5-56 Lick ~さあ、お舐めなさい?~
青みを帯びた月明かりの夜、時計盤のように区分けされた首都の西に位置する九時街。
天を突く大教会のような建築物――『魔導学院』の中には、学院生のために医務室が設けられている。
漆喰の壁際に五つずつ並ぶ清潔なベッドの内、現在使用されているのは……たった一床のみ。
襲撃後一日二日は体力の回復を要する学院生たちで溢れていたが、外傷を奇跡に癒された彼らは次々に目を覚まし、日常へと戻っていった。
そんな中、唯一今も目を覚まさないのが、腹部に大きな傷を負っていたリズリー・バートリーである。
傷自体は塞がり、健やかな寝息を立てる彼女は、普段の快活そうなポニーテールを解かれ、人形のように横たわっている。
その隣――丸椅子に腰かけて彼女をじっと見詰めるのは、臙脂色の学生服を着た赤毛の少女、ライチ・カペルだ。
スカートから伸びる脚を揃え、太腿の上に組んだ細指は身体を拭くためのタオルをギュッと握り込んでいる。
表情は泣きそうなほどに張り詰めていて、もうその顔のまま、三日も満足な睡眠もせずに看病を行っている。
身体は着実に疲れを溜めているものの、体感時間はそう長く感じていなかった。
頭の中には、絶えず襲撃の夜の出来事がぐるんぐるんと回っている。
そして、どうしても、何度も、視線をやってしまうのは……ベッド脇の木机に乗せた丸眼鏡だ。
「ニナ……」
眼鏡に付着していた返り血は綺麗に洗い流され、まん丸のレンズには今にも彼女のふわりとした眼差しが戻ってきそうだ。
「ニナ、私、リズリーにどう言ったら……」
きつく目を結んでも、浮かんでくるのはあの悲劇的な光景だけであった。
親友の手刀が親友を背後から貫く悪夢のような光景。
襲い来る彼女が言うには、ニナ・マルムという少女は自分たちと出会う遥か前に成り代わられ、殺されていたそうだ。
今まで共に学び、笑い、困り、怒り、泣いた彼女本人に、自分たちは出会えてすらいなかったのだ。
だが、それではニナという存在そのものが虚構で、生前の彼女について自分たちが何も知らないかと言えば、そうではない。
優しく穏やかで気高いニナという少女は、確かに存在し、襲撃者の成り代わりを乱し、自分たちを守ってくれた。
ニナ・マルムは、確かに友人として自分たちを助けてくれた。
そして、夜の闇に逃げ去って行った。
この歪で酷なあらましを、彼女ととりわけ仲の良かったリズリーにどう伝えればいいのか、ライチにはわからなかった。
そんな酷なことを告げる勇気など、あるわけがない。
――逃げ出してしまおうか。
――そもそも、自分はこのようなところに居ても良い存在なのか。
逃避の言い訳に思考を移すも、それはそれで別の懸念事項に繋がるだけであった。
襲撃者を圧倒してみせた燃え盛る自分の力――この学院で得た知識に照らし合わせても、あれは確実に『天使』の力であった。
一声呼べば、紅蓮の粒子が街を冠水させる勢いで押しよせる異常集歌効率という力。
そして遠い記憶の向こう……深いカペルの森において、自分はその力で誰かを殺めている。
優しく抱いてくれていた誰かを。
「――うぐっ」
こみ上げてくる吐き気を堪えると、代わりに涙がじわりと滲みだした。
ライチは力の発現を、逢王宮――つまり国に報告している。
襲撃直後、終局の地にいたのは彼女と学ランの少年だけで、少年は聴取に応じられるような精神状態ではなかった。
だから、伝える役を彼女が引き受けたのだ。
聴取でことのあらましを語る内、必然的に自分にも天使の力が眠っているのだと話すことになった。
「……いっそ、どっかに閉じ込めてほしかったな」
