5-20 Baton touch !!
――もうお終いだ。
そんな呟きが落とされた。
零時街の煉瓦通りに集まった避難者たちは、誰もが自分たちの目の前に舞い踊る青い粒子の脅威を体験済みであった。
ひゅるりひゅるりと舞う光の内部に、パキリと氷の塊が現れる。
粒子の渦は青い旋風へ、青い旋風は吹雪の竜巻へと変容していき、巨影は大狼を模っていく。
「ま、また、キリグイだ……! 逃げろ、どけ逃げろぉ!」
突如として現れた脅威の前兆に、識別待機列の避難者たちは押せよ押せよと逃げ惑った。
怪我をおして走る者、怪我人を見捨てられない者、怪我人を見捨てた者。
怒涛の人波に揉まれながら、この街を取り仕切る医療士ギルドの面々が誘導を叫ぶ。
「皆さん落ち着いて! 広場へ! ひとまず広場へ退避してください!」
必死に叫ぶ若い医療士も涙声であった。
緊急時に最も恐れるべき事態は集団のパニックである。
折角、彼女らのギルドマスターが起きかけていた集団ヒステリーをケアしたばかりだというのに。
今は人を救うことだけが正気を保つ方法なのに。
ただでさえ首都を壊され、身内の安否もわからない。
限界状態は医療士たちも同じであった。
「……助けて、誰か」
だから、その医療士は人の奔流の中で助けを求めた。
医療士は人々を救う役割の人間である。
弱音を溢すことができる相手は限られている。
そして、そんな彼ら彼女らの弱音を掬う役割が――ギルドマスターである。
冷静沈着な声と紫のシニヨンヘア――イズナ・ヘシェルが歩み出た。
「貴女は境界の逢王兵に報せを――やれやれ、この忙しい時に面倒な」
イズナは逃げ惑う避難者たちに逆行し、青の渦から生まれ、降り立った大狼へとつま先を向ける。
手には問診票のパルプ紙。
識別用の染料を中指につけ、サラサラと伝言を書き記していく。
顕現した氷の魔物、キリグイはただ一人流れに逆行してくるイズナを睨みつけた。
伝言を完成させたイズナは、トレードマークのシニヨンヘアから髪留めを抜き、次いで腰から一本の刃物を取り出す。
メスに伝言をぐしゃりと巻き付け、髪留めで固定すると――それを思いっきり振り被り、人波に弧を描いた向こう側――街角に並ぶ診療所へと投げ込んだ。
そして窓ガラスが割れた音を聞く頃には、バサリと広がった長髪を掻き上げ、キリグイに集中した。
魔物はまず彼女を壊すことにした。
早速、長い尾を扇のように振るい、白毛を送り込む。
キリグイの仕様については、調教師ギルドの得た情報によりギルドマスター同士である程度の共有ができている。
舞い散る白毛は、宙で氷針へと変貌するとのこと。
イズナは漂うそれらの一本一本を、眼鏡の奥で見極め立ち位置を調整する。
その後、勢いよく氷針と化した白毛は、何者を貫くこともなく、カランカランと煉瓦道に落ちた。
間髪入れずに振り下ろされる尾に纏った氷刃も、ゆらりと身をずらし回避する。
キリグイは反転して頭をイズナへ向けると、額に青い光を灯して突進した。
生成された氷の角が迫り、サイドステップと半身を駆使しても躱しきれないと悟ると、腰元からもう一本、メスを抜く。
すれ違い様、氷角の切っ先にメスを当て攻撃を逸らす。
しかし交差中に角を薙ぎ払われると、イズナの軽い身体はいとも容易く数メートルも吹き飛ばされた。
身のこなしはしなやかに、煉瓦道に着地。
そして、一幕の攻防で確認した事実へと、思考を巡らせる。
――さて、困った。
まず最初に……自分には、この魔物を倒す力はない。
氷の魔物は再生持ち、トドメを刺すには、その身を一撃で消し飛ばす手段が必要と伝えられている。
イズナはそのような手段を持っていない。
カージョナ十二ギルドのギルドマスターには、確かに規格外の力を持った人物が揃っている。
しかし、本来はあくまで職を統括する身の称号、誰もが戦う力を持っているわけではない。
イズナも元傭兵ギルド所属の経歴はあるが、決してアハディオ・モンテフェルトルのような無双の戦士ではなかった。
魔法も知識こそ深いが、素質は一般人に毛が生えた程度、ヒールの範囲や精度は魔法治療に当たっている医療士たちにも劣る。
役立ちそうなのは、この仕事で培った平行思考能力と度胸、五体満足というだけの身体のみである。
――昔取った杵柄のフットワークは、すぐに精度が落ち始めた。
五体満足であった身体の太腿を、氷の針が貫いた。
イズナは顔をしかめつつ、傷が動静脈からは逸れていることに感謝した。
「……外配置の逢王兵が到着するまで、持つでしょうか……」
脂汗でずり落ちそうな眼鏡を抑えながら、左へ右へ、被弾しながらの回避で時間を稼ぐ。
肩口に、太腿に、傷が一本、二本と入っていく。
動きに合わせてバサバサと乱れる紫髪が裁断されていく。
本来ならもっと大きく回避して、被弾を減らすことができる。
しかしそれは選択肢にあげられない。
――煉瓦通りの片隅には、未だ逃げ遅れた、または逃げられない避難者たちがいる。
固唾を呑んでこの攻防を見守る彼らにキリグイを近づけないよう、イズナは通りの中央に居座る必要があった。
故に、キリグイの氷角を十分に躱せずに肩を貫かれるのだ。
「ぐ……ここまで、ですか」
傷ついていく身体の一方で、脳は最期の打算を開始した。
