5-32 日頃の行いと言えば、鞭振るって罵倒したり、縛り上げて足蹴にしたり……正直怖いですよねあの人
5-32~5-35の更新となります!
首都の北へと逃れたブランは、同郷から自分を追ってきた兄、カーマインに襲われます。
護衛の逢王兵やアシャラ老の善戦を嘲笑うかのように苦しめる兄に、ブランは再び天使の力を解放し対抗します。
北で人智を越えた闘いが進む一方、首都の南でもまた新たな戦いが始まろうとしていました。
例えばその日、最も美しい景色を見たいのであれば、アングルは首都を見下ろす形がいい。
壮大な一枚絵を描き上げるかのような、美しいコントラストの移り変わりを楽しめるだろう。
特等席は、何やら龍が暴れて消えた曇天の空が丁度いい。
キャンバスはぐるりと城壁に囲まれた円形の街。
誰が設計したのか時計盤のように十二に区切られたその街は、日中には普段通りに影を回し、暮れてからが芸術的であった。
まずはキリグイが各地に召喚され、数か所に青い光が煌めいた。
被害はやがて赤い炎となって、円を赤くほんのりと染める。
次いで九時街のある西側――全ての炎を従えるような強烈な紅蓮が輝いた。
それから少しして大河の通る東の外――空色が集束して黒い巨人が出現した。
巨人が消えて数刻すると北の向こう――遺跡の眠る森が神々しい緑光に照らし出された。
そして今度は南の方角――街道が放射状に広がる平原を彩るのは、ブロンド髪の紳士と黒い獣である。
黒い獣は、街中に召喚される氷細工の大狼と似通った姿をしている。
違いがあるとすれば、長く太くうねる尾が二本備わっていることである。
『凍大神フェンリル』と呼ばれるその魔物は、平原に座し、全身から立ち昇る青い粒子でもってぼんやりと周囲を照らしていた。
傍らで照らし出されるのは、一見して恭しい執事のような燕尾服の男。
彼は片眼鏡を外してハンカチで拭いつつ、視線を首都を挟んで北側に輝く緑の柱に向けた。
「天使も発現しましたね、やはり北側でしたか。動くのが面倒です」
男にはさして悩んだ表情はなかったが、声色からはどこか落胆めいた感情が読み取れた。
「先程の伝鳥の報せと、今しがた堕ちたリューガンさん……大層にも『黄龍四師団』などと呼ばれていましたが、聞いたほどではありませんでしたね。それに比べて――」
カチャと目元に戻した片眼鏡と、襟元に付けた剣と翼のブローチが煌めいた。
「貴女方はとても優秀だ」
言葉の先――青く照らされる平原には、糸のような赤い長髪が揺れている。
白の軍服、軍帽、腰の鞭、黒タイツの脚に黒く光沢のある軍靴。
構成する全てがサディズムに特化したその女は、ただ一人、切れ長の眼で男を睨んでいた。
「貴様が、『ディマリオ』か」
男の名は手駒にされ使い捨てられた『霧喰事件』の実行犯から聞かされていた。
「ドリマンさんは口が軽いですねぇ。ビジネスの鉄則は信頼関係ですのに。
さて、調教師ギルド、でしたっけ? ギルドマスターの『サーバ・ベンディンガー』さん、どうしてここがわかったんです?」
ディマリオは特に焦った様子もなく、空の両手を広げて尋ねた。
口にする丁寧な言葉には、自分以外の全てを見下したような傲慢さが滲んでいる。
「推測だ」
対するサーバは、一拍だけ思案した後、あえて問いに応じた――今しがた飛ばした伝鳥の応援が駆け付けることを願って。
「貴様らはこの日に備えキリグイを街中に出現させる演習をしていた。横の馬鹿デカい親犬が感覚を掴むためにな。そしてその『霧喰事件』の舞台には、我らが七時街を選び、徹底して狙い続けた」
選んだ理由の共通認識は、人的被害をもたらさないことで捜査の動き出しを鈍らせるという狙い。
しかしサーバはもう一つ、七時街が悲劇の舞台となった理由を考えていた。
「理由は演習を大事にしないための他、もう一つ仮説が成り立つ。
どちらかというと、より浅い意味のそれは――気取られない距離でキリグイを召喚できる限界の範囲にあったのが七時街であった可能性。
つまり貴様らは街の南に身を潜めていた。そしてこの襲撃、街全体にキリグイの召喚範囲を広げるには、この場所まで進軍してくる必要があった」
ただし仮説は仮説。
如何に強引な彼女と言えど、逢王兵は確証なしに動員することができなかった。
その辺りの歯痒さを片眼鏡の奥で見通して、ディマリオは顎に触れてしげしげと返す。
「ご明察。ですから天使は北に逃がしたのですよね。本当に素晴らしいです貴女方は。しかしその洞察力故に不思議です。私の位置に目ぼしをつけていながら、何故単身なのです?」
