入っていたなと思い出し、腹に空腹を覚えたその時であった。
――視界に、ようやく木以外のものが映り込んだ。
遠目に見えるそれは人の後ろ姿のようで、鼓動がドクンと高まった。
呼応するように、足が早まった。
その人は、背が低く、木の棒を担いでいる、黒い後ろ髪と緑のシャツである。
足元に何か置いてある。
かなりの田舎のようだし、お年寄りであろうか。
ならばこの辺りの地理にも明るいであろうか。
やはり独りというのは寂しい。
わりと人見知りはする方だが、この状況で声をかけない手はなかった。
数十メートルまで近付いて、片手を上げて声をかけようとして――鼓動がまた、大きく跳ねた。
声は呼吸と共に引っ込み、金縛りのように脚も止まる。
視線の先の人影は道の真ん中で立ち止まって、足元の何かを漁っていた。
否、貪っていた。
寒気を感じたのは、その肌の色――深緑――のせいである。
服など、腰布しか着ていなかった。
木々に向けられる横顔は小柄な体躯にそぐわないアンバランスな大きさで、尖った耳元まで裂けた口が醜悪であった。
担いでいるのは、雑な造りの棍棒。
そして足元に横たわるのは、恐怖の表情で固まり、腹を開かれた人の屍であった。
「ひ……ひと……?」
――胸が締め付けられる。
酸素が絞り出されていくのがわかった。
次に不快感と吐き気が発生し、息苦しさを落ち着けるように、歯の間から息を吐いた。
悠太は、見たこともないその生物の名前に心当たりがあった。
ゲームでも漫画でも小説でも、ファンタジー序盤には、いつもこの化物がいた。
「ゴブリン」と名付けられることの多いそれには、小さな体躯に緑の肌、腰布と棍棒が似合う。
意識を失う前に遊んでいたスマホのゲームでも、最初の敵はこいつであった。
ただし一点、ゲームと大きく違うところがある。
それは身に纏う雰囲気であった。
画面越しではないそれは、見れば見るほど醜悪な造形をしており、呼吸に合わせて隆起するイボ肌は不潔で、小柄な身体の筋肉はやけに屈強に見えた。
ゲームと現実は違う。
あれをポコンポコンと二、三回叩いて倒せるのは、ゲームの中の主人公だけであろう。
――馬鹿げている。
そんな空想の生き物が目の前にいることも、その足元で腹を掻っ捌かれている人がいることも、そんなものは馬鹿げたゲームの話である。
恐怖が振りきれて、悠太の頬はひくひくと笑みを浮かべた。
わなわなと前に差し出してみた手に視線を落とし、言ってみる。
「は、はは……すげぇリアル……す、ステータス画面とか、出ねぇよな?」
冗談半分で呟いた一言、それが悪かった。
ブン、と電子的な音がして、なんと手の平の先に白色に光る板が現れた。
「うわあ!」
急に現れたそれは、正しく悠太の想像していたテレビゲームの「ステータス画面」であった。
――ステータス画面とは、一般にゲームの主人公の現状を把握する為のシステムである。
ゲームの主人公は敵を倒すと強くなる、と言ってもキャラクターの見た目に筋肉量が増えるわけではない。
変化するのは強さを表すパラメータの数値である。
そういったゲーム内の見た目に反映されない数値を文字で確認する画面。
それが悠太の知るステータス画面であった。
それが手元に出現し、目の前にはゴブリンがいる。
直感的に、冗談のような発想に至った。
何故かわからないが、ここはゲームの世界かもしれない。
だとしたら、悠太がまず行わなければならないことは――最初の戦闘である。
突然のステータス画面の出現に驚きあげてしまった叫び声。
それは化け物の耳にもしっかり届いていた。
緑の顔、肩、つま先とこちらを向き、ペタリと一歩。
全身で唸り声と殺気を放っている。
正面から見る顔には感情の見えない双眸がついていて、鋭い爪は血を滴らせ、涎を垂らす口は、歪な笑顔を浮かべているようであった。
