5-12 勝ったのは、
時計盤の九時街――十字路の対戦は最終局面を迎えていた。
真っ黒な空、火の手のあがる街並み、そして足元には赤く煌めく粒子が敷き詰められ、今か今かと爆ぜる時を待っていた。
どこか幻想的な美しさを感じる景色に、対峙するのは互いに臙脂色の学生服を着た女子学院生と女子学院生。
セミロングのゆるふわヘアにべっとりと付着した返り血は徐々に凝固し、血濡れ髪に禍々しい鋭さを与えた。
スー・フェイの刺客でもある少女、ニナ・マルムはおどけたような笑みを向けた。
「ライちゃん凄いね……? あは、力が暴発するの、堪えてくれてるんだ?」
赤毛の少女、ライチ・カペルは座り込んで苦しそうな眼差しを向けるだけで、返答は寄こさない。
「それってさ、もしかして、ガーネットさんたちみたいに、私も死なないように気を配ってくれてる? そうだよね? その気ならさっきのキリグイみたいにさっさと焼き払っちゃうもんね?」
焼き払えるはずがなかった。
『天使』の力に目覚めた赤毛の少女は、街の全てを滅却できる炎の権能を手に入れた。
制御が効かなくなる以前に、そんな残酷な力を級友に向けたくなかった。
葛藤を見透かしたニナは、意を決し赤い粒子に埋まる足元を確かめた。
「じゃあさ……私、これから動くけど、ちゃんと我慢しててね? 私、死にたくないよ」
震える声だけ弱々しく、しかしニナの表情は、どこか狂気を帯びていたように引きつっていた。
その歩みは、一歩ずつライチに向かって進み始める。
危険をおして接近を決めたのは、刺客としての任務に準ずるためである。
突然の『天使』の出現、それは誰にとっても扱いに困るものであった。
ただ、ニナはスー・フェイに属する鹿角として、国の利となる対応をしなければならない。
天使は、国の勢力図に大きく関わっている。
大陸の三大国家は北、東、西の三国だ。
この西のカージョン連合国は既に風の天使を所持しており、地方の統治を盤石なものとしている。
同様に北のジェイクブ地方には『水の天使』がいる。
一方、東のスー・フェイ地方には未だ『天使』が確認されていなかった。
そのせいで北、西との折衝に強気に出られないと、かつて成り代わった王の側近が嘆いていた。
だからこそスー・フェイ王国は、木の天使を手に入れ国力のバランスを変えるため、この遠方に足を運んだ。
遠征部隊にはニナとして得た情報を伝え、銀髪の王子が潜みそうな二時街、七時街、そしてこの九時街に師団長を配備した。
作戦の本筋は他の黄龍たちが必ず遂行する。
しかし、例え成功しても突如現れたこの炎の天使がカージョンの手に落ちてはパワーバランスは崩れたままだ。
ではどうするか。
新たに連れ帰ろうとは思わなかった。
飼い慣らすことができるとも思わない。
ライチ・カペルの筋金入りの頑固さは、ニナのよく知るところであった。
――だから彼女は、ここで仕留めることを選んだ。
ライチに敵対の意志がないなら、またとない好機である。
「ライちゃん、苦しそう、待っててね、今行くよ」
とうの昔に明かした本性を取り繕って、爛れた顔でニナを語る。
一歩、一歩、赤光で冠水した路を歩んでいく。
「……ニナ、来ちゃ、ダメ」
力の暴走を抑えているのだろう、両手は苦しそうに胸を抑えている。
弱々しく見上げてくる赤に染まりつつある瞳が、ニナの加虐心を煽った。
「あはは、まだ、ちゃんとニナって呼んでくれるんだ? あんなことしたのに、ね」
おどけた煽り言葉、しかし、ニナが同時に覚えたのはわずかな違和感であった。
苛立ちか不安か、いずれにしろそれは山ほどこなしてきたこれまでの任務では感じたことのない引っかかりで、不快極まりなかった。
この気味の悪い違和感を払拭するにはどうすればいいか。
考えたニナは歩幅を広め、辿り着いた足元の少女を冷たく見下ろす。
眼下、憔悴しながらも瞳に力を宿す赤毛の少女を片付ければ、この謎の不快さから解放されるだろうか。
「……ニナ、ぐっ!?」
片や血塗れの手、片や火傷の手、ニナの両の手がライチの汗ばんだ首を絞めた。
「じゃあね、ライちゃん、抵抗しないなら、これで終わりだよ」
ギリギリと、首の骨は容易く折ってやらない。
ギリギリと、苦悶の顔を見てやろう。
