2-7 たったそれだけ
視界が定まり、学ランの少年は木橋の上へと戻った。
「村は……」
眼前の村が騒がしい、空気が異様に埃っぽい。
悠太はすぐに駆け出した。
元いた世界より速く動けている。
ステータス画面によれば「山田悠太Lv.7」、身体能力は確実にレベルアップしていた。
広場に辿り着くと同時に、横から驚いた様子の皺枯れた声がかかった。
「貴方様は……」
「てめぇは……どうして」
村長とカーレ老人であった。
他にも複数人おり、村長以外は比較的動けそうな顔ぶれである。
その腕には武器に使えそうな農具を持ち、肩は既に苦しそうに上下している。
「よそ者、てめぇ、ライチに何を吹き込みやがった……あいつ魔導符を全部持ち出しやがって、一人で朝っぱらから追いかけっこしてんだぞ」
「朝から……? もう日が高い。やっぱ鳥でも数時間かかるのか……!」
焦った独り言はカーレ老人の神経を逆撫でしたようで、彼は農具を放り悠太の肩を鷲掴みにした。
「何もかもぶち壊しだ! 下手に抵抗しなけりゃ段々畑で待ち伏せにできた! そうすればワシらが、刺し違えてでも……!」
「それじゃ駄目なんだ!」
思わず肩を掴み返した。
「……すみません。でも、それじゃライチは、救われない。村もお爺ちゃんたちも、全部が無事じゃなきゃ救われないんです」
皺の奥、灰色の瞳が震えた。
「だから俺、倒してきます、今度こそ」
他でもない自身に誓って、悠太は広場へと進んだ。
その背中に、気丈さを保てなくなったカーレ老人の声がかかる。
声はどこか悔しそうに、震えていた。
「……頼む。お願いだ……あの娘だけは、ライチだけは、守ってやってくれ……!」
少年は散々彼らの都合を引っ掻き回した。
せめて背後からかけられた言葉だけは、絶対に守らなければならなかった。
石畳の中へと歩を進める――すると轟音と共に、広場に面した空き家が倒壊した。
立ち込める土煙から一つの人影が広場中央へと躍り出た。
続いてそれを追うように、二本のツタが伸ばされる。
悠太は一足で跳び、庇うように立ち塞がった。
一本を見極めて掴み、もう一本を、ステータス画面を念じて断った。
そして背中越しに、高揚した赤毛の少女と白毛を汚したハムスターに声をかける。
「わるい、お待たせ」
「本当に……戻ってきてくれた」
少し意外そうなライチがそういう可能性を考えていたことに、少しムッとする。
「俺、そんなに薄情じゃないぞ?」
「知ってるけど、だって……ううん、ありがとう。一緒にあいつ倒して、お願い」
「了解!」
掴んだツタも切り落とすと、それらは一旦退いていき、瓦礫を踏みつけて姿を現した巨獣が咆哮をあげた。
うねるツタの立て髪、隆起し湯気をあげる黒い筋肉、ボタボタ落ちる粘った唾液。
怒りの滲んだ豚の双眸は、ギョロギョロと殺気を放っていた。
「今日は完全に憂さ晴らしが目的みたい。畑には目もくれず、私を狙ってきたわ」
額に付けたはずの傷には、止血のためか防御のためか、覆うようにツタが生えている。
完全に仕切り直しというわけである。
「――来るわ」
ツタが四本、刺突するように真っすぐ伸びてきた。
ライチはマグレブに乗り、後ろへと飛び退いた。
悠太は正面のツタをステータス画面で受けると、真っすぐにバビルーザへと猛進した。
残りのツタが絡めとろうと迫ってきたので、それらも画面で断った。
「そういう探りはもう効かねぇよ!」
間もくれずに影が競りあがる。
「……って、マジか」
束ねられたツタで作った両腕が、たった今倒壊させた家の材木を振りかぶっている。
投げ槍のように放たれた一本を躱して、もう一本をステータス画面でいなす。
地面へと突き立てられたそれらがまた土埃を巻き上げる。
