幕間 カージョナ滞在記② ~お疲れさま~ 2/4
カッポーンと。
男湯。
湯けむりの立ち込める御影石の洗い場。
人はまばらで、金髪の父子が背中の流しあいをしている程度であった。
番頭から貸し出されたのは洗い用のタオル。
元の世界ほどふわふわした生地ではないものの、厚手でしっかりと織り込まれている。
悠太は桧のような木の椅子に臀部を乗せ、頭からシャワーを被った。
首都の『大鯨水栓』と呼ばれる衛生設備で、壁に取り付けられた銀色のシャワーヘッドからは少しぬるいがしっかりとお湯が出る。
細かい原理は少年の知るところではないが、どうやら魔法により熱を発生させているようだ。
「おお、イトネンさんのとこより高級っぽい」
少年が身を寄せる宿屋にも大浴場があり、彼も使わせてもらっている。
高級住宅街であるこの九時街のものよりは質素な木造りの浴場だが、非常に広いのが特徴的であった。
「カペル村にも、一応あったはあったなぁ」
熱源の魔導符は彼の魔物のせいで全部防衛用に回されていたので水風呂であったが。
つまるところ、この世界にはなかなかの衛生観念がある。
とりわけ首都は治水のレベルがかなりの水準で、中心部の『逢王宮』と呼ばれる巨大な宮殿内には、七日七晩分の雨を生み出す魔導具『大鯨の天蓋』が備え付けられており、街の隅々まで水が行き渡るよう水路が組まれているため生活用水に困らない。
そのお陰で現代日本とそう変わらない衛生環境にいられることを感謝しつつも、悠太はいつも首を傾げるのだった。
「……の割りに、電気製品とかはないんだよなぁ。
このくらいの雰囲気のヨーロッパって電球とか電話あったんだっけか?」
スマホも教科書もない山田悠太高校二年生の頭には、電話の発明者がベルさんだという記憶しかないのであった。
元の世界に帰ったらもっと世界史をちゃんと勉強しようと誓いつつ、これまたどの時代からあったものかわからない石鹸を使用し身体を洗っていく。
シャンプーはないので髪も石鹸の泡でワシャワシャと掻き混ぜることになる。
水に流して、桶にたまった水で流し残しがないか確認する。
元の世界の銭湯のように洗い場に鏡はないのである。
「何つうか……」
――この世界の文明に触れる度に不安になる。
衛生面は完備されながら、電気の利便性は欠片もない。
雲鼠やその他魔物がいる一方で、馬や牛もいる。
顔立ちも肌の色も、西洋人から東洋人までかなり多様性があるのに、言語は日本語で統一されている。
世界について考えればテーマパークのようにどこまでも造り物じみているが……命だけが生々しい。
一人になるといつも考えてしまうこの世界について。
不意にクラっと前のめりに体が振れて、おでこが石壁にぶつかった。
「痛っ……あーもう、本当にちょっと眠い。いかんなぁ」
山田悠太は、疲れていた。
昨日まで冒険者ギルドのクエストで三日ほど山の中、騒がしい黒髪の少女とクエストをこなしていた。
またクエストが終われば休めるわけではなく、街にいる間は世話になっている宿屋の食堂を馬車馬のように手伝わなければならない。
なおバイトは冒険のせいで出れなかった分を別日にきっちり振替させられるため、夜はまた馬車馬のように働くことになる。
本当は凄く眠い。
本来なら今頃、疲れを癒すために自室のベッドで泥のように寝入っているはずであった。
それを妨げたリズリーという魔導学院の女生徒には大いに不満があった。
「けどなぁ」
しかし今、山田悠太が逃げ出してまで眠りたいかというと、そうでもない。
むしろ、寝たくなかった。
思わぬ形でライチ・カペルとのデートが成立してしまったからである。
その赤毛の少女は、この世界で初めて出会った人で、命の恩人で、共に魔物を討った戦友で……それらのせいで悠太の想い人であった。
首都を訪れてそれぞれ冒険者ギルド、魔導師ギルドに入った二人であったが、ギルドの生活は想像より忙しく、また特別会う目的もなかったので顔を合わせたのは一週間ぶり程となる。
