5-45 ヒットポイント0
曇天より下された雷鳴の裁きは、無力な傍聴人である赤毛の少女に非情な現実を伝えた。
「ユー、タ……?」
手足を縛られた自分にできる精一杯は、足手纏いにならないよう少しでも危機から遠ざかることと思っていた。
きっとそれは、どこかで彼が脅威に打ち勝つことを信じていたからだ。
だってその少年は、遠い世界に独りぼっちで投げ出されても、困ってる人に手を差し伸べられるくらい強い人だから。
だってその少年は、明らかに自分より強い魔物でも、魔剣でも、諦めずに挑みかかって倒してしまうくらい凄い人だから。
だからきっと、今回も彼は大丈夫。
そう漠然と思っていたのかも知れない。
――全身を真っ黒に焦がした人の形が、ゆっくりと傾き、倒れた。
「う、そ……」
縛られた脚では駆け寄ることもできず、縛られた腕では抱き起こすこともできす、少女はただただ無様に、全身を地に打ち付ける。
「ユータ!? ユータ! ユータ!」
動いてほしくて、ただ生きていてほしくて名を叫び続ける。
胸の張り裂けそうな叫びは、彼女の心象をよく表している。
ライチ自身の心も、限界を迎えつつあった。
ただでさえ、大切な友人と望まぬ離別をしたばかりというのに、彼までいなくなってしまったら、とても正気でいられる気がしなかった。
「嫌……嘘……」
絶望に鞭を打つように、軽薄な声が煤けた学ラン姿を足蹴にして、踏み越える。
「はいこれで未練もなくなったっしょ?」
あんまりな仕打ちにも、自分は何もできない。
どこまでも悍ましい男を、ライチは青い涙目で精一杯に睨んだ。
襟足を伸ばした茶髪、人を小馬鹿にした釣り目。
白いローブの下のシャツとスラックスは、どこか悠太の衣服と似通っている。
そして手に握るのは、今も帯電する白銀の刀身の聖剣。
「そう睨まないでよ。さっき悠太に言った話、聞いてたでしょ? ライチちゃんの設定的には、アレと関わってた方がバグルート。俺と来るのが正規ルートなんだって」
「番う焔よ!」
天使の集歌は、首に巻かれた魔導具『響鸚鵡の首輪』により無情にも無効化される。
「番う焔よ!」
それでも唱えた。
会話などする気にならない。
今は彼を助けなくてはならない。
そのためには、目の前の邪悪を焼き払わなければならない。
「おお怖。ライチちゃん覚悟ガン決まりすぎ。でもまぁ、それくらい強気の方が色々と楽しみがいもあるしね」
そう言って舌なめずり。
一歩ずつ、マギは赤毛の少女へと迫り寄る。
ライチは身を捻り後ずさりし集歌を続けた――粒子を求め続けた。
――どうしてなの、あれだけ人を焼きたがっていたじゃない。
今なら構わない、こいつを焼き尽くすためなら、地獄に落ちたって良い。
「番う、焔よ!」
魔導具の効果により、やはり彼女の歌は精霊たちには届かない。
しかしその激情は、大気中の彼らをわずかに騒めかせた。
火の精霊は、怒りの感情に敏感だ。
ライチの感情に反応し、キラキラと空気中の粒子が反応する。
しかし、その光量はとても『レベル60のプレイヤー』、マギ・アキトを倒すには足りない。
「あん? 首輪までしてまだ反応させられるわけ……? しゃーないな、後で治しゃ良いし少しボコしとくか――」
茶髪の少年が非情な聖剣を向けたその瞬間であった。
――この場の支配者であるマギが、駆け引きを迫られた。
駆け引きを迫るのは、天使が呼び寄せたもう一つの脅威……ひゅるりと舞った青い粒子である。
◇◇◇◇◇
――その魔物は、王の素質を持つ。
王の素質とは、端的に言えば負けず嫌いの気質である。
生半可な負けず嫌いではない。
自分より優れる者の存在を誰一人として許さない。
それほどに徹底した負けず嫌いを強かに実行した者だけが王座にかけることができる。
だから『凍大神フェンリル』は挑む。
魔物が牙をむけば魔物へ、人が剣を抜けば人へ、国が兵を上げれば国へ。
――天使がマナを呼べば、天使へ挑みかかるのだ。
曇天の背景、木々を軽く飛び越えた黒い獣は二又の尾に氷刃を纏う。
鋭い獣の眼光が捉えるは、茶髪の男に迫られる――赤毛の天使。
「え、あれ、は……」
当初、フェンリルが南で感じたのは深緑の天使の気配であった。
しかし気配は北上していく内、急激に萎んでいき、今は消えてしまっている。
標的を見失い、森を彷徨う魔物に届いたのが――弱々しいが激しい、火の精霊を従える力であった。
深緑の天使とは違うようだが天使は天使。
都合がいい――フェンリルは、身動きの取れないライチへと二尾の凶刃を振り下ろした。
乱入者の問答無用の一撃に、マギは対処を迫られる。