そうすれば自分がここにいて良いのかなどと悩む必要もなくなる。
しかし、天使ライチ・カペルに逢王宮が下した判断は……経過観察であった。
勿論、遠目に監視は付けられているが、拘束や隔離はされていない。
魔導師ギルドとも打ち合わせがあり、学院にも今までどおりに通うことができる。
全ては天使の強大な力を味方につけるための打算である。
元より天使は力に目覚めた時点で、国の全軍に匹敵する力を得る。
下手に抑圧して敵対心を抱えられることは、国家存亡の危機を意味するのだ。
故に、風の天使サマーニャ・ヒューバートの成功例にも倣い、少なくとも表向きは、精神が落ち着くまで自由にさせることに異論はなかった。
一方で本人にとって自由とは……何もない荒野に放り出されたかのような不安でしかなかった。
自分はどうするべきか、誰も答えを教えてくれない。
今にも暴発しないとも限らないこの力があるまま、リズリーの傍にいて良いのか。
誰かを殺めた罪人が、優しいあの少年の隣にいることは許されるのだろうか。
この力を目当てに、また誰かが襲撃を仕掛けてくるのではないか。
「こんなに、こんなに苦しいんだ……」
――嗚呼、彼も同じ悩みを抱えていたのだろう。
悩みの堂々巡りは、銀髪のエルフの青年に至る。
「凄いよね……ブラン君は……」
ライチが最期に見た彼は、神々しい緑光に包まれ、首筋にひび割れが走っていた。
その後の奇跡からして、文献にある『エルフの秘術』を用いたことは明白であった。
彼は、望まずに授けられただろう力に翻弄されながら、理不尽な暴力に襲われながら、それでも、自分の大切な人たちを全て救い、そして消えていった。
本当なら、彼もニナもいる学院生活が続いていたはずで……きっと、彼と感性が合うようだった異世界の少年だって、一緒に色んなことがしたかったはずで。
「……ユータ」
彼の死に最も傷ついているだろう少年の下には、足を運ぶわけにはいかない。
会えば、きっと甘えてしまう。
彼も傷ついているのを承知の上で、カペル村でのあの夜のように、このいっぱいいっぱいの悩みを少年に受け止めてもらおうとしてしまいそうだ。
そんなことを考える弱い自分自身に、更に嫌気が差した。
ぐるんぐるん、ぐるんぐるん――悩みは回り、気づけば夜は深い。
目の隅を湿らせる赤毛の少女に、背後から甲高い声がかけられた。
「呆れた、今日もずっとそうしていましたの?」
「……ガーネット」
目尻を拭って振り返れば、月明かりを跳ね返す金髪の縦ロールをいじるお嬢様が凛と立っている。
もう遅いと言うのにライチ同様に出で立ちは学生服姿だ。
彼女も襲撃の夜に傷を負ったが、高貴な肌についたそれらは全て奇跡が消し去っている。
ライチは身体を回して彼女を見上げ、最大限に不安を隠した笑顔を向けた。
「また来てくれたんだ。もう遅いのに、お屋敷に戻らなくていいの?」
ガーネットは切れ長の眼で見下ろすと、ふんと鼻を鳴らす。
「むしろ今しがた出てきたところですわ。九時街の復建を急ぐのに色々とお話をしていましたの。
まあ旗振りは貴族の当然の務めですので苦ではないのですが……少々疲れましたので、夜風に当たるついでに様子見に来たのですわ」
確か彼女の屋敷は、馬車で行き来する程度には学院から離れていたはずであった。
随分と遠くまで散歩してきたなと思っていると、ガーネットは赤い瞳を逸らし、口を尖らせ、思いがけない言葉を吐いた。
「……ついでもついで、大ついでですが、その、たまたま、居合わせたわけですし? その、代わって差し上げても、良くってよ?」