そうして作り上げた死角から、悠太の側面をめがけて極太のツタの巨腕が薙ぎ振るわれた。
右側にステータス画面を浮かべて防御すると同時……悪寒が走った。
「逆もかよ!」
逆方向からもツタの剛腕が薙いでくる。
ステータス画面は一つしか開けない。
悠太は腕でガードを固めた。
「がっ!?」
想像を絶する衝撃が走って、防御に使っていた画面へと叩き付けられる。
挟まれた身体からメキメキと音がして、ちらりと見たHPは二分の一ほどが削れている。
口の奥から鉄臭い血が上ってきた。
「こっちの仕様は、もう覚えたってか……」
バビルーザは見る。
人々の苦しみを、人の限界を、危険の存在を、危険が遠のくのを――敵の正体を。
痛みをこらえて体制を立て直す。
悠太は怯むことなく、木の集歌を唱えながら足を前に進めた。
バビルーザ相手には間合いを詰めたほうが安全である。
だから、ライチが潜り込めたようで何よりだであった。
正面から猛進する悠太に気を取られていたバビルーザ、その真上から太陽を背負ったマグレブが急降下する。
鞍に掴まるライチは魔導符をかざして、至近距離で唱える。
「コール『火ノ玉』!」
ぽひゅっと音がして、乏しい魔力の火球が放たれた。
それが、バビルーザに何とか着弾すると、なんと背中のツタへと一気に燃え広がる。
「ごめんお爺ちゃんたち、油も、少し貰ったわよ」
広場に出る際、最初にバビルーザが壊した空き家。
少女はその屋根裏に油の入った樽をしこたま運び込んでいた。
一撃必殺の罠は難しくとも、この程度のものであれば村中の空き家に仕掛ければ一つは当たるかもしれないと考えた。
「手応えあり……って、あ……」
点火の為に接近した彼女の眼が、バビルーザの身体に何かを見つけて、見開かれた。
刹那、禍々しい緑が騒めいた。
「ライチ危ない!」
「……くっ」
仰け反るバビルーザはツタで燃える背を叩き、苛立たし気に彼女たちに攻撃を振るった。
マグレブが左右上下に回避し距離を取るも、一本のツタを避けきれず、ライチが振り落とされる。
「けほっ……マグちゃん、私はいいから、ユータのサポートに回って!」
二人が稼いだ時間で悠太は自身に『治癒』を唱えた。
痛みが引き、身体が軽くなる。
「相手は俺だ!」
怒かれる眼光と再び目が合ったのは、もう数メートルの間合いに入った頃であった。
油を頭から被っていたにも関わらず、背の炎はもう消えていた。
生木は燃えにくいと聞くが、もう少しダメージが入ってもいいのにと舌打ちする。
「でもこれで、インファイトができる」
距離を縮めたことでバビルーザの攻撃に変化が見られた。
遠心力任せの打撃攻撃は減り、細いツタで手足の拘束を狙うようになった。
それは悠太にとって有利な間合いであった。
拘束はステータス画面で断ち切れば即座に抜けられる。
防御に割く思考のリソースを、攻撃に回すことができる。
「ここで終わらせる……!」
狂ったような咆哮の中、悠太は集中していた。
苛立ったバビルーザの前足が振り上げられ、蹄が彼のいた地面にめり込む。
威力は凄まじいが、やはりツタを駆使した戦闘の方が慣れているのか、精度は低い。
するりと躱して、手の平を硬質な脚の皮膚に当てた。
――そのステータス画面は世界の理を無視する。
手の平の数センチ先に現れ、その距離は絶対である。
既に物体が存在していれば、その内部を裂いてでも定位置に顕現する。
皮膚が弾けて鮮血が散った。
痛覚に届いていないのか、悲鳴はなく、怒号と共に大量のツタが手足を絡め取りにきた。
一撃を当てたことで気が緩んでいて、足の一本を取られる。
逆さ吊りに振り上げられるところを、マグレブの爪で解放してもらった。
礼を言う間もなく、バビルーザの大口が迫って来る。
