5-25 Legendary Ruler
学ランの少年は肩を弾ませ、今しがた飛び蹴りで通り沿いの家屋まで吹っ飛ばした男を睨む。
ガラ、ガラリと崩れていく煉瓦の壁にもたれる功夫服の男は、書簡を握りつぶして笑みを漏らした。
どうやら悠太の全力は、戦いの幕引きには今一歩届かなかった。
悠太がこの世界でステータス画面と共に手に入れたある種の異能『レベル』は、数値が高まるほどに身体能力が増す。
レベル一で下級魔物に喰われそうになっていた悠太は、そのレベルを上げる度、大の男を殴り飛ばせる腕力と、一足で屋根に跳び乗れる脚力と、雷に打たれても死なない耐久力を得てきた。
そんな人智を越えた力の全力を受けてなお、笑う余裕があることが信じ難かった。
瓦礫からおもむろに立ち上がった龍顔は、柄の悪い眼つきを少年に向けると血の垂れる口元を拭った。
間違いなくダメージが入っているにも関わらず、男の態度はまるで揺らがない。
「まあ、面妖な能力見れた止まりだな」
悠太の攻撃への酷評からは、粗暴で不遜、戦いに愉悦を求める男の心内が滲んでいた。
「だがやはりてめぇは糧にもならねぇ。折角作ってやった隙でも仕留めに来ねぇんじゃよ、端からやる気がねぇってことだ」
「当ったり前だ。お前みたいに平気で人を傷つける方がおかしい」
悠太は腰を落として身構える。
龍顔はそんな少年に小馬鹿にした笑みを向け、功夫服の襟に指をかける。
「ならもうてめぇとやり合って得るもんはねぇ。俺は仕事の方に戻らせてもらう」
そう言うと男は上半身の服をグイと引っ張り破り捨て、鍛え抜かれた肢体を闇夜に晒す。
腹筋は鱗のようにびっしり並び、先ほど悠太が与えた打撃痕も見て取れる。
そしてもう一つ目立つのは、首元――黒真珠のネックレスのような装飾品であった。
――その黒真珠たちは、禍々しい根で繋がれている。
まるで数珠のように。
◇◇◇◇◇
黄龍四師団の龍顔。
その名を与えられる遥か前の少年は、漁村に生まれ落ちた弱者であった。
白い砂浜と青い海を行き来する漁師の仕事は体力仕事。
小さく細い身体で生まれたのが良くなかった。
同い年の子供たちは、少年が溺れている間に銛の扱いを覚え、少年が病に伏している間に船の操作を覚えた。
決して裕福でない漁村、皆が苦しい中で生活しており、弱者は足手纏いでしかない。
故に少年は疎まれ、叩かれ、爪はじきにされた。
生かされていた理由は、共用できる鬱憤の捌け口という使い道があったからだ。
少年は日々、自問自答をしていた。
何故自分には大きく丈夫な身体がないのだろう。
そのせいで痛みを我慢しなくてはいけない。
そのせいで空腹を我慢しなくてはいけない。
そのせいで辱めを我慢しなくてはいけない。
耐えに耐える弱者の毎日。
少年は日中、花形の漁師たちが獲ってくる魚に添える香草を摘みに、遠く海沿いの崖へと登らされる。
小さく細い身体には酷な仕事であったが、崖上から眺められる入り江の漁村は、指で摘まめるくらいの大きさしかなくて気分が良かった。
横暴な漁師たちも、嫌味な女衆も、残酷な子供たちも、皆みんな、この人差し指と親指でプチっと潰せてしまえばいいのに。
そんな叶わぬ願いを胸に、少年は来る日も来る日も崖へと遠出し、迫害されに村へと戻る。
――それは白霞の出る悪天候の日の出来事であった。
海が荒れ、漁師が船を出さないその日も、少年は崖上で香草を摘んでいた。
いくら足下が悪くても休みなど与えられるはずもなく、少年自身にも村から離れられることに異存はなかった。
いつも通り、遠くの漁村を眺め、ちっぽけな満足感を満たす。
籠には八分目ほどに収めた香草。
