2-3 Attack on Babyrussa
文字通りあっという間に、カーレ老人と口論した広場を過ぎ去り、畑のあぜ道へと入る。
荒れた畑を横目に疾走すると、あぜ道の途中に燃え尽きた残骸があった。
煙の火元は、潰された民家だったようである。
その傍ら、呆然と畑のほうを見詰めて立ち尽くす人だかりがあった。
「カーレお爺ちゃん!」
ライチが叫ぶと、老人はこちらに顔を向けないままに呟いた。
「……あれに勝てっこねぇんだ」
諦めきった言葉が畑に向けて零されると、そのすぐ後――空気が騒めいた。
果樹園の木が一本、青空に弧を描いて目の前に投げ込まれた。
飛び散る土に掲げた腕を下げると、巨木を投げた触手が、シュルシュルと持ち主の下へと縮んでいくのが見えた。
「こいつが……」
果樹園の全ての緑色をなぎ倒して、魔物はふてぶてしく鎮座していた。
ダンプカーよりも大きな獣であった。
黒くたるんだ四足の皮膚、汚らしく口から零れる涎、荒く土埃を払う鼻息、そして頭部から背中、尻にかけてたてがみのように生え揃い、うねうねと動くツタ。
鈍い光を宿した眼球は、退屈そうに虚空を向いていた。
「――余計なことすんなよ、よそ者」
傍若無人に畑を荒らす大蔦豚を前に、カーレ老人は覇気なく忠告した。
聞き入れる気のさらさらない赤毛の少女が、雲鼠に風を纏わせた。
「行くな。今度こそ引き裂かれるぞ」
今度こそ。
話に聞いた過去の助っ人たちのことからも、彼女があの怪物に立ち向かったのは一度や二度ではないのであろう。
「できない相談よ。何度だって、この身体が引き裂かれるまで挑んでやる」
凛と言い放つその目は、少し不安げに見えた。
物語の主人公なら、ここで気の利いた一言でもかけてやれるのであろうか。
理想は格好良く「俺がついている」と胸を叩きたいが、本音は「ごめん申し訳ない」と平謝りしてこの場から逃げ出したい。
だから葛藤を相殺して、情けなく無言でいた。
「……マグちゃん、もしもの時はユータと逃げるのよ」
白い鼠は否定したのか泥を払ったのか、首をブルルと振った。
激昂したのは老人であった。
「いい加減にしろ! ここは俺の畑だ! 持ち主がいいと言っているんだ! 下がれ! 青二才どもが出しゃばるな!」
「ごめんなさい、お爺ちゃん、でも、私は大好きな村の畑が荒らされるのを見てられない」
先のような言い争いにはならなかった。
ライチは覚悟を決めた目で怪物を見据え、カーレ老人は口惜しそうに顔を引きつらせた。
老人の様子を伺い見ていた悠太は、彼の拳が血の滲むほどに強く握りしめられていたことに気付いた。
――そして、大蔦豚への挑戦が始まった。
トン、とマグレブが地を蹴って、呼び止める声を置き去りにする。
少年少女を乗せ、単騎猛進する。
「今日こそ決着よ。攻めは全部、私がやる」
言って腰袋からチラリと覗かせたのは、かなり複雑に書き込んである魔導符であった。
「魔導符……でもライチの魔法って」
彼女は魔法が得意ではないはずである。
恐らく難易度の高くないだろう『火ノ玉』すら満足に撃てないほどに。
「わかってるわよ、でも、だからこそこれなの……二回しか使えない切り札。信じて」
真剣な表情は強がりではなさそうだが、強気の裏付けを説明願う時間はなかった。
「さあ来るわ。厄介なのは背中のツタ。あなたは絡みついてくるツタをあの力で断ち切って!」
言うが早いが彼女は「番う焔よ」と魔法の詠唱――集歌――を始めてしまう。
こちらの接近に気付いた大蔦豚は、気怠そうに体を揺らして、たてがみのように生え揃ったツタの数本で迎撃に出た。