ギリギリと、そろそろ目が充血して、舌が差し出され、顔が破裂寸前まで鬱血する頃合いなのに。
「……あれ、あれれ?」
ちゃんと絞めているはずなのに、ライチの顔には苦しみより驚きの表情が大きく出ていた。
ギリギリと、殺す気で絞めていた自身の手に、それほどの力が込められていなかったと気づく。
薬物でも盛られたか、魔法の一種か、理由は不明であり、ニナの抱える違和感が、大きく大きくなっていった。
錯乱を始めるニナの様子に、ライチはとある可能性を感じ……やがて確信した。
「ニ、ナ? ……そう、なんだ」
訳知りな言い方が癪に触った。
ニナはライチを突き飛ばし、地に伏した少女の胴を思い切り蹴りつけた。
胃液を吐いて赤の絨毯を転がったライチは、げほげほと咳き込む。
「何なのその顔、その目、ライちゃんこれから死ぬんだよ? ニナに、私に殺されるんだよ!?」
そう、力を使う気がないなら天使など取るに足らない。
あくまで自分が狩る側だという立場は変わらなかった。
変わってはいけなかった。
「なのに何でそんな、見透かすような、哀れむような……それって、それって――」
刹那、鹿角の中の確かな部分が震えた。
◇◇◇◇◇
黄龍四師団に入団する時、真名を捧げよと言われて困惑したのを覚えている。
何故なら成り代わりを生業とする彼女の一族に真名は、端からないからだ。
適当にその時成っていた宮廷の要人婦人の名を捧げ、少女はある種確かな名前を賜った。
『鹿角』――それは誰に成り代わってからも名乗ることができる唯一の名前。
その時の不思議な感覚が忘れられなかった。
確かな自分をもらった気がしたのが嬉しくて、悦びをくれた王に、一生付き従うことを誓った。
それから何人も殺して、何人にも成り代わった。
ある時は汚れた軍師官、ある時は嘘だらけの神父、ある時は悪意に満ちた医者……売人、反乱因子、貴族、果ては王族。
成り代わり先は誰も彼も謀略の中にいて、油断ならない殺伐とした人間関係に生きていた。
踏みにじっても何とも思えない、汚れた人生ばかりと出会ってきた。
だから、西方の諜報のために成り代わったニナ・マルムという少女は新鮮であった。
こんな汚れた世界で花のように笑い、こんな嘘だらけの世界を真っすぐに信じ、こんな悪意に満ちた世界に夢を見ていた。
まさに拍子抜け、成り代わりは非常に容易く完了した。
他国でこんなに楽に成り代われる背景は、首都に上ってすぐにわかった。
――国が平和だ。
多種族が集まっているにも関わらず、カージョン連合国にはあまり対立がなかった。
というよりは、対立を小規模な段階で発散させるのに長けた気風があった。
鹿角が初めての平和という体験に戸惑う中、声をかけてくれたポニーテールの少女がいた。
「よっ、お前も魔導師ギルド入るのか? 一緒に行かね? アタシはリズリー、リズリー・バートリーってんだ」
入隊式の日、先輩に話しかけまくっている風変わりな赤毛の少女がいた。
「私ライチ・カペルっていうの。リズリーにニナね、同じ寮だってね、これからよろしく!」
それからの毎日は、戸惑いの連続であった。
祖国では何を得るにしても成り代わり、騙し、盗み、奪う必要があったのに。
異国ではそれらを、協力して、共有して、助け合って掴むのだ。
貴族やギルドマスター等、諜報に持ってこいの人間は多くいたが……鹿角はそれ以上、誰に成り代わることもしなかった。
長く、ニナ・マルムでいることを選んだ。
それも、初めての感覚であった。
◇◇◇◇◇
「それってさ――ふざけてるのかな……!」
自然と、言葉に怒気が混ざっていた。
赤い粒子に脅されて尚、怒りの感情が勝った。
見上げてくるライチに自らの影を落とし、ニナは半分爛れた顔の口をへの字に曲げ、眉を吊り上げた。
「ずるいじゃんライちゃんたちだけ、こんないい国に生まれて、いい思いして……これだけ裏切ったのに、これだけ煽って、馬鹿にして、踏みにじったのに、なんで? なんで汚れないの? なんでそんなに――」
気高く、美しくいられるのか。
そんなものがこの世にあってはいけなかった。
誰にでも成り代われる百面の支配者、鹿角よりも輝かしい人生など、あってはいけない。
「――やっぱりいいや、ニナって誰?
