幕間 カージョナ滞在記① ~普通のこと~ 中編
調教師ギルドで雲鼠を借り、平原を走らせること半日。
途中で馬車の一団を追い抜いた。
追い抜き様に言葉を交わすと、どうも彼らが救助隊のようであった。
見た限りのペースでは今日の時点での到着は難しそうだったので、先行して抜き去る。
そして学ランの少年と黒髪の少女は、夕刻、鬱蒼と茂る広葉樹林に辿り着いた。
到着するなり、夕日が照らすわずかな時間を捜索に宛てたが、行方不明の彼女らは見つからなかった。
――日が沈んで、入れ替わりに天空を制した満月が浮かぶ。
エルナインの夜は明るい。
蒼く照らすという表現がよく似合った。
「結構夜でも明るいんだよな、エルナインは。まだ探せそうだな」
林道の脇、巨大な倒木の周辺。
芝の一画を拠点と決めつつ、ユータは尚も捜索を続けたかった。
「やめときなよ。デカい木が多いし、月明かりも草っぱらの中まで照らしちゃくれない。表面だけ明るいけど、林道から外れたら沼みたいに足取られるよ」
言いながら少女は、捜索と併行して拾い集めていた枯れ木を下ろす。
流石はカージョナに流れ着く前まで5年も単身放浪していただけあって、焚火の組み方にもそつがない。
「今日はここで野宿。ミイラ取りがミイラになってもしょうがないだろ?」
こうしている間にも行方不明の二人が危険に晒されているかも知れない。
最高の結末を手にしたい悠太は少々納得いかないが、最悪の結末を避けるべく少女が提案をしてくれているのはわかる。
しばらくの葛藤の後、悠太は大人しく従うことにした。
焚火を灯して。
それぞれに身の回りのスペースを過ごしやすく弄って。
悠太は倒木に背を預け座り込み、ネピテルは荷袋を枕に焚火の横に寝転んだ。
風のない夜だった。
それでもわずかな空気の通り道を広葉で捉える樹林は、ザワザワ、ザワザワと蠢く。
リーッ、リーッと謎の虫が鳴いて、パチ、パチと焚火が弾ける。
色々な音に囲まれていて尚……静かである。
「野宿は、この前と同じで、いいのか?」
静寂に賑やかしが欲しくなった悠太は、足を組んで横たわる少女に声をかけた。
「いいよ、ユータは爆睡してて結構。危機感知は眠りの浅いボクに任せときゃいいのいいの」
「うーん、いくら慣れてるっつっても、やっぱ交代で見張りに起きてたほうがいいんじゃないか?」
女の子に任せきりというのは、流石に男の子としては気が引けた。
「前回の冒険、そうやって無駄に気遣って、意固地に起きてて、結果どうなったよ?」
「……二日目はフラフラで大変ご迷惑おかけいたしました」
「そういうこと。素人の坊やはボクに大人しく従ってればいいのでーす」
得意げな語尾と手をひらひらふる仕草で「さっさと寝ろ」と伝えてくる。
悠太としてはこの前の失態の原因には寝不足の他にも、誰かさんが初日に食料を全て食べつくしたこともあると思っているので、心の底から従いたくはなかった。
まあ休んで明くる日に役立つほうが賢明かと落としどころを見つけ、悠太も荷袋を枕に横になった。
再びリーリーと謎の虫が鳴いて、パチパチと焚火が弾け、意識が夜に溶けて、溶けていく。
その時であった。
「――ぁ」
わずかに。
「――ぁっ」
夜の森ではない雑音が入った。
遠い声、女性の声であった。
既にまどろみに落ちかけていた少年は迷惑そうに呻る。
「おいネピテル……変な声だすなよ、修学旅行の夜じゃねぇんだから……」
「ボクじゃない。ってか、シューガクリョコーって何」
男子部屋では深夜帯のみ通じる変な吐息やおならの真似で笑いを誘い、他の者の眠りを妨げるのが通例である。
「んにゃ? お前じゃないとしたら……」
少年の寝ぼけ声に対して、少女は普段のおちゃらけ具合から想像もつかないほどに凛としていた。
「誰だろうね?」
その問いかけのおかげで、意識は完全に覚醒する。
「シーガナさんたち!?」
悠太はバッと飛び上がり、片膝をついて警戒体勢を作った。
既に同じような体勢のネピテルは、口元に人差し指を当てて樹林の奥を示す。
「――ぁ、ゃ」
声は、月明かりのカーテンの奥から響いているようであった。
その響きは……どこか快楽に喘ぐような、嬌声じみて聞こえた。
――山賊に慰み者にされているのです!
