5-42 マギ
月明かりも届かない曇天の下。
鬱蒼と茂る森を照らすのは、蛍のように舞う緑の粒子の残滓たちだ。
天使の力の余韻が道標となり、白ローブの後ろ姿を見失わせなかった。
悠太は胸が熱く、苦しかった。
脳裏には未だに先ほどの光景、ブランの優しい顔と飛び散る血液がこびりついている。
――まただ。
キリグイとの再戦に圧勝して、龍顔をサマーニャに倒してもらい、火翼竜に競り勝って、どこか、自分も強くなったと思い込んだ。
そんなことはなかった。
だってさっき見た光景は、昨晩と同じだ。
ネピテルがキリグイの凶刃に貫かれた時と同じで……自分は何一つ守れちゃいない。
「っざけんな……!」
スニーカーが茂みを蹴散らす。
腕が邪魔な枝を叩き折る。
頭に血が上り、冷静さを欠いている状態が、良い方向に影響した。
猪突猛進な最短距離の疾走は、足元を気にしながら走る白ローブたちとの差を着実に縮めた。
そして、茂みの隙間に見間違えようのない赤毛が揺れた時。
「そこだ、『四蔦縛』!」
腕に装備した篭手を勢いよく突き出し、魔導具の技を唱える。
言葉の羅列『技名』に反応し、魔導具『大蔦豚の篭手』は、その黒い表面に緑の蛍光ラインを輝かせ、四本のツタを撃ち出す。
緑光の軌跡を描き、茂みに伸びたツタの一本に手応えがあった。
白ローブの頭から零れる水色の髪が、ガクンと乱れた。
聞き馴染みのない甲高い少女の悲鳴が響く。
「わきゃあ!?」
茂みと茂みの間に倒れ込んだのは白ローブの少女。
転んだ弾みに水色の長髪がバサッと舞う。
そして小柄な彼女が担いでいた肩から取りこぼしたのは――赤毛の少女だ。
「ライチ!」
残り三本のツタを操り、宙に投げ出された大切な人を巻き取り、引き寄せる。
ぐったりした彼女の華奢な肩をがっしり抱き止め、轡として口に巻かれた布を剥ぎ取ってやる。
すると、弱々しい咳の後、きつく結ばれていた瞼がゆっくりと開いて、唇が動いた。
「ユー、タ……」
その声を再び聞くことができただけで、命があると確かめられただけで「救われた」という衝動が全身に満ちた。
悠太は臙脂の制服姿を離さないように、誰にも傷つけられないように、きつくきつく抱き締めた。
「んぅ……」
耳の傍で絞り出された声が苦しそうで、悠太は一瞬の内に我に返る。
腕を緩め、改めて見る彼女の瞳は、潤んで虚ろ、いつもの快活さがない。
意識はある、しかしかなり憔悴している様子で、声にも覇気がなかった。
何があった、何をされた、一人で逃げられるか、確認したいことは山ほどあったが――そんな余裕は許さないとばかりの殺気が斜め上から迫ってきた。
ライチを抱え、思いきりバックジャンプ。
悠太たちの立っていた地点にズドンと轟音がして、一直線に突き立った鎖がジャラリと張力を抜く。
引き抜かれ、持ち主の手元に戻るそれは、銀色の鎖状、先端は苦無のように鋭く……赤い血が付着している。
先端はまるで意思を持つ蛇のように宙へ浮かび、手元で操作されている様子もなくまた襲いかかってくる。
「魔導具か……!」
地を這うようにジャラジャラ、ステップで躱す。
後方から回り込んでジャラジャラ、裏拳で弾いて防ぐ。
手の平を向け、ステータス画面での破壊を試みるが、察し良くジャラリと身を引いて――再び上下左右から次々にジャラジャラ。
「あーあ、ユウタちゃんあの天使見捨てて来ちゃったの?」
悠太が鎖の対応に手一杯になっていることを承知の上で、軽薄な声が問いかけてくる。
「友達だったんっしょ? あれ致命傷なのに酷いなぁ。この薄情者ー」
元凶からの白々しい棒読みに腹が煮えくり返る。
「てめぇのせいだろ……! それにブランは大丈夫だ! アシャラさんがきっとヒールで……!」
自分に言い聞かせながら、また襲い来る鎖を篭手で弾く。
対する白ローブのマギは、目元を隠して余裕綽々に煽る。
「なるほどギルマスのアシャラ・ショコランね、歳食ってるだけあって老獪だ。そんな風に言えば君に彼を諦めさせられると踏んだわけだ」
「だから諦めてねぇって! ブランはアシャラさんが……!」
言葉の途中、悪戯っぽい舌が嘲笑った。
「治せねーよバーカ、今あの一帯はヒール使えないし」
一瞬の思考の停止。
見計らったように、鎖の先端が学ランの肩口を一閃して、鋭い痛みが走った。
「天使殺しのセオリーはね、全力を出し切った直後の隙を突くことさ。一帯の精霊は天使に酔いしれてしばらく他の魔導師の集歌なんざ聞きやしない。限定的な『団的集歌減退』、誰もヒールなんかできない。天使本人以外はね」
理路整然と語られる世界の仕様を知る由もない悠太は、言葉を詰まらせる。
治癒が使えないのなら、じゃあ、ブランは今?