私は鹿角、スー・フェイの誇り高き懐刀……!
あんたなんかの友達じゃない。あんたを殺して、王様に褒めてもらうんだ」
禍々しく歪めた五指を構える。
心臓を抉り取ってやるつもりであった。
「私は――鹿角だ」
誰かに言い聞かせようとした声に、ライチは苦しみを圧して目を細め――諭してやった。
「ううん、あなたは……ニナだよ?」
それは悠太やマグレブ、リズリー、それからニナにも向けられたことがある微笑みであった。
ライチは赤面症の癖をして、時折眩しいほどの笑顔を真っすぐ向けてくる時がある。
そんな笑顔も、祖国ではもらったことがない。
「何言ってるの? ニナ・マルムはとっくの昔に、ライちゃんに会う前に! 私がこの手で……」
「でも、あなたは、リズリーを、殺さなかった」
ニナの目が見開かれた。
「あなた、凄く、強いもの……あの、不意打ちで、仕留めそこなうわけ、ない。それに、私や、ガーネット、マグレブも、いくらでも、何とでもできたのに……でも、それをしなかった」
「それは」
理由の説明が出来なくて、言葉は続かなかった。
「はあ、はあ……ふふ、当然よね、だってニナは、そんなことしないもの。あなた、本物のニナになったんでしょ……?」
刺客の少女は、ふらついて頭を抑えた。
そしてゆるゆると首を振る。
続きをそれ以上聞きたくないというように。
「楽しかったんでしょ、ニナの人生。好きになったんでしょ、ニナって女の子を。憧れたんでしょ……ニナ・マルムに」
「う、あ」
――成り代わりはその者を十分すぎるほどに調べつくす。
何事もなければその者の人生を全うして誰にも気づかれないほどに調べ、尽くす。
生い立ちを聞いて、その者の反応を学べば、自ずと幼少の記憶にも見当がつく。
自分が生まれた時からその人間であったと思い込めば、自分すら騙せてしまうほどの完璧な模倣。
だから自分を保つには、どこかで成り代わり先の相手を見下す必要があった。
自身は百面の支配者、自分の人生のみが輝かしいものだと優位性を保ち、元の鹿角の人生に戻れるようにしておく必要があった。
――殴られたような酷い頭痛がニナを襲った。
血に濡れた手で、血濡れ髪をぐしゃりと掴む。
自分は鹿角であり、ニナはあくまで仮の姿だと言うのなら、何故鹿角としての最善を尽くさなかったのか。
何故――偽者と疑われて苛立ちを覚えたのか。
「あなたは、負けたのよ……あなたがニナに成り代わったんじゃない……ニナが、あなたに乗り移ったの」
心の主導を明け渡すことは、成り代わりの禁忌である。
その瞬間、本当の自分がわからなくなる。
今まで成り代わってきた者、殺してきた者が諸手を上げて、この身体は自分のものだと主張してくる。
与えられただけの鹿角というアイデンティティでは、到底それらに太刀打ちできない。
そして、赤毛の少女が宣告をした。
「――勝ったのは、ニナよ」
それは成り代わりを打ち破る魔法の言葉であった。
「あ、あああ?」
ニナは頭を抑えたまま、ふらついて二歩、三歩と後ずさる。
そして焦点を暴れさせる瞳で叫びを上げた。
「私、私? 私は……うあああ!」
一転して追われる立場になった。
身体は周囲を取り巻く赤い光に、心はニナ・マルムに。
どちらかに捕まれば、鹿角という存在は塵も残さず消えてしまう。