「ちっ、犬が!」
斜め上に顕現させた赤のステータス画面が、巨大な氷刃を防いだ。
その画面は、如何に傾国級の魔物の一撃であろうと、一切の破損をしない。
しかし、周囲の景色は違う。
容赦ない大太刀の斬撃は、氷の破片へと砕けながら森林を両断し、大地を割った。
地響きの後、ライチは身体の無事に戸惑いながら視線を巡らせる。
正面には、激しくはためく白いローブ。
聖剣を消し、再び武器を鎖の魔導具に持ち替えたマギの姿があった。
彼にとり、ライチは遠征の戦利品であり――今だけは、守るべき対象だ。
そして、マギの視線の先には、煩わしそうに身震いする大狼が着地した。
見上げる程の巨体に、黒光りする体毛、二股の長い尾、青く輝く双眸。
姿形は、九時街でライチたちに立ちはだかった氷細工の大狼にそっくりであった。
「……黒い、ウルフ?」
事態を飲み込めないライチの耳に、苛立った声が届いた。
「……フェンリル。あのディマリオ、『ヴォルク』の癖してしくじりやがったな」
悠太との攻防では聞くことのなかったマギの真剣なトーン。
横顔を見やると、その軽薄そうな眼には剣呑な光が宿り、視線は黒い狼に絞られていた。
黒い狼もまた、標的の天使から視線を切り、王の前に立ちふさがった生意気な少年へと瞳を向ける。
――王の視線の先には、青い粒子が集う。
すると、睨みつけられたマギのローブが凍り始めたではないか。
マギは特段焦った様子もなく身を翻して凍りかけのローブを脱ぎ捨てる。
「『氷眼』の浸食が遅いね、誰だか知らんけどかなり体力削ってくれたみたいじゃん?」
言いながら鎖をうねらせ、フェンリルに向けて放つ。
フェンリルは次いで巨体を震わせ、体毛をまき散らす。
その魔物が漂わす体毛は、宙で氷の針となる。
「させねー……『鎌風花火』」
鎖の先端が風の衝撃波を放ち、体毛を散らした。
だが構わずに青い光を発した体毛たちは、鋭利な氷を纏う。
一点――キリグイとの違いは、そのでたらめな長さである。
ショートソード程の長さであった氷針は、フェンリルが使うと無数の氷の格子となって四方八方に張り巡らされ、ズドズドと木々を貫き、地面に突き立つ。
「痛っ……!」
ライチは咄嗟に身を捻るが、太腿に掠った氷に顔をしかめる。
その様子を横目で確認したマギは、舌打ちをする。
フェンリルの攻撃は漏れなく周囲に被害をまき散らす範囲攻撃である。
足手纏いを庇いながらの立ち回りは、難しい。
「ちっ、魔物風情が調子に乗ってんな……! 『鎌風力士』」
マギは鎖をフェンリルの胴へと回し、全体に風を纏わせると勢いをつけて投げ飛ばす。
そして、拘束されたライチ、黒い消し炭を一瞥すると、闖入者の処理を優先することにした。
「じっとしてろよ。あれ殺したら戻るから」
◇◇◇◇◇
マギは、投げ飛ばした黒毛の巨体を追って跳躍していった。
残されたライチは、再び身を捩り、芋虫のように這う。
――どういうわけか、マギと黒い狼が争い始めた。
「痛……く、でも……」
であれば、今の内に悠太を助けられるかもしれない。
太腿には先程フェンリルに貫かれた傷があり、身体全体も軋んで痛むが、そんなもの、彼の味わった痛みに比べれば何ともなかった。
ライチは少しずつ、少しずつ悠太に這い寄る。
そして、その動きは一定の距離で止まった。
「――そんな」
希望など、ないのではないか。
それ以上近づけば、彼がどのような状態か、完全に把握できてしまう。
把握してしまったら最期だと悟った。
「私、どう、したら……」
冷たい地面に独り。
とっくに頭はパンクしていて、視界も虚ろになっている。
それでも暗い森に視線を彷徨わせ、希望を探した。
しかし、あるのはへし折られた木々に、散らばった枝木、苔と土の地面。
地面には、無力に、無様に這いずった自身の軌跡。
とても希望と呼べる輝きはなかった。
「……ない……」
それは人を絶望させるには十分な光景であった。
ただ、彼女に関しては――そんな希望のない夜を体験したのも初めてではない。
大蔦の化け物と、壊れていく故郷――毎年、毎日壊される日々と何もできない自分。
絶望の底は、既に味わった。
「諦め、ない……!」
少女は歯を食いしばり、近くに落ちた折れた木の枝へと這いずる。
「絶対、諦めるもんか……」
希望と呼べる輝きがないなら、自分が輝くしかない。
少年に絶望の淵から救い上げられた時に深く刻んだ心の在り様、自分の在り方。
それらに突き動かされ、ライチは木の枝を咥えて噛み締め、土の地面に突き立てた。
魔導陣の描き方は、死ぬほど練習してきた。