男のおちょくりにまで付き合う義理はないと、サーバは回答を打ち切る。
「続けざまとは無礼だな。自分は貴様の問いに答えた。今度は自分が貴様に問う番だろう」
「ご尤も。では質問をどうぞ、何が知りたいですか、我々の目的? 私の素性?」
「今となっては興味はない」
肩を竦める男に即答し、サーバは視線を、一切動かずに鎮座している巨体の狼にずらした。
「自分が今知りたいのは……貴様の横の駄犬。そいつが何故貴様なんぞに従っているかだ」
サーバはフェンリルの正体にまでは至っていなかったが、脅威のレベルは目の前にしてみれば肌で感じ取ることができた。
間違いなく、目の前の巨体がキリグイを召喚している元凶である。
そして強力なキリグイを無尽蔵に生み出す能力は、控え目に考えても『傾国級』の、最上級の警戒を払うべき魔物のそれである。
世界的に見ても傾国級の魔物は、それ自体が人間の種を脅かす天敵であり、人間に与する事例はない。
それ故、どうして黒い狼がディマリオに従っているのかが疑問であったのだ。
返答は、薄っぺらいはぐらかしであった、
「酷いですね、調教師である貴女にも付き従う魔物はいるでしょう。私も従えたのですよ。絆の力でね」
「白々しい。何らかの力が働いているのはそうだろうが、ただそれはテイムのような絆の力ではなく……もっと強制的な力。傾国級の魔物を無理やりに従える何等かの能力を貴様は持っている」
「そんな、酷いですよ。私とフェンリルはきちんと主従の愛で結ばれているのです」
ディマリオは笑顔で嘘を重ねる。
可能性の話であれば、傾国級の魔物と人間が心を通わせることもあり得よう。
「貴様の言うことが本当なら――」
しかし、サーバが嘘を嘘と見抜けるのは、すぐ目の前の答えがあるからであった。
「――何故そいつは今、自分ではなく、貴様を睨んでいるのだ?」
男の傍らの黒く巨大なシルエット。
それは爛々と輝く細い瞳孔を、目下のブロンドの頭へと向けている。
牙は今にも食い殺したそうに剥き出しになり、涎がボトボトと落ちる。
「……忠誠の眼差しです」
明らかな敵意も、男にかかればそういうことで済ませられるようだ。
「いい答えだ。なるほどそのカラクリを解けばこの戦いにも勝機があるらしい」
時間いっぱい、サーバが腰の鞭に手を伸ばした。
応援を待ちたいところでもあるが、キリグイが首都に供給され続ける現状は早急に打破しなくてはならない。
「いい嗅覚です、貴女はきちんと獣をしている。少し楽しみになりました」
応じるようにディマリオも白手袋を後ろ手に回し、小さな宝玉があしらわれた柄を掴む。
それはジャラリと音を立てて引き抜かれた。
見た目はサーバの得物同様に鞭のシルエット、その実は黒刃が蛇腹のように連なった多節の剣である。
サーバは早速鞭を振り上げ、口角を上げた。
「自分は楽しむ気はないんだ、さっさと終わらせよう」
互いの武器は、間合いを詰めずに相手まで届く射程を有する。
たわみ故の時間差の後――鞭と刃の先端同士が衝突し、パァンと乾いた開戦の合図を鳴らした。
ディマリオは弾かれた多節の剣を引き戻し、身体を反転させながら横薙ぎとして再び撃ち出す。
黒の一閃を潜り抜けたサーバは、胸の谷間から魔導具――数珠に縛られ干からびた心臓を取り出した。
禍々しいその『蝮女樹の呪珠』の持つ技は二種類。
一つは、持つ者の身体を魔物へと変貌させてしまう『魔実転生』。
もう一つは、縛り上げた心臓を依り代にその魔物の生前の姿を蘇らせる技である。
サーバの選択は後者であった。
「――『魔魂種牢』」
天より数珠に向かって、夥しい緑の粒子が降り注いで纏わりつく。
やがて闇夜を照らす緑はその光量を増して、魔物の身体を形作っていく。
白い毛並みの上からでも見える太い血管と、隆起した筋繊維。
はち切れそうな上腕二頭筋と巨大な拳、膨張する大腿筋と蹄の足。
鬣を備えた白馬の頭部が咆哮を上げて、魔物は生前の姿を取り戻した。
かつて北方の村落を次々に襲った『災害級』の魔物の名は、『馬鬼ピリカ獣』という。
大柄な魔物が大地を揺るがして着地するのと同時、サーバは胸元から取り出した魔導符を振りかざして集歌を唱える。
「コール『テイム』」
テールの先に緑の光を宿した鞭を振るい、ピリカ獣の額を打つ。
額に紋様が浮かび上がり調教は完了、早速飛ばした指示は簡潔であった。
「やれ」
蹄が草原にめり込んで、暴風を纏った拳が殴りかかった。
見上げる程の筋肉の塊が烈風の速度で迫り、ビリビリと震えた空気がディマリオに浴びせられる。
男は引き戻した多節の剣で、今度は傍らのフェンリルの巨体を打った。
「片付けなさい」
