5-26 真・古今無双
人は皆、闇に根源的な恐怖を覚えるものである。
夜――今にも落ちてきそうな曇天の帳を照らすには、首都の灯りはあまりに無力であった。
それでも守るべきものがあるからと、人々は氷の魔物や災禍の炎に追われながら必死に耐えてきた。
如何に限界を迎えていようと、寄り添い、助け合ってきた。
そんな人々が一様に見上げるのは――街の中心、逢王宮の上空であった。
厚い雲海を泳ぐように、悠然とうねる長大な蛇の胴。
まさに闇の権化と評すべき魔物――龍の獰猛なシルエットは、稲光に照らされて尚、漆黒である。
既に事足りていた絶望は、カージョナ全体に轟く咆哮により更に増大する。
大気がビシビシと揺れ、あれが放つ脅威の範囲からは逃れられないと悟った者から膝を折っていった。
――さぁ、始めようか。
力を知らしめた黒龍は、曇天から不遜に街を見下ろし、また一つ吠え声を上げる。
すると龍の周囲に、無数の青い光が集い、氷塊を形成していく。
眺める者全ての嫌な予感は、心の準備が整う前に襲いかかった。
七時街、徒党を組んでキリグイを捌く傭兵たちが歯噛みをした。
「……嘘だろ……!」
氷塊はメキメキと体積を増やし、一定の大きさに達すると街へと降り注いでいく。
悲鳴を増やしていく。
――魔物とは、端的に言うなれば魔法現象を引き起こす動物である。
少なくともそれがエルナインでの定義であった。
魔物たちは人間のように集歌や令歌を用いることなく魔法を行使する。
だから咆哮一つで街中に氷の隕石を降り注がせることもできるし……更には口元に空色の粒子を集め、旋風のブレスを放つこともできる。
零時街、身を寄せ合う避難者が、自宅の方向へと届かぬ腕を伸ばす。
「もう、止めてくれ……」
吐き出された灰色の竜巻が、首都の南東から北西にかけてを抉り飛ばしながら横断した。
民家が宙を舞い、石張りの街路がめくり上がり、重厚な造りの逢王宮が軋んで大揺れした。
「へ、ヘスマガル様! ご無事で……!?」
報告のために謁見間に居合わせた兵士は、四つん這いになりながら王の代行者である司祭服の男を気遣った。
司祭服の男は床に突っ伏し、白のマッシュルームヘアを散りばめながら指示を叫ぶ。
「王たちは地下だな!? 首都脱出に移れ! 早く!」
逸る言葉、怒号、叫び声に泣き声……声は轟音に紛れ、破壊者には届かない。
強者は一切の遠慮をせずに、弱者の全てを奪い取ることができる。
龍顔の持論通り、絶対強者は破壊の限りを尽くすのであった。
――氷塊の隕石は、学ランの少年が残された街通りにも降ってきた。
「くそっ! こんなのありかよ!」
ありのままを言えば、目の前にいた男が龍となって遥か上空に昇っていった。
それだけでも信じられないのに、この滅茶苦茶な攻撃はどうなっているのか。
迫る脅威に悪態をつき、少年は、意識のない青パジャマの幼子と、彼女の魔導書を両脇に抱え衝撃範囲から逃れる。
青い隕石に四棟五棟の建物が圧し潰され、砕けた破片が周囲の住戸をも倒壊させていく。
「……一体、どうすりゃ……」
途方に暮れるとはこのことなのだろう。
倒壊した建物に人はいなかっただろうか、『魔実転生』の力を自由自在に使えるなどあり得るのか、先程までの攻防は遊ばれていただけなのだろうか。
考えなくてはいけないことが多すぎて、脳がまとまらなかった。
はっきりしていることは、この横暴を止めるため、龍顔と同じ曇天に向かわなくてはいけないこと。
ステータス画面を確認するも、空を飛ぶ魔法『エアクローク』は悠太の使用可能魔法欄にない。
いつものように画面を足場にすればいつかは辿り着けるが、かなり時間がかかる。
「デカすぎる……俺に、何が」
広がっていく無力感に唇を噛む悠太に、脇に抱えた少女が泣きそうな声をあげた。
「ヤマダ……」
声の主は、意識を失っていた青い少女、サマーニャである。
「サマーニャ! 良かった、起きたんだな」
安堵を滲ませる悠太に対し、大きな瞳を潤ませた声は未だに震え声だ。
「ヤマダ、嫌にゃ……嫌な声、いっぱいするにゃ」
「サマーニャ……」
「ミーの大好きな街が、嫌な声でいっぱいなのにゃ、ミー、何もしてないのに、もう、ちゃんと風さんと仲良くなったのに……」
酷く狼狽した様子は、どこか現在と、何か別の記憶が混乱しているかのようであった。
悠太は小さな身体をギュッと抱き締め、強く宣言した。
「サマーニャ大丈夫だ、ちゃんと守る、俺がこの街守るから」