そのためムードもへったくれもない幕開けではあったが、どうやら彼女と一緒にいられるらしい時間を作ってくれたリズリーには感謝もしている。
悠太はぶつけた額を摩りながらシャワーを止めると、立ち上がって洗い場の奥へ進んだ。
日本の銭湯のように洗い場と浴槽が同居しているわけではなく、大浴場に続くらしい暖簾が壁の片隅にある。
暖簾の手前に「これより先、腰にタオルを巻いてください」と書かれていたので、腰元でギュッと縛って大浴場へと進んだ。
「おお……」
悠太の目の前に広がったのは、黒い御影石の中に翡翠色に輝き、湯気を立ち上らせる大浴場。
泳げそうな程に広いお湯の大海には、人っ子一人いない。
まさに貸し切り状態であった。
飛び込みはしないまでも、ザブザブと惜しみなく飛沫を立てて入湯し、浴槽の中央にでかでかと置かれた騎士の彫刻の台座に背を預け、肩まで浸かる。
「流石九時街、凄いな……こりゃ格別だわ」
星天の薄亭の木目調の浴場も木の温かみがあって悪くないが、こうした高級感のある浴場で、しかも貸し切り状態というのは非常に気分が良かった。
浮力に任せて腕と脚を伸ばし漂わせると、冒険やらバイトやら、先ほどまでの疲れが落ちていくのを感じる。
特に手先足先がお湯の熱に揉み解されるような感覚が心地よく、少年の瞼は重くなってくるのだった。
「あー……極楽……今頃、ライチもくつろいでるんかなぁ……――」
などと、意識まで揉み解されて寝てしまいそうになっていると、不意に戸惑いがちな声が降ってきた。
「……の、のぼせる、わよ?」
凛とした声色はどこか気恥ずかしそうでもあった。
「ああ、ご忠告……」
ありがとう、などと視線を向けた先に、濡れた赤毛があったものだから。
「ぶっは!?」
溺れた。少しお湯飲んだ。少ししょっぱかった。
「ぷはっ!」
腕を突っ張り、尻もちをつく形で見上げる。
湯煙の中には――水を滴らせる赤毛。
赤らんだ頬、雫の貼り付いた白い鎖骨、胴に巻いたタオルを胸元でキュッと抑える細い指。
抑えつけられて窮屈そうに零れる先を探す丸い膨らみ、膨らみの存在に吊り上げられ短く際どくなったタオルの丈から白く張りのある太ももが伸びる。
エロい。
湯あみ姿の少女を直視した少年は、固まるより他になかった。
「だ、大丈夫?」
心配を口ずさむ唇は艶やかで、潤んだ青い瞳は少年を困惑した様子で映していた。
悠太は鼻に血が上る感覚を摘まんで抑えて、やっとこさ叫び声をあげた。
「ラララライチ!? 何で男湯、いや俺が間違えたのか!? すまんすぐ出てくから!」
「お、落ち着きなさいって、大浴場は混浴よ」
四つん這いで逃げようとしていた悠太の身体が止まる。
諸所を見ないよう見ないように配慮しながら振り向くと、気まずそうな赤い顔は照れを隠すようにトプンと湯に座り込み、彫刻の台座に背を預けた。
伏せがちな青い視線があちこち迷いながら悠太の視線と交錯して、少女の隣へと誘う。
気まずい沈黙の後、悠太は背を向けたままスイーっと寄って行って、赤毛の少女の隣に背を預けた。
「オジャマシマス……」
◇◇◇◇◇
カッポーンと。
混浴の湯に、二人きり。
翡翠の波紋が、少し身をよじれば肩が触れ合う距離にいると教えてくれる。
悠太は理性の力で視界を正面に固定しているのだが、思春期真っ盛りな黒い瞳は、何度も何度も葛藤に負けて隣をチラ見する。
正直鼻を伸ばす余裕もない、今は全力で、男の下心を、助平心を隠し通さねばならない時間帯であった。
理性と思春期を戦わせるのに忙しく、なかなか言葉が繰り出せない。
――同じ湯に浸かる少女は少女で、日頃から友人から教えてもらっていた有難迷惑……『ヤマダ・ユータ悩殺術』を試したにも関わらず反応が固いことに少し不安を感じていた。
かなりの恥ずかしさを抑え込んで、大胆に、勇気を出して声をかけたものの、どうも彼との距離が縮まった気がしない。