すると沈黙の狼は、弾かれたように四つ足を立て――二尾を揺らめかせた。
咄嗟に目で追えたのはそれだけの所作であった。
対して残った結果は、ピリカ獣の突き出した腕と、軸足が切断されたということ。
二尾の先にはいつの間にか血染めの氷の刃が備わっていた。
「化け物め」
「ほらお供がピンチです、よっと」
軽口と共に多節の黒刃が振るわれ、直線状にサーバへと迫る。
頭部狙いの切っ先をサーバが頬に傷を作りながら躱すのを確認すると、ディマリオは黒刃の持ち手にスナップを効かせる。
連動した切っ先がそれこそ鞭のようにしなり、彼女の耳元でパァンと破裂音を奏でる。
さて、鞭を打つ時に鳴るこの音は、世間一般的には物を叩いたことにより生じる打撃音と認識されるが、事実は異なる。
正体は、先端が瞬間的に音速を越えたことによる衝撃波、空気を引き裂いた音である。
故に、切っ先を寸での距離で躱せた程度では、耳元で鳴るこの衝撃波からは逃れられない。
「くっ……!」
サーバの片耳が血を吹いた――のと同時に、ディマリオの頬が裂け、その耳元でパァンと鳴る。
「……流石です」
意趣返しの一手により、互いが片耳の鼓膜を潰し、調教師同士の攻防は痛み分けに終わる。
しかし、魔物同士の攻防はそうも行かなかった。
ピリカ獣は残った片腕と片足で大地を蹴り、錐揉みに回転しながらフェンリルへと襲い掛かる。
黒い狼は額に氷角を生成し――軽く踏み込むとすれ違い様――退屈そうにひと薙ぎにする。
スパンと、上半身と下半身が泣き別れになったピリカ獣は、片腕でフェンリルの尻尾にしがみつき、大口を開け、断末魔に風のブレスを見舞おうとする。
対するフェンリルは流し目だけを尾の先に向けて、ただただ、哀れな魔物を青く見つめた。
すると、視線を追うように青い粒子が導かれ――ピキピキと――ピリカ獣の馬面を、白い鬣を、筋肉質な腕を凍てつかせる。
たった一睨みしただけで、ピリカ獣は氷漬けとなり、自重で腕が折れ、大地に散った。
「あっという間に二体一ですね」
今度はサーバに狙いを定めたフェンリルが、尾を振りかぶる。
舌打ちして迎撃に向かわせた鞭が、同じく伸ばされたディマリオの刃に細切れにされた。
「好きなんですよ、こうやって」
集中してようやく見切れるフェンリルの氷尾による横一閃は、跳躍して避けざるを得ない。
「強気な人の足掻きを一つずつ折って」
攻撃を飛び越えたサーバの軍靴に多節の剣が巻き付いて、刃を食い込ませる。
そのままあえて切断をしないように加減して、地面へと背中から叩きつける。
身体がバラバラになりそうな衝撃で落ちた軍帽に、吐血した赤がかかる。
「表情がどんどんと絶望に染まるのを眺めるのが」
軍靴ごと脱ぎ捨て、追撃を逃れよう試みるが、一手遅かった。
フェンリルのもう一尾の鋭い突きが、真上から迫っていた。
「私が上、貴女が下、この事実ほど得難い快感はない」
狙いは察することができた、脇腹を一突きだ。
即死はさせず、されど慢心ではない。
逆転不可能な致命傷を与える一撃が来る。
受けたが最後、抵抗することもできずに地面に転がった自分は、命を失うまで、気の済むまま蹂躙されるのだろう。
――負けだ。
敗因など今更考えても遅いのだが、走馬灯が過ってすぐに思い当たるのだから仕方がない。
散々待ってみた応援が来ないことは、予想していた。
逢王兵は、街中の対応で手一杯だろうし、それがなくとも来たかは怪しい。
非常時の応援は、当然規範もあるが、統括者の裁量に任される場面が多い。
するとどうしても日頃の関係性が影響する。
普段から印象を良くしていれば、こういう時に手を差し伸べてもらえる。
自分はどうであろうか。
自分のスタンスが周囲から浮いているのは、知っていた。
元より調教師ギルドは命を冷徹に管理するギルド。
その重要性に反し、七時街の面々を除いて、表立って支持をする民衆はいない。
人間という種を繁栄させるという建前で、家畜共を畜舎に押し込める、牛や豚を醜く肥えさせ屠る、鶏が愛しむ卵を奪い去る――角を折る、皮を剥ぐ、鞭を打つ。
まだ功利主義や動物の権利論が取りざたされるほどではないが、民は感覚的に調教師ギルドの仕事を「良いこと」とは評さなかった。
誰もやりたくない仕事に就く人間。
加えて自分は他の人間に厳しかった。
自分が正しいと思うことのために、手段を選ばなかった。
誰がそんな者を助けに来るというのか。
「全く――やはり自分も貴方と同じ……難儀な役目を負ったものだ」
刹那、視界に白雪が舞ったような気がした。
それは遠く儚い、故郷の記憶である。
 