肌寒さを感じ、少し早めに切り上げて帰路に着こうとしたその時であった。
霞がかって曖昧な海原の水平線が、黒く染まった。
雷雲が出てきただろうかと目を凝らした次の瞬間、少年の開いた口は塞がらなくなる。
水平線から近海へと、黒ずみはあっという間に迫る。
そして、海が黒く染まった原因は……影であった。
霞の中から雄大、悠然と降りてきた、蛇のような化け物の巨顔。
顎先より上はあまりにも巨大すぎて霞に隠れ、顔の全体像すらも見通すことはできない。
はっきりしているのは、それは鱗で固められた顔だけで、漁村の十数倍、漁村のある入り江の数倍の大きさということだけである。
海原に吹きかけられた鼻息が、海水を散らし、突風と大波と大雨……一瞬で嵐を作った。
海蛇しか知らなかった少年は、後にその化け物が絵巻の中に登場する空想だと知る。
空想のはずの化け物は、首元まで裂けた鰐口をこれでもかと開くと、漁村のある入り江に向けた。
少年は息を呑んだ。
あの横暴な漁師たちは今、何を思うだろう。
あの嫌味な女衆は今、どんな顔をしているだろう。
あの残酷な子供たちは今、どう泣き叫んでいるだろう。
そんなことをぼんやり思い浮かべた数秒の後――バクンと暴風と水飛沫が押し寄せる。
凄まじい衝撃波が一帯を通り過ぎ、何キロも離れた距離だと言うのに少年は吹き飛ばされ、岩に身体を強打する。
薄れいく意識の中、少年は、霞の向こうへと巨顔を引いていく化け物に手を伸ばした。
――意識は、翌日の朝に浮上した。
波音で少年が目を覚ますと、空は快晴であった。
雨は止み、霞はすっかり消え去り、青い海と白い砂浜が戻っていた。
漁村のあった入り江は、丸ごと食い千切られて、一回り大きな入り江になっていた。
少年は震える手を、ひたすらに握っては開いてを繰り返していた。
震えの由来は、恐怖からではなかった。
感銘――少年は漁村を一呑みにした化け物に強く惹かれた。
生きるためには色んなことを考えて、我慢しなくてはいけないと思っていた。
生きるために媚びへつらい、食べるために辱めを受け入れ、居場所を得るために身体を酷使しなければならないはずであった。
しかしそんなものは、弱肉強食という理由をつけられたなら、一方的に圧し潰すことができる。
強者は一切の遠慮をせずに、弱者の全てを奪い取ることができる。
少年は頭に焼け付いた光景をなぞるように、群生する香草に、五指を開いた手を伸ばした。
丹精に摘み取るのではなく、グシャリと握り潰してブチブチと毟り取る。
それを口に運ぶ。
意に知れぬ快感が少年を満たした。
それから、打ち上げられた魚に手を伸ばした、蜜を吸う蝶に手を伸ばした、水辺の蛙に手を伸ばした、巣穴に逃げ込んだ兎に手を伸ばした。
数々の弱者たちを『糧』に、少年の身体は忘れていた何かを思い出したかのように成長を再開した。
もっと強く、全てを糧に。
金が欲しかったので行商に手を伸ばした、女が欲しかったので民家に手を伸ばした、武器が欲しかったので山賊に手を伸ばした。
強くなる度に弱者の定義は広がり、多くを奪い取れるようになった。
そして際限なく成長していく青年は、やがて国が欲しくなり手を伸ばす。
戦力は適当にかき集めたゴロツキ共であった。
返り討ちに遭って、十数年ぶりに地に伏す。
抑えつけられた青年の頭に足を置くのは、歳もそう変わらぬ『青龍師団』の長であった。
青年は、再び我慢の時を迎えた。
黄龍四師団などという首輪を付けられ、龍顔などという名札を下げられ、王名に従い任務に使われる。
癪ではあった。
しかしそれは青年自身が痛感した真理からすれば、仕方のないことであった。
今は自分より国が強いのだから、国が好き放題することの非は問えない。