手立てなどなかった。
それでも無力を嘆くより前に、もがかねばならないことは思い出すことができた。
その一心だった励ましの声は、期せずしてサマーニャにも落ち着きを取り戻させる。
「ヤマダ……」
悠太に抱き締められるサマーニャは、いつかの懐かしい記憶を思い出していた。
風の天使の力を持つが故、戦場の兵器として利用されてきた自分を連れ出してくれた糸目の女性。
強大な力を持つ自分を拘束することなく、人として育ててくれたプードル顔の老人。
彼女や彼が温かく抱き締めてくれた感触が重なって、少女は自分の為すべきことを自覚した。
――ポツリと呟く。
「ヤマダ……ヤマダ、教えてほしいにゃ」
抱擁の力を緩め、悠太はサマーニャの顔に視線を落とす。
幼女の角の取れた大きな瞳は、上空の龍を映している。
「あれ、さっきの兄ちゃんにゃ……?」
「わかる、のか?」
少女は変身の瞬間を見ていないはずだが、迷いない瞳が龍から外れない様子からして、確信があるようだ。
「あの兄ちゃんを『めっ』てしたら、酷いこと、止めてくれるにゃ……?」
「……そう、だと思うけど」
サマーニャは悠太が持っていてくれた魔導書に手を伸ばし、ギュッと握った。
その魔導書の中には、いくつか嫌いなページがあった。
少女は意を決した顔で少年を見つめる。
「ヤマダ、ついて来てほしいにゃ。ミー、あの兄ちゃん『めっ』してくるにゃ」
「サマーニャ」
「でもちょっとあれは強面なので、お手て握っといてほしいのにゃ」
「子供か」
子供であった。
調子を取り戻しつつあるサマーニャに悠太は口を綻ばせ、その小さな手を取った。
「ああ、そうだな、二人でならあいつを『めっ』てできるかも知れない」
だが、返しは少し意外なものであった。
「うにゃ? それは多分、ミーだけで大丈夫にゃ!」
いつの間にか特徴的な語尾に無邪気な弾みが戻っている。
「へ?」
疑問の声もそこそこに、耳に届いたのは「たゆたえ」というたった四文字の集歌。
通常の魔導師では指先の粒子をチラつかせる程度の短さであるが、サマーニャが――天使が唱えるとなれば話は別である。
周辺の風が騒めいて、空色に煌めく粒子が二人をザッと取り巻いた。
圧倒的な集歌効率。
悠太は幼女がとんでもない存在であることを改めて思い知る。
「行くにゃ、コール『エアクローク』にゃ!」
元気よく掲げた魔導書が輝き、旋風の衣が二人を包んだ。
心地よい肌触りと浮遊感と共に身体は舞い上がり、暗い空へと導かれていく。
眼下の瓦礫の山や黒煙に息を呑みつつ、二人は街の中心上空へと向かう。
「なぁ、サマーニャ」
途中で悠太は迷いながら口を開いた。
「なんにゃ?」
けろっとした返事が戻ってきて、すっかり調子を戻したようだと判断した悠太は続けて尋ねる。
「さっき、何で龍顔にいい様にやられてたんだ? お前ならもっと反撃できたんじゃ」
「できなかったにゃ」
少女ははにかむような照れくさそうな顔つきで答えた。
「あの兄ちゃん凄く強いから……我慢しながらじゃボコボコのフルボッコだったにゃ。でも、ミーが我慢しなきゃ――大好きな街を、ミーが全部壊しちゃうのにゃ、それが嫌だったにゃ」
あっけらかんという言葉がとても物騒で、悠太の顔が引きつった。
年端のいかない少女は一瞬だけ眼下を確認し、眉をキリッと吊り上げる。
「でもお空なら、そんな心配もご無用にゃ!」
幼女が親指を立てた頃、丁度真上から氷塊が降ってくる。
そのすれすれを擦り抜け舞い上がると――目前には巨大な龍の顔があった。
「――ああ? んだてめぇら」
頭に響くような苛立ち声、口調はつい先ほどまで対峙していた功夫服の男のそれであった。
「やっぱり、意識が」
信じがたいことに、やはり龍顔は正気を保ちながら魔物化をしていた。
単純な疑問としてそのカラクリを問い質したい悠太であったが、それは元気よく名乗り出た少女に遮られる。
「そこまでにゃ! 街にいっぱい酷いことして、もう許さないにゃ! お天道様が許すと言ってるかどうかは夜だし曇りなのでちょっとわからにゃいけど、ミーが黙ってないのにゃ!」
能天気全快の宣戦布告に、黒龍は見定めるような視線を向ける。
そして、燃えるような眼光、寒気のする吐息、竦み上がるほどの殺気をもって答えた。
「黙ってねぇってか。いいぜかかってこいよ、ここなら天使様の本気が見れるらしいな!」
「ではでは……遠慮なくなのにゃ!」