緊急時の鉄則は、最善の手段を打ちながら最悪を想定することである。
最善の手段は既に打った。
最悪の想定は、その手段が間に合わずに自分が力尽き、周囲が更なるパニックに陥ること。
良くも悪くも自分はこの場で目立ち過ぎた。
討たれる姿を見せれば避難者たちは絶望するだろう。
絶望は全ての判断を狂わせる最悪の熱である。
であれば自分の取れる最期の策は、人目につかない場所までキリグイを引き付けてから死ぬこと。
少しでも、希望を持てる時間が長引くように。
イズナはまた一本増えた頬の傷をなぞると、通りの向こうにキリグイも呼び込める幅広の路地を見つけた――その時である。
黒い長髪が、煉瓦通りに躍り出た。
「リベンジだ馬鹿犬ぁ! 『傀儡界雷・糸』!」
包帯の巻かれた細腕に持つは漆黒の魔導具。
悪戯好きそうな金色の眼は爛々と、小柄な身体には元気が有り余っている。
叫んだ魔導具の技名に従い、双剣の切っ先から赤黒い電撃が迸り、キリグイの横っ面を弾いた。
技本来の効力は通じないが、キリグイに黒髪の少女を認知させるには十分であった。
側面から急接近してくる彼女へと、キリグイは即座に尻尾の白毛を浴びせかける。
少女は知っていた。
青く発光してから氷針となるまでに要する時間は二秒ほど。
それらの情報と万全の素早さをもってすれば、白毛の包囲網を突破することは容易いことを。
次いで、キリグイの額に青い光が宿り――診療所に運ばれる前の最も鮮明な記憶――昨夜少女を貫いた青い凶刃を備える。
「天才たるボクに同じ技は通じないね」
とある別世界のゲームに例えるなら――死に覚え。
TVゲーム然りスマホゲーム然りでしばしば選択肢にあがる攻略法の一つである。
強敵を攻略するには必要な要素を集めることが大事だ。
要素とはレベルであったり装備であったり諸々あるが、その中で特に有用なのが情報である。
挑むべき強敵がどんな技を、何ターンで、どんな予備動作で、どの技から派生して使ってくるか。
それらを把握し、有効な選択肢を取ることで、最初はまるで手も足も出なかった相手を、ステータスを上げずともいとも簡単に倒すことができる時がある。
問題はそれらの情報をどのように引き出すかであり、その回答の一つが、死に覚えである。
実際に挑み、負けるまで相手の行動を観察し、再戦の度に情報を揃えていく。
命にリセットが効くゲームならでは攻略法であり、現実で実践など普通はとてもできやしない。
さて、復活した少女の動体視力が捉えるのは、迫る氷角の脚運び、首を下げる溜めの長さ、突き出される頭部の速度。
いずれも鮮明に覚えている、それはもう、死ぬほどよく覚えている。
「あらよっと……!」
切っ先寸前を躱し、滑り込むようにイズナの下へ。
肩口を抑えるイズナは、元気よく飛び跳ねまわる元患者の姿を喜ばなかった。
むしろ不安が頭をよぎる――自分の伝言は伝わっていないのではないか、と。
その何か言いたげな表情を見越してか、少女は双剣を握る手でVサインを向けた。
「伝言、『一撃必殺を狙える時のみ助力ください』、だっけ? わかってるって」
それは街角の診療所――二人の患者が伏していた病室に投げ込まれたメスに巻かれたメモの内容。
ニヒ、と笑った少女は、再び黒髪を弾ませてキリグイへと突進をかける。
狙いは前脚。
両双剣を打ち付けて砕ければ御の字、もしそれを嫌うなら――巨体が曇天に跳躍した。
「はんっ、やっぱ跳んだ」
キリグイの動きは、少女の記憶に新しい昨晩の攻防と同じ対応であった。
ある種の仮説と勝利の確信をもって、少女は白い歯で笑う。
「では思い知り給え、このネピテル・ワイズチャーチに楯突いた代償を」
◇◇◇◇◇
――現実とゲームの世界は区別して考えなければならない。
元の世界では呆れるほどに当たり前な常識であった。
しかし、この世界ではその認識を改めなければならない。
現実的な要素とゲーム的な要素が混在しているからだ。
少年には、このイカレた世界で正気を保つために打ち立てた三つの信条がある。
まず人には現実のように接すること――この世界には迷い惑い必死に生きている人たちが間違いなくいる。
次に手段はゲームのように考えること――世界は知り得る科学では説明がつかない力が溢れている。それを信じ、法則を見つけ、応用しなければならない。
そして未来は――ゲームのように。
一切の妥協はいらない。
堂々とハッピーエンドを目指して良い。
――とある窓の割れた診療所の屋根、学ランの裾がはためいた。
学ランの腕はまっすぐに突き出され、かざされた手の平の先には、その少年のみが視認することができる光の板がある。
まるでゲームのステータス画面。
その光の板には少年のレベル、HP、力や守りの云々――そして、使用可能魔法が記されている。
集めた粒子の色は赤。
粒子の量は軽く敵の巨体を覆うことができる程度。
照準は、宙に跳躍し真下にブレスを吐こうとしている氷の魔物。
「コール――」
地味な黒髪と黒目が、渦巻く炎の大槍に煌々と照らされた。
「イズナさん、お待たせ、しましたぁ!」
山田悠太が放った『フレイムランス』は、空中で回避のできない巨体を一気に貫く。
そしてキリグイも、絶望も、不安も、跡形もなく吹き飛ばして見せた。