強者は一切の遠慮をせずに、弱者の全てを奪い取ることができる。
だから、国を相手に強者側に回るには、もっと多くのものに手を伸ばす必要があった。
例えば、更なる力――魔導具が欲しくて、怪しげな商人に手を伸ばした。
剣と翼の紋章をローブに付けたその老婆は、一つの魔導具を渡して逃げ去った。
その魔導具は――黒真珠を木の根で繋ぎ合わせた数珠のような形をしていた。
◇◇◇◇◇
悠太はその魔導具に見覚えがあった。
黒真珠を禍々しい木の根で紡いだような造形。
時に白毛の馬頭鬼を召喚し、時に人間を合成魔獣へと変貌させる恐ろしい魔導具は――『蝮女樹の呪珠』と呼ばれていた。
悠太に緊張が走り、思わず呟いた。
「その呪珠は……でも、心臓が、ない?」
悠太が目にしたことのある『蝮女樹の呪珠』は、いずれも召喚の媒体となる心臓に絡みついたものであった。
しかし龍顔の付けているそれは、首飾りとして彼を装飾している。
つまり、用途は魔物の召喚ではない。
脳裏に浮かぶのは、欲に溺れた男が緑の粒子を身体に詰め込まれ、膨張した身体が魔物と化していくあの悍ましい光景であった。
「何を、する気だ……?」
呼びかけに、龍顔は口端を吊り上げて答える。
「仕事だよ仕事。どうやらうちのキリグイや雑魚共がやられ始めたらしくてな、どうやら炙り出しは俺がやらねぇといかんらしい」
零時街で聞いた話では、彼らが街中にキリグイを放ったのは、天使である銀髪の青年を炙り出すためだという。
ブランの無事という報せは何よりであったが、それ故に龍顔の不敵な笑みが気にかかった。
ここで好きにさせてはいけないと、再び攻めかかろうとした悠太の耳に、恐ろしい言葉が届いた。
「じゃあな――『魔実転生』」
宣言されたのは、邪悪な魔導具の禍々しい技の名前だ。
技名に反応した魔導具の根が、龍顔の首に、胸に突き刺さる。
そして悠太の理解している通り、夥しい数の緑の粒子が、獲物に群がる肉食魚のように男を覆った。
「何やって……!? そんなことしたら!」
『魔実転生』は人を魔物に変貌させてしまう恐ろしい技である。
悠太の記憶では、粒子を詰め込まれた身体は際限なく膨張し、醜い魔物と化す。
解除する手段は、魔物となった人間が意識を手放す前に、『蝮女樹の呪珠』を破壊すること。
間に合わなければあえなく魔物の一員である。
そんな危険な技を自ら使うなど、自爆行為もいいところである。
先程までの龍顔の口振りからは、そこまで仕事とやらに命を賭しているようには見受けられなかった。
何が彼をそこまでさせたのか、理解が追い付かずに身体が硬直した。
その間も集まり、男を覆う粒子の量は、今朝悠太が『魔実転生』を目にした時よりも夥しく激しく発光し、内側を見ることはできない。
だから、民家の倒壊と共に黒い影が長く、高く聳えていくことは完全に理解の範疇を越えていた。。
更に、頭上からは轟音のように――頭へと響く龍顔の声が聞こえるのだから悠太は混乱を極める。
――てめぇはそこで阿保面晒して見てやがれ。
「で、でか……何で……何が……」
狼狽する思考が、一つ、最悪の可能性を示唆した。
――能動的な『魔実転生』。
その光景は、自我を保ちながら魔物化しているとしか考えられなかった。
悠然と天に伸び続ける黒い巨影。
漆黒の鱗、枝分かれした双角、大きく裂けた鰐口、研ぎ澄まされた鋭爪――暗雲に渦巻く蛇胴。
確か、ライチを連れ去ったマギという男は、『魔実転生』で変貌する魔物は、元の人間の精神を反映すると言っていた。
全てを糧とする強者に焦がれていた龍顔の魔物化した姿は、最も有名な空想上の化け物――『龍』と表現して間違いない。





