4-21 ブラン・デイズ
ベッド。
それは文明の利器である。
木製の四脚と厚手のボードが、重厚さとしなやかさで体重を支えてくれる。
稲藁を麻で包み、清潔かつ純白のシーツを被せたマットレスは、ほどよい弾力としっとりとした肌触りで永遠の頬ずりを誘う。
羽毛を詰めた掛布団は、ずっしりとした存在感で人肌を温める。
羊毛を詰めた枕は、顔をうずめて良し、抱いて良し、プライベートスペースに立ち入りを許可した唯一の同居人として、孤独を慰めてくれる。
人類の開発した最高の発明が最大のパフォーマンスを発揮する時間帯は、一日に二回。
一回目は就寝前――ひんやりした枕に頬ずりしながら布団が徐々にぬくもりをくれる中、身体の疲れを放出しながら甘い妄想にまどろむ時間。
二回目は起床直前――温かな寝床に射すカーテン越しの朝日がやわらかに瞼を起こそうとするのを拒み、逃れるように寝返りをうって怠惰に居座る時間である。
――『魔導学院』の男子寮で目を覚ましたブラン・シルヴァは、綺麗に切り揃えられたその銀髪を枕に広げ、二回目の至福の時間を大いに味わっていた。
「爺や……」
嵐の明けた浜辺で生き抜く決心をしてから数日。
その間の就寝といえば野宿と野宿、馬車の中、そして野宿であった。
そこに至るまでの逃避行でもベッドに身を投げる余裕はなく、青年は本当に久しぶりの安らぎを感じていた。
また、本日は起きた後も希望に胸膨らませる時間がある。
――今日は魔導師ギルド入団後初の登院日。
首都での生活の基盤となる学院生活の一日目なのである。
「――ふ、ふふ」
枕に顔を埋め、つい笑みを零してしまう。
「やっと……久方ぶりに、余にも、健康で文化的な最低限度の生活を営める日が……」
登院までは時間がある。
それまではゆっくりベッドの中で至福を楽しみ、起きたら昨日寮母から挨拶を兼ねて差し入れられたパンを焼き、赤毛の少女がくれた茶を淹れよう。
「そして学院に着いたら……」
褐色の指が首に向かい、就寝時も外すことのない『響鸚鵡の首輪』を撫でる。
長い睫毛から覗くルビーのような赤い瞳が、水晶林で何もできなかった記憶を思い出し、神妙な光を宿した。
「名高き魔導学院、か……余の力が制御さえできれば」
脳裏に浮かぶのは、傷だらけでも手を差し伸べてくれる学ランの少年と黒髪の少女の姿であった。
「それさえできれば、彼らと……」
不確かな未来は今は考えまいと、ブランは再び枕に深く顔を埋める。
考え事は今しばらくこの至福の時間に身を委ねてからにしよう――と思ったのに、至福は突然に終わりの時を迎える。
彼を叩き起こしたのは、鞭の痛みと号令であった。
「起床!」
「痛ぁいっ!?」
夢か現かもわからぬまま、褐色の青年はその長身を痛みに縮め、ベッドから転げ落ちた。
「なんだ何事か!?」
寝巻のまま尻もちをついて見上げると、非常識の権化は、窓枠に軍服から伸びる手をかけ、ブーツの足をかけ、朝の陽ざしと共にその真紅の長髪をたなびかせていた。
「さ、サーバ殿!? 何故ここに……否、それより窓からて……ここ三階であるぞ!?」
寝ぼけた頭は事の次第を把握しようと窓からの来訪者を凝視するが、窓枠を踏むタイツに包まれた美脚、その根元のきわどいタイトスカートの中身が見えるアングルと気づき視線を逸らす。
見えた気もするし、朝日が逆光となり見えなかった気もする。
真偽のほどを確認することは二度とできない。
サーバ・ベンディンガーがベッドを跳び越して、文字通り土足でブランの部屋に降り立ったからである。
「いつまで寝ぼけている! 早急に身支度を整えよ!」
板張りの床に鞭が鳴る。
「身支度……? どこかに行く予定が……いや待て話が見えぬ!
