5-19 医療士ギルド ”スチールナース” イズナ・ヘシェル
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各地で氷の大狼や襲撃者の魔の手が広がり、十二ギルドを始め、首都はそれらの排除に全力を挙げています。
逃げ惑う人々は皆、安全と安心を求めて診療所区画兼避難所である北――零時街を目指します。
浮かされるような熱が伝搬している。
災禍、悪意、悲鳴、怒号、緊張……感動、安堵すら熱となり、街は悪夢にうなされる。
そういう時は冷たく、ひたすら冷やしてやるのだ。
熱が全ての悪を滅却するまで、ひたすら寄り添ってやる。
やることは決まっているというのに、どうしてそうも悩むのだろう。
◇◇◇◇◇
時計盤を模した首都の北端、零時の位置にあるのが『零時街』である。
建ち並ぶは漆喰の白い外装の建物たち、そのほとんどは診療所と病床であり、煉瓦の通りや広場には雑多なものは一切置かれていない――この街は医療士ギルドの本拠地である。
平時も緊急時も重要な役割を持つ街であるため、配置には一段と気を遣われている。
東は冒険者ギルドの一時街、西は傭兵ギルドの十一時街、南は逢王兵の本陣逢王宮に守られ、外からの襲撃には強固な防衛陣が敷かれていた。
また本襲撃においては、現状では運よくキリグイを内地に召喚されていない。
しかし、それでいて尚、戦場としての過酷さは、他の街と変わらない。
――普段は人通りの少ない煉瓦道には、恐怖と不満が蔓延していた。
「お願いです、彼の脚が……助けてください……!」
瓦礫に下半身を潰された柄の悪い男に肩を貸し、女性が懇願する。
「いつになったら治療を受けられる!」
片腕から大量に出血した妻を支え、旦那が吠える。
「娘が、娘が死んでしまう! 頼む急いでくれ!」
幼子は全身に火傷を負っており、溶けたドレス生地が爛れた肌に貼りついていた。
幅広襟のジャケットの腕に娘を抱えた父親は、人波をかき分け、我先にと進んでいく。
娘の呼吸は、刻一刻と弱まっていく。
一方で、かき分けられた側はたまったものではない。
如何に自分が軽傷であったとしてもである。
「クソ、割り込んでんじゃねぇぞ!」
「こっちだってもう死にそうなのよ!」
――襲撃により、多くの街が焼けた。
人々は神出鬼没に召喚される氷の魔物と火の手から逃げまどい、それぞれの痛みを抱えて一斉に零時街を目指した。
そこには清潔なシーツと痛みを和らげる薬草が、木の精霊の祝福を受けた医療士がいると、救いがあると信じていたからである。
「何でだよ……! こんな傷、魔法で治してくれりゃいいだろ!?」
一人の若者がそう叫んで伸ばした腕は、通りを姿勢よく進む白衣の袖を掴んだ。
白衣の女性は、丁寧にまとめられた紫のシニヨンヘアと眼鏡が特徴的であった。
彼女の名はイズナ・ヘシェル、医療士ギルドのギルドマスターである。
イズナは眼鏡の奥の冷たい瞳で若者を一瞥すると、白衣を掴む手をするりと振り払った。
「そうもいかないのです」
次いで、後ろに従えたギルドメンバーの医療士たち数人に流し目で合図を飛ばす。
「さあ、この一帯の方々にも『識別印』をつけてください」
すると白衣の医療士たちは散り散りに、通りの人々へと駆け寄っていく。
やっと治療を受けられる――そう安堵した避難者たちは自分たちの怪我を、痛みを大仰に語る。
こんなにも痛い、こんなにも苦しい、治してくれと。
そんな想いを一刀両断するように、シニヨンの女性が凛とした宣言を響かせる。
「皆様! 医療士ギルドマスターのイズナ・ヘシェルよりご案内を申し上げます!
現在! 治療に必要な薬、器具、そして何よりマナが不足しております!