何やら恥ずかしそうな言葉の意味がわからなくて、ライチはとぼけた顔で彼女を見上げる。
その様子に若干苛ついたガーネットが、声を荒げた。
「まあ、なんて察しが悪いのでしょうこの芋女は! 良いですか、看病を! 交代して差し上げると言っているのですわ! この私が!」
「え、ああ、え? ……何で?」
確かにここ最近は彼女との関係は悪くなかったし、襲撃の折りにはとても助けられた。
また襲撃の後、聴取とは別に事の顛末を聞きに来た彼女に色々と話せたことで、気持ちがわずかに楽になったことも感謝している。
だというのに、出会った当初の敵意むき出しの印象がいつまでも残っていて、彼女が自分やリズリーのために何かを提案することが上手く理解できなかった。
疲れもあって頭が回っていない様子のライチに、ガーネットは「ああもう!」と手鏡を取り出し、すっ呆けた顔前に突き出す。
映し出されたのは、跳ねた赤毛、荒れた肌の頬、青い目の下の隅、乾いた唇。
「ひっどい顔ですわ、まるで死人のよう。そんなでは、リズリーは起きてすぐ貴女の心配をしなくてはいけません。随分むごい仕打ちをしますのね」
「あ、はは……私、こんな顔してたんだ」
「まず貴女は貴女を治しなさい。奇跡で外傷は消せても、心の傷は癒えていないでしょう」
図星を突かれた。
ライチはおどけた笑みを止め、しゅんと俯く。
「ここは私が見ていますから、行ってきなさい――貴女の傷を癒してくれる人、自分でわかっているでしょう」
ライチの瞳が揺れ、脳裏には異世界の少年の笑顔が浮かぶ。
しかし少女は、彼の顔を掻き消すように頭を振った。
「……行けないよ。きっと、彼の方が傷ついてる、なのに支えてもらおうだなんて……」
戸惑い目を伏せるライチに、ガーネットは目を丸めた。
元より性格は正反対で価値観も大幅に異なる彼女には、ライチの心境はなかなか理解できない。
数秒間、こめかみを指で叩いて推察をしたガーネットは、呆れたように溜め息を吐く。
そして――
「それは貴女が癒してやるべきでしょう?」
迷いのない言葉に、青い瞳が見開いた。
やっと顔を上げたライチに、ガーネットは腕組みして続けた。
「医者と患者ではないのですから、どちらかがどちらかを支えねばならないわけではありませんわ。
貴女は彼に支えてもらいなさい。彼は貴女が支えてあげなさい。
そういう傷の舐め合いや慣れ合いこそ……貴女がた凡人の得意ではなくて?」
言っていて恥ずかしくなってきたのか、言葉尻には皮肉が混じったが、その言葉はライチの心に確かに響いた。
悠太も苦しんでいる、ではないのだ。
「……そっか、ユータが、苦しんでるんだ」
じゃあ、支えなきゃ。
一も二もなく、駆けつけなくては。
反射的にそう思えた。
隅のついた目の奥に、微かな光が灯る。
かける言葉も何も見つからないけど、それでも彼が助けを待っているなら行かなければならない。
あの夜――彼の助けとなれなかった無力感をもう一度味わうなど、絶対に嫌だ。
だから元気が出るように支えて、支えて……少しだけ、元気を貰おう。
「ガーネット……ありがとう。それから……」
華奢な身体がよろめきながら立ちあがって、じっとリズリーの寝顔を見詰める。
そして白い指で頬を撫で、ライチは申し訳なさそうに言葉を落とす。
「リズリー、ごめん私、行かなきゃ。起きたらちゃんと全部説明するから……!」
少女は振り向いて、腕組みのお嬢様に頭を下げると、小走りに駆け出す。
よろめきながら駆けていく後ろ姿を困り顔で見送って、ガーネットはまた溜め息を吐いた。
「……まったく、甘えるにも大義名分が必要だなんて、社交界より気難しいのではなくて?」