目の前にステータス画面を置いて跳び退く。
牙がガキンと画面に引っかかり、噛みつきは止まる。
悠太一人くらい丸呑みにできそうな口内からは、生臭い温かみが漏れ出していた。
わずかに生じた隙、前に踏み込んでその豚鼻に手を伸ばす。
念じて、画面に再度吹き上がる鮮血。
今度は痛覚の鋭い箇所だったのか、バビルーザは大きく顔を振ってのたうち回った。
我武者羅に振り回されるツタと頭による大暴れ。
――つまり、今は追い打ちを食らいたくないということである。
この思考が、悠太の退避を鈍らせた。
「駄目ユータ! 下よ!」
ツタは離れた方が危ない、そう刷り込んで後退を封じる。
巨体で暴れて接近も許さない。
気付けば間合いは固定されている。
野生の感か、魔物の狡猾さか、いずれにしろ全ては計算されていた。
「なっ!?」
悠太の足元が盛り上がる。
ぐらついた体勢を、地中からツタの拳が突き上げた。
左半身が衝撃で痺れる、痛みはそのうち来るであろう。
空中に突き上げられて、景色が高い。
視界はやけにスローモーションであった。
眼下に映るバビルーザ。
その両端から、ツタを束ねた極太の挟撃が迫りくる。
回避のできない空中に放り出し、画面で防御しきれない二方向から攻撃する。
大暴れを回避したマグレブは遠い。
バビルーザ本体はもう、暴れてなどいない。
「はは、演技まで上手いのかよ……やられた」
詰んでしまった。
ゲームならここでコントローラーを投げ出して終了、やり直しである。
「ユータ!」
必死な叫びが届いた。
彼女はいつもこのゲームの世界を、現実だと思い出させてくれる。
そう、人生にコンティニューはないし、命に残機はない。
走馬燈にはまだ早い。
考えろ、考えろ、使えるものを全部使え。
死ぬのは何故か、攻撃を防げないからである、防げないのは何故か、盾が足りないからである、防がなければならないのは何故か、回避ができないからである、回避ができないのは何故か。
――足場が、ないからである。
空中で膝を屈め、身体を丸めた。
足元に向かって手をかざす。
念じたのは白く輝く光の板……足場ができた。
「せー……のっ!」
その足場を思い切り蹴って、バビルーザに向かって跳びこむ。
ツタの両腕ギリギリにすれ違った先、驚き見開かれた目があった。
大きな額に手の平を押し付けて、三度目のステータス画面を叩き込んだ。
額の皮膚が弾けて飛び散る血飛沫。獣の悲鳴が上がった。
今度は演技ではないと信じたい。
大きな顔に弾き出されて、受け身を取る。
――見上げるとバビルーザは激しく吠えて、村の入り口へと身体を向けたところであった。
奴の最も厄介な特徴は、退くことへの躊躇のなさ。
これは敗走ではなく、いずれまた悠太がいなくなった頃に村を襲う準備である。
「まだだ、逃がすかよ」
そういう行動を取るとわかっていれば、できることもある。
「よし、川の方向……追いつける」
次の動きを呟いて整理する。
地形は概ね把握している。
川の方角は森に入るまでに水辺や丘を挟むため、バビルーザの足止めができる上、マグレブの機動力も活かしやすい。
「大丈夫だ、前より分がいい」
追撃できると確信した、その瞬間――ぞわりと、悪寒が込み上げた。
前と、違う。
何が違うのか。
優勢であることは、イコール安全であるのかと、鼓動が尋ねてくる。
そして広場の片隅に戦況を見守る老人たちの姿を見つけ、不安に確証を得た。
「しまった!」
――ツタが伸びた。
前と違うのは、バビルーザ自身が置かれた状況だであった。
前は「引き揚げる」、今は「追い立てられる」である。
悠太たちに分があるのは、魔物自身も身に染みて理解しているであろう。
だから退散方法も異なってくる。
――人質。