皆様全員の命を救うため、皆様方全員に緊急時の規則に従っていただきます!」
言葉の意図を汲めた者は、知識のある者だけであった。
大半の避難者は、医療士ギルドの人間が来てくれたなら、治療が始まるものと思い込んでいた。
「これより『緊急度識別』を行いますので、何卒ご協力ください!」
『緊急度識別』――とある別世界ではトリアージと呼ばれることもある。
非常事態下、医療物資や人員を越える患者が発生した際、全員に普段と変わらない治療を施していては、資源はすぐに底をついてしまう。
故に、どうしても治療の選別を行わなければならず、その方法は患者の重傷度による区分けとされていた。
患者に駆け寄り、一通り話を聞いた医療士たちは、腰に下げた刷毛を取り出した。
そして、治療をすることなく彼らの手の甲を刷毛でなぞる。
知識のある者は諦めたように押し黙る。
知識のない者は、自らの手の甲に付着した白色の染料の意味がわからず困惑をした。
「なんだよ、これ……これ、だけ?」
目を白黒させる若者の前腕には、ぱっくりと開いた深い切り傷があった。
本来なら感染症予防を施し、縫合すべき傷だ。
一方で血管から逸れているのか出血はさほど多くはない。
その様子を見て、白衣の医療士は申し訳なさそうに告げる。
「白の染料は軽傷となります……広場へと避難を続行してください。十分な包帯は確保しております」
それだけ告げて医療士は次の患者の話を聞き始める。
若者は途方に暮れて、広場入口に掲げられた「白の方はこちらへ」の看板を見て身震いをする。
「……ふざけんな!」
その声は周囲の人間たちがあげる同じような怒号にかき消された。
これ以上誰も助けてくれない現実を突き付けられた若者は、歯を食いしばり立ち尽くす。
それでも誰も助けてくれないと……傷口を抑え、痛みを堪えながらとぼとぼと広場へと進んでいった。
白の染料は緊急時識別の八割を占める。
限りある物資は、失われゆく命にのみ使用される規則である。
そのため、歩ける、喋れる者は軽傷と識別され、広場での自助へと導かれる。
――染料は全部で四色。
次いで、片腕から大量に出血をした婦人の手の甲に、黄色の染料が塗られた。
婦人の夫は、意識のない妻に代わり、識別に間違いないかを尋ねた。
何故なら、案内される石造りの建物からは、炎の熱気と悍ましい悲鳴が漏れ聞こえていたからである。
「奥様の出血は縛っただけでは止まりません……! 傷を、焼きます。さ、あちらへ早く!」
黄色の染料は焼灼止血法。
戦地で用いられることの多い応急処置法であり、狭範囲の深手に使われる。
幸い、止血に使う火の粒子は避難所ではあまりがちである。
「焼く、だと……?」
妻に更なる苦痛を負わせる。
とても二つ返事では了承できなかった。
「……それで、それをして、妻は無事なんだろうな……!?」
怒りの滲んだ夫の問いに、医療士は確答をできない。
人体を焼いて無事なはずはない、必ず痕は残る。
また施すのはあくまで止血法であり、その先の治療がいつになるか、目途も立たない。
医療士は、それらを包み隠さずに説明する。
それが誠意であった。
幸いにも、夫は戸惑いと怒りを抱えながらも事情を察することをできる人間であった。
彼は意識のない妻と共に案内先へと進む。
夫婦の手は、止血中、妻の身体が痛みに跳ねる間も繋がれたままであった。
――また別の医療士は、ぐったりした金髪を俯かせたチンピラ男の手の甲に緑の染料を塗った。
「……見た目より酷いな、腑まで損傷しているか」
「あの、彼、私を庇って、瓦礫に圧し潰されて……彼がいなかったら、私、きっと……!」
寄り添う女性と医療士で男の肩を担ぐと、医療士は視線を神々しい緑光を放つテントへと向ける。
「大丈夫です。マナの加護があります、彼は必ず助かります」
緑の染料は魔法治療。
医療士ギルドの誇る魔導師による範囲回復魔法『ヒールサンクチュアリ』による治療を受けることができる。
一度に十人程度をまとめて治療するが、全快はさせない、また回復部位は脚が最優先である。
条件は、歩くことができず、意思疎通ができず、内出血及び内臓破損等による命の危機があると認められること。
女性と共にチンピラ男を運ぶ医療士は、悔しそうに本音を吐露した。
「本当は、この場の全員をこの先に案内したい……! 粒子に限りさえなければ……」
集歌減退。