ほとんどのツタはマグレブが俊敏に躱してくれ、前方から来る分はライチが槍で払ってくれたが、その内の一本が悠太の足に巻き付いた。
あの力の心当たりは一つしかない。
悠太のステータス画面は定位置に現れる。
あらゆる物を引き裂いてでも。
自らの足に巻き付くツタに手を添えて、ステータス画面を念じる。
狙い通りにツタは弾け飛び、画面は景色と一緒に取り残されていった。
足に残ったツタの感覚が生々しくて、成功したというのに生きた気がしない。
鼓動と息苦しさが邪魔であったが、自分の役目ははっきりした。
ライチが怪物に接近するまでの護衛である。
それから三、四本は切った。
攻撃はほとんどマグレブが避けてくれるのでこの程度の本数で済んでいる。
ツタには痛覚が通っていないらしく、切っても大蔦豚が怒ることはなかったが、一定の間合いまで来ると、重そうに腰を上げてこちらを睨んだ。
そして隆起した野生の筋肉を盛り上がらせると、吹き荒ぶ威嚇の鼻息でもって本格的な迎撃態勢を取った。
「ここからが本番、てわけか」
既にいっぱいいっぱいである。
内心の弱音を取り繕って大蔦豚の動きを注視する。
相変わらずこちらにツタを伸ばしてくる。
加えて、巨躯の陰で、数本のツタを束ねて伸ばしているのが見えた。
「――なんだ? どこに、繋がってる?」
その意図を探る前に、詠唱中のライチが指さして手綱を操る。
マグレブが動きを変えて、一気に距離を詰めた。
集歌を唱え終えそうなのであろう、彼女は胸元に赤く煌々と光る粒子の玉を構えていた。
いくつかのツタを避けて、払って、切って、確実に間合いを縮めた。
更に接近して、ライチは悠太の後ろに回り手綱を預けると、槍と魔導符を手にマグレブの背で跳躍の体制を取った。
「もしかして……飛び移ったり?」
自ずと声が出た。
今に感じたことではないが、この同い年程度の女の子は、なかなかクレイジーである。
そして、更にクレイジーなのが魔物という生物なのであろう。
――突如、悠太たちを影が覆った。
強襲は正面斜め上、ツタが筋繊維のように束ねられ、どこぞの巨木を根こそぎ引き抜き棍棒のように振り下してきたのである。
すぐそこに迫る攻撃の面積は広く、回避が間に合う保証はなかった。
掠りでもしたら、一巻の終わりである。
だから、悠太自身、自分からこんな声が出たのは驚きであった。
「ライチ! 伏せろ!」
手綱を短く持って、身を最大限乗り出して手を伸ばす。
重要なのはタイミング――巨木はもう視界を覆っていた。
「ステータス・オープン!」
目前の木の幹に、べコリと四角い凹みができた。
衝撃波と轟音――枝だの小石だのが打ち付けて、メキメキとうるさい音が頭上に響く。
折れていく巨木の脇をギリギリですり抜けて、マグレブは大蔦豚の目前まで躍り出た。
熱を帯びた間合い。
ぎょろりと見開く瞳はいつの間にか血走り、殺意で満ちていた。
――トッと鞍が揺れて、ライチが跳んだ。
槍と赤い光を手に、大蔦豚の後頭部に乗り移る。
と同時に、息荒く槍を振りかぶって、一気に突き立てた。
大蔦豚が甲高く鳴いて、身を反らし、大きく左右に振って暴れだした。
「ライチ!」
必死にしがみつく彼女を視界に捉えつつ、遠心力を加えて襲ってくるいくつものツタを防ぐ。
見守ることしかできない無力さに歯噛みをした。
――火の集歌。
番う焔よ、鳴き穴に薪くべて、紅蓮の海に授かりし、赤子の胴の振るまいや、宴、ふざけど中道を、野風に吹かれ中道を、大欲の業、老婆の煙管、別れ歌、泣き翁の笑い面、常夜に踊れ、常世に祭れ。
