4-3 熟練の冒険者ジャッカル・バイソン曰く
さざ波が音を奏でる浜辺。
快晴の日差しに照らされ――横たわる漂流者がいた。
嵐の夜に従者の命と引き換えに生き延びた彼は、流れ着いたこの場所で不思議な出会いを果たすこととなる。
「ん、う……」
強い日差しを受け、漂流者は塩辛い白砂の香りにむせた。
うつ伏せのその身を起こし、熱気の篭ったフードをめくる。
青年はぱっつりと切り揃えられた銀髪を振るい、褐色の頬に付着した砂を拭った。
寝ぼけ眼で周囲を見渡せば――そこは人気のない砂浜であった。
目下の砂には美しい貝殻が散りばめられており、目線を上げれば鬱葱と茂る熱帯樹林が広がっていた。
そして、振り向けば、大らかに揺蕩う海が、さざめきを響かせ水平線まで続いていた。
「……爺、や」
嵐の夜は跡形もなく明けてしまった、数少ない理解者を連れ去って。
ぼんくらを自負する青年であったが、直感的に、世話役の老兵の運命を悟った。
「一体……何なのだ……余などの命に、何の価値があるというのだ……あんな……」
老兵の最期の剣戟が鮮明に思い出され、途端に目頭が熱くなる。
しかし青年は、涙を堪え切った。
男児なら泣くなと教えてくれたのは老兵である。
咎める張本人がいないからと教えを簡単に破るのは憚られた。
「違う。爺やは強いのだ。絶対、絶対に生きている。爺や、余は……必ずまた見えに行くぞ」
途方に暮れないための方便であっても、そう信じれば目的と支えを得ることができた。
これもまた、老兵の教えである。
――闇に絶望するなかれ。
闇とは目が見えないだけのことである。
まずは自身の希望の火を灯せ。
その火を手に他の火を探せ。
やがて巡り合いが火を集め、闇を照らし、振り払うであろう。
「……まずは生きねばな」
最後に一度だけ目頭を押さえて、青年は力強く前を向いた。
◇◇◇◇◇
とは決意したものの。
「一体ここはどこなのか……?」
腹の虫が鳴って。
「一体どれほど気を失っていたのか……」
とにかく行動をしなければならない。
「腹具合は……以前五日ほど究極恋愛物語を読みふけった時と同じくらい」
全二〇状確認をせねば」
――白浜に広げたのは、身に付けていた道具一式であった。
――その数、たった四つ。
お金は、ない。
襲撃の最中に落としたらしい。
割れた懐中時計。
使い道はないが、王家由来の装飾品であるため、捨てるわけにはいかない。
首にかけて懐へと隠した。
鎖縛された魔導書。
ここまで逃がしてくれた老兵の苦労を無駄にするわけにはいかない。
故に使うわけにもいかないが、やはり捨てるわけにはいかない。
腰のベルトへと括りつけた。
サバイバルナイフ。
老兵が選んでくれた片刃でしっかりした造りのもの。
使い道が多いことは知っているが、使ったことはない。
そして――手帳大の教本。
ジャッカル・バイソン著、『初心者でも簡単! 誰でもできる冒険てほどき』。
かつて、老兵の勧めによりサバイバル教本を一つ購入した。
まだ読んでいないがこの逃亡生活において助けになるのではと持ち歩いていたものである。
「ふ、ふふ、余、冴えているぞ」
サバイバル教本はこの状況にうってつけの一品である。
早速ナイフ片手にページを開く。
ジャッカル・バイソン曰く、次の通り。
――まず何よりも大事なことは食糧確保である。
血と肉となるものがなければ未開の大自然を生き抜くことはできない。
「うむ、尤もだ」
――ここに、食糧確保の基本的な方法の三つとして、魚、鳥、鹿の獲り方を記そう。
「ふむ、簡単そうなものから見ていくかの。まずは、魚の獲り方とな」
――釣り。