自然とギルドで父親が言っていた妄言がよぎる。
多分赤みが射している顔をしかめ、悠太は『大蔦豚の篭手』を装備した拳をギュッと握る。
「まさか、本当に山賊が?」
少年の問いに少女は問いに答えることなく、手元でこのクエストの資料をめくっている。
「――ぁ、やぁぁっ」
嬌声がボリュームを上げ、痛みと恐怖が混じった悲鳴として届いた。
即座に悠太は倒木を飛び越え、駆け出した。
「行ってくる! 助けないと!」
「ちょ、ユータ! ……もう馬鹿!」
月明かりと影のストライプに踏み込んだ相棒の後ろ姿に、少女は慌てて資料を閉じ、追いかけた。
林道から外れ、蒼く碧の視界を駆ける。
膝ほどまで伸びた草を踏み分け、太く緩やかに曲がった木の幹を避け、ザッザと声のするほうに。
「――ぅぁ、ぅぅんっ」
声がもう一人分増えた。
先に聞こえたものより少し低い、ボーイッシュな声。
「ヴィクティアさん、なのか……?」
頼りは声だけ。
不確定要素の多い中、焦る頭で会敵を想定する。
ちらりと後方を見れば、幸いにもネピテルはついて来てくれている。
であれば女性二人は少女に任せて、自分が賊と対峙すべきであると考えた。
人と対峙して野蛮に戦うこと。
元の世界では全く縁のなかった行為だが、幸か不幸かこの世界、とりわけ拠点の首都では大いに危ない奴らと対峙した。
その経験があるから、悠太は迷うことなく声の先へ走ることができた。
やがて――碧の景色が開けて、丸く青白い月、深い藍色の空、蒼く照らされた膝高の草っぱらが広がった。
「……あれ」
以外にも、人影は二つのみであった。
月下の草っぱらには、茶色と青の長髪を垂らした女性たちだけ。
いかがわし気な山賊どもの姿は見えなかった。
勿論、いかがわし気な行為をしているわけでもない。
ただただ、俯いて表情の見えない女性が二人、佇んでいるだけだ。
夜風に揺れるは、月明かりと同じ色のワンピース。
父親から聞いた特徴と一致している。
「あの……シーガナさんと、ヴィクティアさん、ですか?」
悠太は切らした息を整えながら、一歩踏み出した。
すると、呼びかけに応えるかのように、二つの人影はこちらに歩き出した。
悠太が歩み寄るのを躊躇したのは、どうも様子がおかしいことに気づいたからだ。
二人とも歩き方がぎこちなく、前方に下ろされた長髪のせいで顔が見えない。
ガサリと音がして、悠太の隣に黒髪の少女が追いついた。
「はあ、はあ、ったく一人で突っ走りすぎ。で、なんか、ちょっと嫌な感じなんだけど?」
「俺も同感だわ……けど」
街では彼女らの帰りを待っている人がいる。
どうやら生きているようではあり、保護する以外の選択肢はないであろう。
むしろ山賊やら魔物やら、面倒な奴らがいなくて良かったと、悠太は歩みを再開する。
数歩で二人と向かい合って、おずおずと尋ねる。
「あの、大丈夫、ですか?」
返答はない。
二人は沈黙して佇んでいる。
「えっと、シーガナさん、ですよね?」
焦げ茶の髪と、空色のワンピースの女性は黙ったまま。
そう黙ったまま……もう嬌声などあげていない。
夜風が、彼女の長髪を撫でて、その顔を月明かりに晒した。
左目がない――その目のあるべき場所から、太い針が突き出ていた。
「ぁあん」