――ライチ・カペルは、大蔦豚の頭上で必死に集歌を唱え続けていた。
精霊たちは飽き性、歌を止めればたちまち宙へ散らばってしまう。
この機を逃してなるものか。
畑が荒らされる度に挑んで、近づくことすらできず、村は蹂躙され尽した。
始めは懸命に挑みかかっていた村人も、何人もが八つ裂きにされ、若者は去り老人は諦めていった。
村に反抗の意志がなくなった頃、退屈そうに畑を荒らす大蔦豚の眼を見て、ライチは確信した。
――こいつは、村をいたぶって楽しんでいた。
これだけ緑豊かな森林地帯、餌に困ることなどあるものか。
食いもしない畑を踏み荒らすのは何故か。
何人の村人を、弄んで殺した。
――暴れる巨躯の調子に慣れた頃、手にした魔導符を、突き立てた槍の柄の尻に巻きつける。
マナは惹かれるようにして魔導符へと集まっていった。
槍を突き刺した後頭部には、出血はほとんどない。
ツタに覆われた上、皮膚が分厚く……恐らくその皮膚の下にも堅固な頭蓋骨がある。
殺すなら、それすらも貫いて脳に刃を突き立てなくてはならない。
その為の推進力を、細腕の筋力だけで補うことはできない。
だから少女は、とっておきの魔導府をここで使う。
それは本来なら高額すぎて手の出ない代物。
以前の討伐に失敗した魔導師が手切れ金代わりとして置いていった。
村長が若者に不利な戒律を定めた時、賛成票と引き換えにそれを譲り受けた。
話によると二回しか使えない切り札、その内の一回を使うに見合うタイミングだと確信していた。
「――『常世に、祭れ』」
詠唱を終える。
この好機を作ってくれた少年には感謝をしかなかった。
令歌を待つ赤い粒子たちが、騒めいた。
「終われ、これで終われ! コール、『赫炎ノ爆発』!」
本来なら広範囲を爆発そのもので攻撃する魔法であった。
しかしマナに愛されないライチでは小規模な爆発しか引き起こすことができない。
だから、全身で槍を抱え、自身を砲身として、石突の爆発で槍を撃ち込むことにした。
自分の身体など、どうなっても良いと考えていた。
――目を焼くほどの閃光が迸り、耳鳴りしか聞こえなくなった。
ズブ、と確かな手応えがあった。
やっと終わる、これで勝ったよ、そう早く伝えたくて、少女は悠太へと視線を向けた。
――閃光に照らし出された彼の表情が絶望に満ちていたので、頭が真っ白になった。
直後、胴を衝撃が襲い、宙に放り出される。
視界の端には振り抜かれたツタ。
狙いを見越されていたのか、闇雲に振ったものが当たったのか。
魔法『赫炎ノ爆発』は確かに発動した。
大蔦豚の頭上で爆発が起こり、その巨躯をよろめかせた。
しかしライチの突き立てた槍は、支えを失ったことで垂直に脳天を貫くことができなかった。
――魔物にとって、中途半端に肉に食い込んだ痛みが、この上なく不快であった。
そして不快感の原因たる女に、報復をしたくて堪らなかった。
無防備に宙に放られたライチの四肢に、ツタが絡みついた。
それを頭上に掲げて、四方向に引く。
少女から短い悲鳴が上がった。
もっと甲高く悲痛な悲鳴が好みであった為、魔物は力を強めた。
玩具が反る感触、ピンと張る感触、それらがバラバラになった時の開放的な感触と断末魔が楽しみであった。
この村では何人かをそうやって千切ってきた。
老いた者の感触はいまいちであったので、良い感じの感触はご無沙汰であった。
「――カーレ・カルノスが命ず! 炎の槍となりて邪悪なるツタの拘束を貫け!」
皺がれたその声がなければ、悠太は動けなかったかも知れない。