――ライっちが湯あみ姿の一つや二つ見せれば野郎なんざイチコロ、即座に襲い掛かってくるって。
日頃から、そして出発前にリズリーが囁いた話と違う。
話通りでも困るのであるが。
それではなぜ自分は行動に移してしまったのか、などと深層心理が問答を始め、言葉が繰り出せない。
結果として大分気まずい沈黙ができあがってしまい、赤面する二人は延々湯の中で黙りこくるのであった。
沈黙を破ったのは、暖簾をくぐって入ってきた子供の元気声。
「パパすごいよ! ガラガラだよ!」
「おぅい走ると転ぶぞ」
先ほど男湯の洗い場で背中の流しあいをしていた金髪の父子が入ってきたのである。
そして、また別の方向からも声が響く。
「あら本当にガラガラね、ミルロ、ちゃんと頭も洗えた?」
女湯から入場してきたのはライチと同じくタオルを巻いた母親らしい女性であった。
大浴場で合流した三人は、湯に入る際にこちらに会釈して、「飛び込みはやめなさい」だの「パパの背中流してあげた」だの「偉い偉い」だの、団らんを楽しみ始める。
――混浴の正しい在り方を教えられたような気がして、ドギマギしていたこと自体に恥ずかしさを覚えた。
ふぅ、と二人して息を吐いて、張り詰めた顔を緩め、高ぶっていた鼓動を収めた。
「……いいわね、ああやって団らんの時間を過ごすの」
「そう、だな」
だが、会話は続かない。
「俺のいた世界にも、混浴ってあるらしいんだよな」
「そう、なんだ?」
「まあ俺行ったことないんだけど」
「何それ」
会話は、続かない。
ドギマギこそ抑えたものの、脳の中は未だに散らかっていて片付けるまで話題を探すのは難しそうである。
脳細胞が片手間に寄こすのは、ありきたりな言葉ばかり。
「今日、天気いいよな」
浴場から空は見えないけど。
「うん、いい天気、と思う」
言葉が、続かない。
昨日の冒険の土産話でもしようとしたが、要約すれば森を散策して帰ってきただけなので、どうも話題としてはいまいちと思った。
自分の話は手一杯と諦め、悠太はこれまたありきたりな質問で、語り手を隣の少女に譲ることにした。
「で、そっちはどうなんだ? 魔導学院だっけ、魔導師ギルドの方は」
質問してから、結構ナイスな質問だったのではと自画自賛する。
そういえばお互い慌ただしくしていたせいで、近況は伝えあえていなかった。
渾身のありきたりな質問に返されたのは、吹き出す笑みだった。
「ぷっ、ふふふ、男の人って皆それ訊くの? この前届いた村長とカーレお爺ちゃんの手紙にも同じこと書いてあったわよ?」
そりゃありきたりな質問なのだから、誰もが聞くであろう。
しかしそのセンスが彼女の故郷のご老人と同じであることは、若者としてやや微妙な気分である。
「いやまあ、あはは」
これもダメだったかと、誤魔化しの笑いの裏で次の質問を考える。
しかし、意外にも次に声を上げたの赤毛の少女の方であった。
「楽しいよ、毎日」
浴場に響いた声は普段の、落ち着いて優しい響きであった。
「魔法の講義を聞いて、図書館で色んな本借りて、読んで……知らなかったこと、気づけなかったことをいっぱい学べる。
魔法の成り立ちや仕組み、これからの改良方法……例えばこんな魔導陣組んだら助かる人いるんだろうなーとか、こういうことが便利になるんだろうなーとか、夢がどんどん広がっていくの」
出がけのひと悶着の通り、彼女は魔法の研究に没頭する毎日を送っているようである。
悠太は首都に着いた時、彼女がどんな心構えで魔法を学ぶのかを聞いていたから、自然と頬がほころんだ。
「良かったな。夢を追いかけられる場所なんだ?」
「……まあ、知れば知るほど、あの頃のがむしゃらなだけだった自分に腹が立ったりはするけどね」
自虐気味の言葉は、どこか思い詰めて聞こえて支えてやりたくなるものであった。
「ライチ……」
彼女の顔が曇り始めたとすれば慰めなくてはと、少年は久方ぶりに少女の方を見た。