今日は調教師ギルドの、探偵のバイトはないのだろう!?」
青年は女に無理やり、探偵まがいの仕事を押し付けられている。
「ファフニーナの力を借りて監視するのは、母親の体力が回復してからという話になったはずだ!」
探偵が追うは七時街で繰り返される『霧喰事件』。
毎夜家畜を襲うキリグイの正体を突き止めるため、ブランは異世界の少年と魔王の力も持つ少女と、鏡遠影の力を借りるべくクエストに赴いていた。
ブランが震えている間、少女が命からがらになりながら、少年がカメレオンの魔物を調教して、三人が戻ったのは昨晩のことである。
「ああ、今は自分が所有している郊外の畜舎で休ませている。万全の体調まであと丸一日はかかるな」
異世界の少年が言うところの「ボウハンカメラ」という能力を持つ鏡遠影ファフニーナだが、密猟者の謀略の中で体力を削られ、今は十分に力を発揮することができない。
ようやく頭もはっきりしてきて、ブランは立ち上がって抗議する。
「であるから! 今日と明日は探偵のバイトも休みであるべきであろう!
そもそも余の正式な預かりは魔導師ギルドとなったはずだ! 今日は学院生活初日、遅れるわけにはいかんのだ!」
しかし、抗議は鞭を見せつけられるとその勢いを失う。
「自分は身支度をせよと言った」
「ひっ」
うわずった声でハンズアップ、抵抗の意思がないことを動きで伝える。
彼女が言葉より先に手が出る前に鞭打つタイプであることは知っている。
そして顎で促されるまま、ブランは寝巻を放り捨て、恥ずかしさを感じる暇もなくシャツにズボンに手足を通す。
サーバは腕を組み、指先でトントンと規則的に肘を叩いて時間のカウントを始める。
「安心しろ、自分も物事の道理は心得ている」
心得ている人間は朝から窓から他人の部屋に乱入したりしない。
「ティスア学院長より貴様の預かりは聞いている。だからこそ、講義の時間を避けて早朝に赴いているわけだ。これは慈悲である」
鞭で脅す慈悲などあってはならない。
細指のカウントは、ブランが靴のかかとを踏み、鎖で縛られた魔導書を腰のベルトに下げたあたりで止まった。
「ファフニーナを休ませている間も探偵の仕事は続けてもらう。貴様らがクエストに出ている間も、変わらず霧喰事件は繰り返されていた、まだまだ捜査が足りん」
愛用のベージュのローブを羽織ることはできなかった。
その前にブランの胴体を鞭が縛り上げたからである。
「刻限!」
「ちょっ、まだ用意が!? 主に心の用意が!」
「行きがかりに済ませろ。貴様には探偵として、現場の検証、畜主への聞き込み、畜舎の巡回、給餌、清掃、搾乳、毛刈り……やるべきことが山ほどある」
「後半ただの畜産農家ではないか!? ちょ、引きずっ、そっち窓……! ここ三階であると……のわぁぁぁ!?」
――ブラン・シルヴァの朝は早い。
青年の学院生活は、赤髪の軍服女と寮から飛び降り、引きずられ……そして朝から畜産業者のもとで馬車馬の如く働かされることから始まるのであった。
◇◇◇◇◇
――みっちり家畜の世話をさせられて、解放されたのは日が高くなってからであった。
「それでちょっと臭うのね」
「ライチ殿……余は、もう少し言葉に配慮が欲しい」
女子に臭いと言われるほど精神的に来ることはない。
――時刻は十時頃、場所はところ変わって九時街。
ブランは赤毛の少女、ライチ・カペルに連れられて、魔導学院が所有するグラウンドに来ていた。
見上げれば隣接する土地には巨大な教会のように天を突く本院がそびえている。
綺麗な芝で整備されたグラウンドには、数十人の臙脂色の学生服に身を包んだ若者が集まっていた。