アシャラさんが、嘘を?
「んなわけない……! あの人はきっと助けてくれる!」
歯を食いしばって信じても、思考の片隅に残る疑念が身体の重みとなる。
追い打ちをかけるように茶髪の少年は舌なめずりをした。
「まあ治せたとして? 食道と肺の辺りもズタズタだからね、単にヒールしても駄目よん。既に肺に流れ込んだ血はヒールじゃ取り除けない。それがある限り奴は魔法も唱えられず、陸で溺れ続け、結局死ぬことになる。苦しいんだよねこれ」
「いい加減に……がっ!」
怒りが身体操作を乱し、被弾数が多くなる。
ライチを守るために抱き締めて防戦一方、その様子を見てマギはケラケラと笑う。
「ユ……タ、ユータ、逃げて。私は大丈夫、あいつら、私を、殺す気は、ないの」
途切れ途切れの提案をするライチの言葉も、今は聞き入れられない。
マギが捨て駒に行った所業を考えれば、答えは明白だ。
殺されないのなら、死ぬより酷い苦痛が待っているに違いない。
「あっはっは、あー良いザマ、ふふ……はぁ」
依然として赤毛の少女を離さず、ひたすら鎖に嬲られる様子を眺め、一通り笑ったマギは、一息区切りを入れ、「さて」と瞳を隣にずらす。
傍らには、赤毛の少女を取りこぼし、怯えた目で見上げてくる水色髪の少女がいた。
しくじりを自覚し、震える少女へとにこやかに近寄る。
「……ねえスプリちゃん? 俺、ライチちゃん落としていいって言った?」
「え、あ、ごめんマギく……!?」
少女の顔が、容赦なく蹴りつけられた。
見せつけるような虐待が、更に悠太の心を騒めかせる。
――嗚呼、どうしてこいつらは。
家畜の虐殺から始まって、仲間を利用するだけ利用して魔物にしたり、何の罪もない人たちを沢山巻き込んだり、友の未来を邪魔したり……何がしたいのか。
鎖を弾きながら、悠太は見過ごせない横暴に声を上げる。
「何でお前はそうやって……仲間にまで、どうしてそんな酷いことできんだよ!」
「んー?」
マギは答えず、無言でガスガスと少女の頭を踏みつけ続けた。
そんな非道をしておきながら、口に三日月のような笑みを浮かべたのが我慢ならなくて。
「――いい加減に」
真後ろから首裏を狙って迫りくる鎖の先端を、すれすれ体重移動のみで躱し、掴み取った。
即座にステータス画面を念じ、生き物のようにじたばたするそれを粉々に破壊する。
「はいあれも弁償ねスプリちゃん?」
などと悠長をかます隙を逃さないように、悠太はライチを横たえ、猛進した。
「やめろっつってんだろ!」
レベルにより上昇した身体能力を使った全身全霊の踏み込みは、龍顔やカーマインのような強者にも通じるはずであった。
にも関わらず、拳を振り被った悠太の姿は、すかした流し目にしっかりと捉えられている。
「あらら」
マギは待ってましたとばかりに微笑んだ。
「みっともな……何熱くなっちゃってんの――」
そして、悠太が拳を突き出す瞬間。
「こんなゲームの世界に」
彼は笑って手をかざす。
その見たことのある構えが、悠太の鼓動を跳ね上げた。
――ステータス・オープン。
それは、念じるだけで出現する光の板。
扱う者以外には見えず、しかし確かに存在し、如何なる攻撃でも決して傷つけることができない無敵の仕様。
「お前は、一体……?」
暗い森を照らすは、真紅に輝く長方形の光の板。
拳を叩き込まれてヒビ一つ入らないその画面に記載されているのは――
「改めてよろぴく。俺はマギ――『真木暁斗』。君と同じ『プレイヤー』さ」