最も簡単な食糧確保の方法である。
まず、市販の釣り竿に餌をつける。
「市販の、釣り竿……市販の?」
最も簡単といえば、それはそうであろう。
釣り竿を使った釣りであれば、青年でも数匹を釣り上げた経験がある。
しかし今はその釣り竿がないのである。
当然釣り具店もない。
記されるべきは、釣り竿を用いない魚の獲り方、または釣り竿の作り方ではないのか。
ページの隅から隅まで、くまなく探す。
「そういうことは……書かれていない、とな?」
お勧めの竿は『カズマロッド-E211 カージョナモデル』らしいので、表紙を見直す。
「サバイバル、教本?」
タイトルの触れ込みに疑問を感じつつも、青年は生来穏やかな性格であり、激昂することはなかった。
気持ちを切り替え、次ページをめくる。
「ま、まあ、最も簡単という方法であったしな。次は、鳥の獲り方、か」
ジャッカル・バイソン曰く、次の通り。
――鳥撃ち。
難易度は高まるが、水辺が近くにない場合に有効な方法である。
まず、市販の弓に矢を番える。お勧めは……。
温厚な青年は、本を砂浜に叩きつけた。
「何故だジャッカル・バイソン! 何故大自然の中に店を構える!」
肩をいからせて絶叫すると、その声は数回反響し、さざ波に消える。
ことごとく成熟した社会に依存するサバイバル教本の意義に腹が煮えくり立つ。
この怒りを分かち合う相手がいなくて、更に腹が立つ。
腹が立つと、腹が減る。
食料と怒りの矛先を探して、青年は視線を熱帯林へと向ける。
ヤシのような単子葉植物が茂っている様子から、栄養価の高い野草も期待できそうであった。
蔑んだ視線ではあるが、一応、砂浜に落ちた教本にもう一度視線をくれてやる。
「……食える野草くらいは、載せているのであろうな?」
――野草は苦くて美味しくない。食べない方が良い。
「ジャッカル・バイソン!」
再び本は叩きつけられた。
◇◇◇◇◇
青年は、熱帯林に入ることにした。
ヤシの実のようなわかりやすい果実があれば、教本の知識に頼らずとも食料にありつけると考えたからである。
右手のナイフで障害となる枝葉を切り落とし、左手のサバイバル教本で茂みをかき分ける。
ローブは蒸れる上にあちこちに引っ掛かるので、風呂敷のようにまとめて首に巻いた。
「む、ここは……」
そうして進むこと数分。
青年は茂みの向こうに幅広の獣道を見つけた。
足を踏み入れなかったのは、その獣道に原因不明の違和感を覚えたからである。
茂みに隠れたまま様子を伺う。
まるで巨大な何かが這いずってできたかのような獣道に、それはいた。
「……鹿?」
大きい。
蹄から肩までの体高すら青年より高く、獣道の潰れた草を食む面長の頭部には、三つ又に分かれた太い角が生えている。
灰色の体毛の上からでもわかる隆起した野性の筋肉が、溢れる生命力を示していた。
「……」
一応、教本を開く。
――鹿狩り。まず始めに、頑張って鹿を倒す。
その後の血抜きであるが……。
閉じる。
食料としては申し分ない。
狩ることができれば数日の食料にも困らないであろう。
「だが……」
手持ちはナイフと教本のみ。
魔法も使うわけにはいかない。
ナイフをあの首元にでも突き立てられれば良いのだろうが、それはあまりにも危険である。
引きこもりがちな青年は体力に自信がなかった。
こんなことになるまで、老兵の指南から逃げ続けた自分に心底愛想が尽きる。
――過ぎた獲物であった。
青年が諦めて踵を返そうとした――その時である。
「おりゃあああ! 食らえ馬鹿鹿ぁ!」
鹿の背後の茂みから、コマのように双剣と黒髪を振るい跳びかかる少女がいた。