魔法を学ぶ学院故に、男女の比率は魔法の適性があるとされる女子のほうが多い。
また全員が、腰元に厚手の魔導書を下げている。
「着替えても臭うだろうか……」
ブラン自身も先ほど支給された学生服に腕を通し、その襟元と黒のズボンの裾を摘まんで鼻先を近づける。
ほのかに獣臭さと汗臭さが香る。
「あはは、臭いって髪の毛とかにも付くから」
苦笑いで「あとで大鯨浴場教えるわ」と言った赤毛の少女は、「さて」とその青い瞳を本院の大時計に向ける。
ライチ・カペルはこの春に魔導師ギルドに加入しており、約一か月ほどブランの先輩にあたる。
ブランが身勝手な依頼者のせいで冒険に引きずり出されている間、入学の手続き書類をほとんど揃えてくれたあたりには面倒見の良さが伺える。
加えて顔よし、スタイルよしと来ている。
――これはユータ殿が惚れるのも納得である。
学ランの少年のでれでれの顔を思い浮かべていると、ライチは大時計から視線を外して心配そうに呟いた。
「そろそろ時間……ニナ、ちゃんとリズリー起こせたかしら」
その声に応えるように、ほどなくしてグラウンドへと駆け込んできた二人の女生徒が、駆けながら腕を振った。
片やポニーテールを左右に振って走る快活そうな少女、名はリズリー・バートリーという。
「おす、ライっち、聞いてくれニナが途中で盛大にずっこけてさ」
落ち合ったリズリーは白い歯を覗かせてそう告げると、急かすように後ろを向く。
数秒遅れて、手を膝に置くもう一人の少女が合流した。
大きな丸眼鏡にかかるゆるふわのセミロングを指で退かす大人しそうな彼女の名は、ニナ・マルムである。
「はぁ、はぁ、ひどぉい、リズちゃんが全然起きてくれないからすごい急ぐ羽目になったのに」
弾む肩と息を整える二人に、ライチはやれやれと肩を竦める。
「リズリー、『集令測定』の日くらい早起きしたらどう? 成績にダイレクトに影響してくるんだからちゃんとしなきゃ」
「あ、ライちゃんそれは……」
一見して常識的なライチの発言にニナが訳知りで気まずい顔をして、リズリーは聞くや否やピクリを眉を吊り上げ、食ってかかる。
「は、や、お、き、だぁ? ったく誰のせいでアタシが寝不足になってると思ってんだよ!
毎晩毎晩実験だか研究だかライっちがブツクサ隣で夜更かししてるせいだって、前にも言ったな!? もう何度目だよ!」
ライチが「しまった」みたいな顔して縮こまったあたり、発言は真である。
「あれ、やだごめん、まだ直ってなかった? あはは、おかしいな、そうなるといけないと思って昨日は猿轡して勉強してたんだけど……」
「途中までコーホーコーホー聞こえてたのも怖かったけどね!? しかも途中から集歌唱えられないのに気付いてそれ外したっしょ! その後はいっつも通り独り言だだ漏れ! アタシ、ネレナイ!」
冷や汗が伝う顔が「そういえば」みたいな表情を浮かべている。
どうやらこれも真であるらしい。
「ご、ごめん……」
「ごめんで済めば兵隊いらねんだ! 償え! 身体で償え! そのでっかい胸揉ませろぉ!」
紳士は「ぶはっ!」と噴き出して、いきなりの大胆行動から目を逸らした。
「ちょ!? なんでそうなるのよ!? やっ、放せ……ニナ助けて!」
「ライちゃんさ、なんで猿轡なんて持ってるの?」
「今それ!? あれはユータからもらって……んっ、こらリズリーってば……!」
「え、ユータさんそんなのライちゃんに? ……不潔」
真実は悠太の働く食堂の店主が差し入れにと用意したパンの紙袋に、道中偶然出会った性に奔放な大工姿のデモンが買ったばかりの猿轡が転げて混じっただけなのだが、このミラクルを知る者は誰一人としてこの世界にはいない。