目の前で起ころうとしていた悲劇、その容易に想像できる結末が惨たらしすぎて、耐えられないと踏んだ脳が考えを放棄してしまっていたのである。
老人たちから放たれた鋭い炎の魔法が、ライチの右腕に絡むツタを撃ち抜き、解放した。
「マグレブ頼む! 早く!」
彼女の相棒の雲鼠は今までで最も機敏な動きで大蔦豚の頭上まで駆け登った。
そして鋭い爪を振りかざして両脚をツタから解放した。
「う、あ……」
弱った彼女を身体全体で受け止め、残る一本のツタをステータス画面で断つ。
腕の中のボロボロの彼女を見て……沸々と、抱えたことのない感情が込み上げてきた。
――気付けば悠太は、ライチの身体をマグレブに預け、大ツタ豚の顔面に飛び移っていた。
明確な意志も戦略もなかったが、こいつを許せなくて堪らなかった。
だから、その額に手を押し付けた。
熱い、臭い、魔物の禍々しさに感情が高ぶり、明確な殺意と共に念じた。
「ステータス!」
そのステータス画面は、世界の理を無視するものである。
黒い皮膚が弾け、血飛沫が舞った。
咆哮と共に鼻先が大きく跳ね、悠太は吹っ飛ばされた。
弧を描いて土に墜落する。
勢いのままに一回転二回転、身体の至る所を打ってようやく止まる。
口に入った土を吐き出し、痛む両腕で身を起こした。
すぐ近くにはライチを背負ったマグレブ、それからカーレ老人たちがいた。
全員の視線の先には、流血した顔をぶるぶると振る大蔦豚が、未だに健在な姿で立っていた。
「はぁ、はぁ、マジか……面の皮、厚すぎ……」
正直、万策尽きていた。
それでも立ち向かおうと思ったのは、老人たちが一斉に次の集歌を唱えていたからである。
ライチよりは効率がいいという集歌だが、一人一人が集められる光は少ない。
全員で先程の魔法を放つのがやっとであろう……勝ち目は薄い。
それでも老人たちに諦めた様子はなかった。
少年は何とか立ち上がり、わきわきと腕を動かす。
身体は動く、しかしどうすれば良いのか。
歯噛みしたその次の瞬間――土埃の中の巨躯が、大きく方向転換した。
なんと魔物は、苛立たし気にツタで鞭打ち、周辺に当たり散らしながらも去っていく。
「逃げ、た?」
まさしく逃亡であった。
あれだけふてぶてしく畑に居座っていたのに、あれだけ荒々しく暴れていたのに、恐らく戦い続けていれば、全滅したのは悠太たちなのに。
赤い光を集めていた老人たちが、緊張が解けるのと同時に次々とへたり込んだ。
その中でも決して膝を折ることのなかったカーレ老人が、後ろ姿を忌々し気に睨んでいた。
「……前の魔導師の時も、ああやって、痛みを覚えるや否や森に逃げ込んだ。そして、魔導師が村を離れるまで姿をくらませおったのだ」
野生の世界では最後まで生き残った者が勝ち、前にテレビだかで聞いたそんな話が反芻される。
……助かったのに、撃退したのに。
釈然としない理由はただ一つであった。
この逃走は負けを認めたものではない。
いつかまた、村を脅かしに来るという宣告でもあったからである。
用語解説
・カペル村
カージョン地方南西の村。ヴィレッズ国ノーチ領。
豊かな農村であったが、数年前からバビルーザに襲われ、壊滅の危機に陥る。
特産品はウバ茶。周辺地域の同茶と比較し、カペル産は甘味が強いと評判。
・魔法
大気中の極小の精霊たちである「マナ」が引き起こす超常現象。
マナについては、火・水・風・地・命の五属性が確認されている。
集歌により対応属性のマナの興味を惹き、集まったマナに令歌で指示することで発動する。