返されたのは、パシャっと撃ち出される手の平で作った水鉄砲であった。
「うぉあ!?」
「なんてね」
水滴を拭った視線には、上目遣いの青い瞳があって、悪戯っぽい笑みが何より悠太の視線を引き付け、くらりとさせるのであった。
――少し大胆になってみた少女は、自分では砂吐きものと思ったやり取りにまた気恥ずかしさを感じて視線を逸らす。
隣の少年の、それほど太い印象のなかった腕と、それほど厚い印象のなかった胸板、それほど色っぽい印象のなかった黒い瞳、濡れた髪。
出会った時からどんどん頼もしくなって、会っていない期間は一週間程なのに見違えるように身体も逞しくなっている彼を正視していては、心臓がいくつあっても足りないのであった。
だから湯気の中に故郷を描いて気持ちを落ち着かせる。
「後悔の気持ちはね、手紙で村の近況を教えてもらったから少しは和らいでるの。
今は若い人たちも半分くらい戻ってきてくれてて、畑の復興も進んでるみたい。
来年にはまた名産のウバ茶も摘めるだろうって」
きっと次に村へ戻った時には、かつての緑を取り戻している。
その確信をくれたのも、今の知的好奇心に溢れた生活に踏み出させてくれたのも、隣の少年であるから、少女は……今日はもう少しだけ大胆になってみようと思った。
「……その、改めて、ありがとう、ね?
村のこと、救ってくれて。本当に感謝してる。おかげで私、前を向けるようになったの。
本当に、その……ユータと出会えて良かった、と言うか。私の一番、大切な出会い、でした、と言いますか何と申しますかその……」
踏み込み加減がわからなくて、口走りすぎた自分の言葉が諸刃の剣となる。
これ以上のセルフ辱めに耐えられなかった少女は、正面、湯気の立つ温泉に視線を固定した。
「いやあの違うのよ、ほらユータに会ってから首都に来て魔導師ギルドに入って魔導学院に入って沢山出会いがあってね、うん、どれも大切な出会い、リズリーやニナは良くしてくれるし、変なお嬢様が突っかかってもくるけど彼女の魔法は凄くお手本になるし、講師の人たちも先輩たちも親切でね、全部大切な出会い――」
今日の大胆はもうお終い! とばかりに口早に放った誤魔化しは、思いもよらず遮られる。
――ピト、と黒い髪が白い鎖骨に貼り付いた。
「ひぁん!?」
驚いてあげられ声に怯むことなく、続いて胸元に頬が擦りつけられる感覚。
肩口に体重がかかり押し倒されそうになり、ライチは慌てて正対し彼の体重を支えた。
密着した肌が火傷しそうな程に熱い。
想像以上にごつごつしている男の身体が、重力に従って、湯に滑って、少女の柔肌とこすれていく。
「ちょ、ちょとユータ!? こんなとこで何して、人いるから……!」
胸の二つの丸みに埋まった彼の顔が、吐息を谷間に吹きかけて、もう駄目であった。
――ライっちが湯あみ姿の一つや二つ見せれば野郎なんざイチコロ、即座に襲い掛かってくるって。
「ん……あ」
漏れた己のいやらしい声に、血がカッと熱された。
「アホユータ! まだ駄目ぇ!」
突き返した悠太の身体は、何の抵抗もなくバシャンと飛沫をあげてお湯に倒れた。
思わず立ち上がって距離を取った少女は、耳の先まで真っ赤に染めて、肩を上下させた。
そして湯けむりの中に、ようやく少年の行動の理由……というより原因を見つけた。
「……ユータ?」
プカリと浮かぶ悠太少年は、顔どころか身体まで真っ赤に染めて、目を回して浮かんでいる。
「ちょ、嘘でしょホント……? ユータ? ユータさん?」
山田悠太は、疲れ切っていた。
「すみません助けてください! 連れがのぼせました!」
疲れ切った山田悠太は、そのまま家族客のお父さんに連れられて脱衣所まで引き上げられていくのであった。
――残された赤毛の少女は、タオルの貼りついた自らの華奢な身体をギュッと抱き締めて、「アホ、バカ」と悪態を呟き続けるのであった。
「ママぁ、あれなぁに?」
「ミルロあれはね、青春って言うのよ?」