これにはブランも、人には意外な面があるのだなと、人畜無害そうな少年の評価を変態寄りに改めた。
「いい加減に……ほらブラン君見てるから!」
「見ておらん! 断じて見ておらん!」
不意に名を呼ばれ、無実を叫ぶ。
二つのたわわな果実に白く細い指が埋もれていく瞬間など、彼は決して見ていないのであった。
「あ、そっかブラっち今日からだったか」
一瞬で素面に返ったリズリーは、思い出したかのように手を離し、ブランに視線を向けた。
顔ごと背けられていた彼の視線はようやく、かしましい三人に戻される。
顔を赤毛に負けないくらい真っ赤にして胸を抑える少女はできるだけ視界にいれないようにして、ブランは努めて清廉潔白、品行方正に話題を変えた。
「見てない……余は見てない……と、ところでであるが、先程ライチ殿が言っていた『集令測定』とは何なのだ? 入団から今朝までごたつきすぎていて、あまりわかっていないのだが」
講堂での講義を想像していたブランとしては、制服の学院生がグラウンドに集められる光景は予想だにしていないものであった。
「それは……」
回答を引き受けようとした声を遮って、グラウンドの朝礼台から全体に響き渡る男の声がした。
「ようし全員揃っているな!」
臓器に響くような野太い大声は、恐らく魔法で増幅されたものである。
その男は大柄かつ骨太、恰幅は良いが筋肉質な体型に黒のローブを羽織っていた。
おおよそ魔導師要素はローブだけであり、見た目だけで言えば大工ギルドあたりが似合いそうである。
「これより今月の集令測定を始めるぞ! 君たちのこの一か月の頑張りを惜しむことなく、この『ドゥエム・マゾヒスト』に見せてくれ! では魔導書番号一番のグループから!」
ブランはまたしても噴き出し、視線を逸らす。
マゾヒストて――信じがたい名乗りである。
しかし名前にツッコミが入ることもなく、学院生たちは慣れた様子でそれぞれの待機位置に足を運んでいく。
どうやら初体験者はブランのみのようであった。
すると、眼鏡のニナが腰の花柄の魔導書に指を添え、踵を返した。
「ん、私一番最初だからもう行ってくるね」
「おう行ってら」
「頑張ってね」
見送る二人に釣られ、ブランも手を振って駆けていく後ろ姿を眺める。
「そっか、ブラっち当然『集令測定』も初めてだな」
「う、うむ」
「立て込んでたから全然そこら辺説明できてないわね。ええと……ブラン君は魔法使えないのよね? 一応、集歌と令歌の仕組みはわかる?」
集歌と令歌は魔法を発動するための詠唱である。
ブランは自身の身分を隠すため、表向きには集歌を使えないことにしている。
当然知識は並程度には持ち合わせているため、あまり不自然にならない範囲で答えてやる。
「ああ、大気中の精霊は集歌を唱えると集まってくる。そして粒子となって集まった精霊に魔法現象を起こすよう命令するのが令歌であろう?」
「うん、それで集歌と令歌の効果だけど、皆同じように唱えても人それぞれ魔法の規模や精度に違いが出るのも知ってるね?」
「『集歌効率』と『令歌変換率』だな?」
それぞれどういう率であったかと考えていると、リズリーがライチの肩を揺すって朝礼台の方を指さした。
「お、ニナ始めるみたいだぜ」
「丁度いいわね、説明はニナの『集令測定』見ながらにしましょ」
視線を向けると――ドゥエムと名乗っていた大男が朝礼台から飛び降り、腰を落として気合一発。
ローブと上半身の衣服を弾き飛ばし、半裸になったところであった。
「……すまぬが、ただちに説明を求めて良いか?」