村を長年襲ってきたからこそ、その有効性には確信があった。
適当に誰かを狙えば、誰かが庇うということも織り込み済みらしい。
「来るでないライチ!」
呼び止める村長の声も虚しく、割って入った華奢な胴がツタに巻き付かれた。
「ライチ……!」
無茶をするな、なんて言えっこない。
彼女が一番守りたいものが狙われたのだから、当然身を挺してでも庇うしかなかった。
マグレブと駆け寄ろうとするも、バビルーザも必死なだけあってツタの抵抗が激しい。
巨体はライチを引き寄せ、見せつけるように締め上げた。
「くそ……」
どこかで狂った歯車。
ただ一つのかけ違いなのに、致命的な一手に思えた。
冷や汗が事態を悪いほう悪いほうへと考えさせる。
しかし、絶望のビジョンを断ち切ったのは、凛とした詠唱であった。
「番う、焔よ!」
炎魔法の集歌。
黙らせようとギリリと締め付けが強められる。しかし、歌は止まない。
「――紅蓮の海に授かりし、げほっ、赤子の、胴の振るまいや、うた、げ……ふざけど、中道を!」
締め付けは更に厳しくなるが、彼女が縊り殺されることはなかった。
人質の価値は、両者とも理解している。
「大欲の業! 老、婆の……煙管!」
だから、悠太が理解しなくてはいけないのは、ライチの狙いであった。
「別れ歌……泣き翁の、がふっ、笑い、面……常夜に踊れ……」
天から赤い光が集まる。
しかし彼女の集歌で賄えるマナでは、碌な火球も生み出せない。
威力を強化する油も燃え尽きたはずである。
令歌で細かく効果を指定するつもりだろうか、だがどのような指令を出しても大した威力にはならない。
と、そこまで至って気が付いた。
「常世に……祭れ!」
赤い光も、ライチの視線も、バビルーザの頭上のツタの中へと向かっていた。
「マグレブ! 頼む!」
足を踏ん張り、彼女の意図に応えるべく手綱を掴んだ。
勝負は一瞬、彼女の伝えたかったことは……「もう一度、大きな隙ができる」である。
赤毛が戦乱に揺れて、こちらを見やる青い瞳と目が合った。
そして、不敵な笑みでそれは唱えられた。
「――コール『赫炎ノ爆発』!」
前の戦いで狙いを外したライチの槍は、今もバビルーザのツタに絡めとられていた。
その石突には、エクスプロードの魔導符が貼りついたままである。
閃光と轟音――吹きすさぶ衝撃とすれ違いながら、マグレブに掴まり突進した。
大きく傾き、態勢を崩したバビルーザ。
その目前で、悠太は再度飛びかかった、何度でも飛びかかるつもりであった。
全身が痺れるような咆哮の中――突き出した腕で、先程つけた額の傷に腕を突っ込む。
もう分厚い皮の鎧はない。
ズボリと腕が肉に沈む感覚、熱と臭い、脈動、それらの全てがこれを決定打だと告げていた。
――鮮やかな戦略ではない。
――劇的な覚醒もなかった。
ただ、ステータス画面を叩き込み続けただけ。
ただただ、「たたかう」を選び続けただけ。
そう――少女が五年間、諦めなかった。
たったそれだけ。
「終わりだ……ステータス・オォープン!」
バキリと、分厚い頭蓋骨の砕ける音が響いて、次の瞬間には噴き出た肉片と脳漿、血飛沫が悠太の身体を吹っ飛ばした。
断末魔の絶叫が、山の果てまで届きそうなほどに高く長く響いた。
やがて低く終息していく悲鳴と共に、海老反りになっていた巨体が傾いていく。
バビルーザのたてがみのようなツタは夥しい量の緑色の粒子へと解け、天へと昇っていった。
そして、大きな地響きを最後に、長く、永く静寂が訪れた。
後頭部から落ちて仰向けに、上がり切った息は咳き込み乱れるばかりである。
身体が重く、収まらない動悸の中、拳を突き上げた悠太は、忙しなく暴れるステータス画面の経験値を追うことなく――気を失った。