こうなれば、最早任務も戦いもなかった。
恐ろしくて恐ろしくて叶わず、ニナはのけぞり返って壊れた雄叫びを続ける。
髪を毟り、顔に爪を食い込ませる。
決着は、暴力的な天使のマナがつけるでも、残忍な刺客の手がつけるでもなかった。
少し内向的で大人しく、優しく付き合いがいい、そんな丸眼鏡の少女が花のように笑った時には、既についていた。
――狂乱が息切れした後、ニナはふらりとライチに背を向けた。
そして足取り重く、逃げ出さざるを得なくなった。
「ニナ! 待ってニナ!」
その声すらも恐ろしい。
その声に立ち止まってしまいそうになる誰かが、確かに心の中にいる。
だから振り切ろうと、一心不乱に走り出した。
赤い光からはやがて逃げ切れるだろう。
しかし、心からは逃げ切れない。
常に消滅に怯える毎秒に耐え切れず、鹿角は夜の闇に消えて行く。
闇に溶けて、消えていく。
◇◇◇◇◇
――赤絨毯の十字路に、残ったのは赤毛の少女。
走り去る女を憔悴しきった瞳で見届けて、ライチは震える息を少しずつ抑えていった。
ニナを追わなければ。
そのために、力を抑えなければ。
彼なら絶対に、力に呑まれたりしない。
彼の隣にいたいなら、この力で誰も殺してはいけない。
その念だけであった。
――焼カナイノ? マダ、オ預ケ?
「ごめん……助けて、くれて、ありがとう……でも、もう誰も、焼かないよ」
――詰マラナイノ。
やがて、九時街全体に広がっていた赤い光は、名残惜しそうに天へと消えていった。
「……父さん、母さん」
古い記憶の中、業火に包まれる二人の姿が浮かぶ。
自分はもう、彼の隣にいる資格はないのかも知れない。
疲れ切った心は限界を迎え、意識を手放す。
「ニ、ナ……」
……誰もいない石畳、赤毛の少女はトサリと倒れ込んだ。
◇◇◇◇◇
赤の覚醒は、いくつかの陣営の目に届いていた。
とりわけ早く行動を開始したのは――九時街の屋敷屋根に佇む白いローブの少年であった。
フードからは軽薄そうな茶髪の前髪が覗いている。
「――ラッキー」
「マギ君、早く隊列に戻らないと」
隣に寄り添う同じ色のローブを被った少女の頭を乱暴に撫でまわし、マギは口に弧を描いた。
「いんや、もういいや、目当ては見つかったよ。下らない兵団ごっこはお仕舞」
そして魔の手が、赤毛の少女に伸びる。
「さ、ライチちゃん捕まえて戻ろうか――俺たちの陣営にね」
(脇腹貫通は十分な殺意では……?)
お読みいただきありがとうございました!
ひとまず九時街での戦闘、ヒロインの覚醒などは以上です!
今後は場面を転換して別の対戦カードに移ることとなります。
重要なセンテンスが絡まない戦闘はパッパと進めていければと存じます!
少しでも面白いなと感じられましたら、評価、ご感想等お聞かせください!
とっても励みになります!
用語設定
『ニナ・マルム』
カージョン地方南東、海に近い村の出身。
故郷のフラム村には広大なクロッカスの花畑があった。
花畑はある日、海岸線に生じた大規模な陥没により潮風に晒されるようになり、塩害で壊滅した。
娘は村のかつての風景を蘇らせるため、風の魔法を学びに村を出る。
――彼女は素晴らしい友たちと、一度も出会うことなく友情を育み、脅威から救った。