ヒールを含む魔法を使うには、集歌を唱えて大気中から粒子を集めなくてはいけない。
しかし精霊は飽き性であり、そう何度も同じ人間の下に来てはくれず、同じ魔法に付き合ってはくれない。
術者が魔法を使う毎に、段々と動員できる粒子が少なくなり、最後には集歌を唱えても粒子を集められない状況に陥ることから、魔法の連発は行うことができなかった。
その事情を知ってか知らずか――胸に抱いた重度の火傷を負った少女に青の染料を塗られた父親が、激昂した。
運ばれるチンピラ男を指さして。
「ふざけるな! あんなクズ男が治療を受けられ、何故我が子が治療を受けられんのだ!」
父親の身なりは良く、九時街出身の貴族であると推察された。
彼の大声に周囲の人々が振り向き、救われるらしいチンピラ男と、救われないらしい少女に視線が集まった。
迫られる医療士はまだ経験の浅い女性であり、父親の剣幕に身を硬直させていた。
「あの、でもっ……」
「貴様新入りか!? わかっているのか! 命がかかっているんだぞ! 貴様の判断なぞ信用できるかこの識別は無効だ! 大体わかっているのか! 青の染料というのはなぁ……!」
父親の眼光に危ない光が宿った頃、二人の間に紫のシニヨンヘアが割り込んだ。
イズナは眼鏡の奥の冷たい瞳で、熱に狂った父親の瞳を見上げる。
「存じております。青の染料は凍結安置……身体の保存が行われます」
青の粒子を集めた魔法、『コールドコフィン』は氷の棺にその者を封じ込める。
普段は、遺体の保存に使われる魔法であった。
識別下での判断条件は、意識がなく、多量の失血、広範囲の損傷、心停止をしている等、助かる見込みの薄い者。
「医療士の判断は適切です。『識別』は緊急時の規則です。その子を渡してください。一縷の望みすらなくなりますよ」
多少の知識のある父親は騙されない。
凍結からの蘇生などまずあり得ないということと、まだ蘇生が間に合うということを。
「『リザレクション』があるだろう! 魂の乖離前だ! あの究極の魔法なら!」
「『識別』を要する際は規則で『リザレクション』に使用制限がかかります。他に粒子が回らなくなりますので」
「あんなチンピラに回している粒子があるなら! 娘を救え! あの男が、何と呼ばれているのか知っているか!? バッドナイフだ! 何故九時にまで名を響かせるようなゴロツキが救われ、どうしてキプラナが死なねばならん!」
「規則です。一人でも多くの命を救うため、従っていただきます」
冷たく突き放した言葉に我慢ならず、父親はイズナの胸倉へと掴みかかる。
「貴様、イズナと言ったか? 本当に貴様のような者がギルドマスターだと言うのか……!?
規則規則と思考停止もいいところだ! 規則を読むだけなら素人にもできる! よく考えろ! あのチンピラと、未来ある子供、どちらを救うべきか!」
熱の籠った叫びに、周囲の人間も賛同の声を上げる。
一般の衆目において、どちらを救うべきかが明らかであり、それは規則に斬り捨てられた自分たちの治療が優先されるきっかけになりうるから。
「さあ考えて答えろギルドマスター!」
返された言葉は、何一つ変わらない冷たい言葉であった。
「考えません。我々は規則に従います」
あんまりな物言いに、怒りが周囲も巻き込んで爆発しそうになった頃合いに、イズナは初めて語気を強める。
「一度考えてしまえば、誰を救うか決めるまで治療の手は止まります。そしてその後も都度、治療を施すはずの手で腕組みし考えなくてはならなくなるでしょう。その時間が惜しいと言っています」
凛としたよく通る声は、周囲一帯を黙らせた。
「思考が邪魔なのです。一つでも多くの命を救わなくてはならない今だけは。
だから規則に従うのです。規則とは、先人が考え、迷い、悩みに悩んだ時間の中で失われた命を無駄にせぬよう、後の世で対応する我々が同じ悩みを抱えることのないよう、思考停止するために設けられたものです。
例え瑕疵があろうと、見直すのはこの悲劇が去った後、今ではありません。今は救うのに忙しい」
イズナの胸倉を掴む腕がわなわなと震えた。
同じように硬く嚙んだ口も震え、言い淀む。
どうしても割り切れない様子の父親に、イズナはまっすぐな視線を向ける。
「……そして規則には、定めた先人の信念が根付いています。
この規則の信念は――『一人でも多くの命を救うこと』――命の価値は考慮していないのです」