だらりと生気なく垂れた舌が奏でた。
「ユータ下がれ!」
身体は咄嗟に少女の叫びに従った。
バックステップを踏んだ視界、にも関わらず、シーガナだった者の顔から突き出た針が悠太に向かって更に突き出される。
連動してシーガナの身体が、顔が追うように迫ってくる。
「な、何がどうなって……ステータス!」
悠太は片手を前に、ゲームの『ステータス画面』を念じる。
それは、山田悠太のレベルが、HPが、攻撃力が、使用可能魔法が記載された光の板。
そしてその光の板は、世界の理を無視するものである。
少年にしか見えず、しかしそこに確かに存在し、決して移動せず、全てを粉砕し、何者にも粉砕されない画面。
少年の胸を貫かんと突き出された顔付き針は、光の板に弾かれ、女性の身体を揺らす。
悠太とネピテルはその隙に距離を取り、改めて、月下の異様な光景に愕然とした。
「さ、蠍だ……?」
ネピテルが呟いた。
その手に持つ羊皮紙には、長い尾でカエルを貫いて掲げる蠍が描かれていた。
「こんな……」
悠太の口から声が漏れた。
こんなことが許されるのか。
青髪の女性の顔の上半分、眉間からも、針が突き出ていた。
よくよく観察してみれば、後頭部の首元には、極太の蠍の尾が突き刺さっている。
足元を見れば、力なく吊り下げられた身体の足首を、鋭利なハサミが支えているようであった。
その尾とハサミの持ち主の顔は、草っぱらの下で赤い複眼を光らせる大蠍。
悠太の心が持たなかった。
「うっ……」
吐き気を催して、口を押えた。
「怯んでる暇ないよ! 来る!」
青髪の頭部を貫通した針がネピテルに迫る。
少女はその腰に下げた漆黒の双剣を一振り抜いて、針を逸らしながら後ろへ飛ぶ。
飛びながら、悠太をもう一度呼んだ。
「ユータ! ボケッとすんな!」
はっとした瞬間には、悠太の眼前には女性だった者の顔があって、残った虚ろな右目がぐるんと回った。
「ス……っ」
ステータス画面を出すことができなかった。
シーガナの……人間の身体を、壊してしまう距離であったから。
「くそ、こんなのって」
左手でなんとか針を掴み、右手をシーガナの口元に押し当てて防ぐ。
眼前で迫るそれは、どんな獣より、魔物より、武器よりも悍ましい。
シーガナの顔は、まだ弾力を失っていなかった。
かすかに、ぬくもりが残っていた。
血と唾液が、まだ豊富に散っている。
つまり――
「俺が……」
きっと今日までは、生きていた。
「遅かったから……?」
この世界に来て何度目であろうか。
何度戒めても一向に慣れない世界観――この世界はゲームのような世界であっても、ゲームの世界ではない。
救出イベントが発生するまで行方不明者が無事である保証などは、なかった。
それは今まで絶望寸前に間に合ってきた悠太にとって、心を圧し潰すに足る絶望であった。
自責の念をさらに責め立てるように、針を押す力が強まった。
女性の童顔から突き出た先端から粘液が染み出して、抑えている左手がピリリと痺れた。
力が入らなくて、押し負け始める。
粘液を滴らせる先端が、迫る。
同じように迫りくる、歪んでしまった端正だったろう童顔に、「お前のせいで、お前も来い」と言われた気がした。
針がトンと悠太の額に触れて――ツプと、皮膚に食い込んだ。