「あ、あ……」
後退りをすると、ステータス画面はその場に留まったまま、ついてきてはくれない。
そこにヒントが載っているかもしれないのに、じっくり読みたいのに、戻れない、視線は外せない。
外したら化け物はこんな距離など一気に詰めて、首元に食らいついてくる気がした。
そして、その瞬間は別に視線を外さずとも、時間が来れば訪れるのだと、本能が告げていた。
全身を締め上げられるような苦しい時間が、体感でどれほど続いたのか。
前触れもなくその時が来た。
――フシュルと獣染みた吐息を置き去りにして、化物は棍棒を片手に駆け出した。
「うわぁ来るな、来るなあ!」
脚がようやく動き、化け物に背を向け逃げ出した。
本当は目前だけ見て全力疾走で逃げたかったが、真後ろからパクリと食われる嫌な想像のせいでできやしない。
肩越しに化け物の姿を捉えたままの逃走、当然、距離は目に見えて縮まる。
ぐんぐんと迫って来る脅威に、視界が潤んだ。
トラックに轢かれただけでも理不尽なのに、挙句このよくわからない状況のまま、食われて死ぬのか、そんなのあんまりである。
心中でごねたって、絶望は待ってくれない。
化物は既に先程まで悠太のいた位置に辿り着いており、肩に担いでいた棍棒が、宙に浮かべっぱなしのステータス画面にぶつかって取りこぼされた。
足止めになったのかと抱いた希望は、まるで速度を緩めずに猛進してくる姿に砕かれた。
ああ、追いつかれる。もう、すぐ後ろにいる。
飛びつかれた。
鋭い爪と、ギザギザの牙が視界に迫った。
追い払おうと必死に左腕を振り上げて、即座に後悔した。
鋭い痛み。
「ぎゃあああ!」
鮮血が舞い散った。
爪と歯が、自分の腕に突き刺さっている。肌を突き破っている。
牙が肘から先を食いちぎらんと暴れている。
痛い、痛い痛い痛いと、思考が埋め尽くされた。
脚がもつれて、押し倒される。
近い、熱い。
「ひっ……やめ、ろ、やだ」
眼前には血だらけの腕と、噛みつく邪悪な顔、鼻息が臭くて、涎が熱い。
滴った腕の血と涙が合流して、頬を流れた。
まだ無事な右腕で何とかその顔を押し戻そうとするが、化物の力に太刀打ちできるはずもなかった。
左腕に喰らいつく力が強まる。
もう終わらせるつもりであろうか。
これを噛み砕いて、頭も潰して終わらせてしまうのか。
「なんで、だよぉ……」
一種の諦め、自分はもう助からない、そこまで来るともう泣くしかなかった。
――待ってくれよ。
自分が何をした。平凡に暮らしていただけなのに。死にたくない。何故死ななければならないのか。まだ何も成し遂げてないのに。
人生においては誰しもが主人公ではないのか。青春だって恋だって趣味だって、まだまだ沢山やりたいことがあるんだ。何で取り上げちゃうんだ。
自分は主人公ではないのか。じゃあ、自分は何者だったのか。理不尽の連続に襲われて、あっけなく命を奪われる自分は、一体誰なのか。
化物の頭を抑える腕に力を入れた。
もはや、押し返すつもりなどない。
ただ、最期に自分が何者なのかを知りたかった――先程は見れなかったあの不思議な画面で。
「ステー、タス……」
呟くと、化物に当てた右手の先が、先程同様に白く輝いた。
――そして、眼前の醜悪な顔が、一瞬で歪み、パァンと赤黒く弾けた。
「……は」
べちゃべちゃと浴びる熱い液体が化物の血だとわかるまで、そう時間はかからなかった。
頬に落ちた物体が肉片であることも、緑の頭を失い、力なくずり落ちる身体が、命を失ったことも、そうさせた原因が、さっきまで化物の頭があった位置に浮かぶ血だらけのステータス画面であることも、明白であった。
見上げるステータス画面には、「ユータLv1」と書かれており、その下の数字が激しく上昇すると、記載が「ユータLv2」と改められた。
ようやっと、自分の鼓動と呼吸がうるさいのに気付いた。