父親はゆるゆると首を振った。
彼の片腕に抱かれる少女の命は、身なりの良い彼の全てを投げ売っても足りない価値があるのだろう。
そして、そんな価値がひしめき合っているのが世界というものだと、イズナは知っている。
「――ご存じですか。そこのチンピラが身を挺して一人の女性の命を救ったことを」
父親は駄々っ子のように首を振る。
「貴方も私も、残念ながら命の価値を見通すことはできません。ですがそれぞれの命は必ず誰かのかけがえのない存在になり得、価値は等しく計り知れないことは理解できるはずです。
そして計れないからこそ、人の命は数えるしかないのです。故に我々は、例え何と言われようと一人でも多くの命を救うことに迷いはありません」
父親は言い返せなくなり、娘を抱える腕に力を込めるだけであった。
「さあ、その子を渡してください。一人でも多く救うため、処置を施します」
一切ぶれないイズナの態度に、父親の脳裏に諦めが過る。
この女は何を言っても折れることはない――であれば、どうするべきか。
娘に時間がないことは百も承知だ。
「他を当たる」と、この場から駆け出すことはできよう――しかし。
「――ご協力ありがとうございます」
しかし、父親が取った選択は、胸倉を掴んだ手を離し、娘を差し出すことであった。
この緊急時、他に当てがあるはずもない。
そして何より、目の前の女性は一言たりとも、娘を救わないとは口にしていない。
それでも父親として、どんな手段を賭しても娘を救わなければならない者として、言わずにはいられない言葉だけは吐き捨てる。
「……娘が、死んだら、私はお前を殺してしまう、かもしれない」
返答に迷いはなかった。
「ご遠慮ください。殺生は平時にも禁じられています」
完全に意気消沈した父親から預かった娘はピクリとも動かない。
事切れているかの判断はしない。
そのまま、責められていた医療士とは別の医療士を呼びつけて渡す。
医療士の男性は消えかけた小さな命を抱いて、青光の灯った安置所へと駆けた。
イズナは見送ることなく、責められていた新入りの医療士へと歩み寄る。
「大丈夫ですか。つらいでしょうが、まだ貴女の的確な判断力が必要です。引き続き識別はできますか」
短い労いに、新入りは目尻を一度だけ拭うと、力強く頷いた。
「イズナ先生、ありがとうございます! ……できます、やります!
改めて気付かされました……この状況だからこそ、私たちは毅然と指揮をしなくてはいけないんですね」
意気や良し、血色も良い、心は折れていないようだ。
むしろ使命に熱が入り、前のめり気味かも知れない。
「ええ、お願いします。それと覚えておいてください。
規則は患者だけでなく貴女方を守るものでもあることを。この件で発生するいかなる責任も、貴女方には降りかかりません。
全ての責任は、規則と、規則を採用した私が持ちます。良いですか、言われた通りになさい。言われた通りで良いのです」
「はい!」
思考停止を念押しして見送る。
そしてイズナは……内心で更なる打算をしながら全体を見渡した。
――考えないなど、思考停止など、とんでもない。
襲撃直後から毎秒頭を休めたことはない。
非常時において最大の危険はパニックである。
十人十色の意見を口々に迫られては治療の手は止まってしまう。
その状況を避けるにはどうすれば良いのか。
意見を言う者をすべからく諦めさせ、黙らせ、従わせればいい。
先の富豪だか貴族だかは良い働きをしてくれた。
声が大きい故に、対応するイズナも声高に――多くの避難者に聞こえるように――規則を美化して喧伝することができた。
身分が良かったのも好都合であった。
富裕層を優遇しているというような勘繰りを予防できた。
良識のある聴衆なら先ほどの一幕で黙る。
黙る人間が多ければそれらは同調圧力となり不満を持つ人間をも黙らせる。
まだあと何回かは同じようなぶつかり合いがあるだろうが、それも想定内である。
同じような熱演をできる医療士は何人も育ててきた。
今はそれでいい。そうするしかない。
自分以外、全員思考停止をしていてくれ。
命が惜しい、余計な仕事を増やさないでくれ。
――まだまだ、この未曽有の事態に対して考えねばならないことがあるのだから。
例えば、この零時街に氷の狼が発生した場合の対処法とか。
――丁度その時、ひゅるりと、人々の待機列の背後に青の粒子が舞った。





