1-4 ありがとう、どういたしまして
――真っ暗闇の中。
佇んでいるといきなりトラックに撥ね飛ばされた。
地面に打ち付けられ、目の前を見ると、飼い犬のポッチーがずたずたな姿で横たわっていた。
悲鳴を上げて抱き上げるとそれはドロリと溶け落ちて、周囲には獣のような唸り声が響きだす。
漆黒から歩み出たのは、小柄ながら邪悪な顔つきをしたゴブリン共であった。
手には悠太の家族や友達の首を持っていて、ひたひたと迫ってくる。
どうしてか声は出なくて、対抗する手段もなくて、次々に飛びかかってくるそれらに引き裂かれて、山田悠太の一生は幕を閉じた。
◇◇◇◇◇
「――うわあ!」
「きゃあ!」
急浮上した意識と共に上半身を跳ね起こす。
顔面がバフっとやけに柔らかい感触にぶち当たり、驚いてムニュっと押し返す。
「ちょ、やだっ!?」
どこか艶めかしい声に戸惑う。
感触は驚いたように飛び退いていった。
意識は大混乱である。
とりあえず肩で息をしながら、自分の胸に手を当てる。
視線を落とすと、血の染みが残るシャツを着ていた。
身体はほつれの目立つ布の上にある。
それは藁を敷き詰めた上にボロ布を広げた簡素な寝床のようであった。
額からベチャリと手ぬぐいが落ちる。
傍らには学ランとワイシャツが畳んで置いてあった。
ワイシャツには、ほんのりとピンクの染みが残っている。
周囲を見渡すと、そこは木造の小屋のようであった。
窓の外は曇り空。
高木の枝先と同じ目線だ。
木の上のツリーハウスなのかも知れない。
そして、部屋の片隅には、ちゃんと人の形をした人影があった。
肩で切り揃えた赤毛、薄亜麻色の服を茶皮のコルセットベルトで留め、腿丈のスカートからすらりと長い脚が伸びている。
強気そうな眉と澄んだ青い瞳が印象的であった。
彼女は、身構えていた。
整った顔を赤らめて、胸を隠すように押さえて。
ようやく追いついてきたのろまな頭が、跳ね起きた顔面がどこに突っ込んで、何を押し返して、揉みしだいて、どうして少女に悲鳴を上げさせたのかを思い出させ、冷や汗が垂れる。
「あの……ごめん、すみません、その、不慮の、事故でして」
青い瞳は不満げで不審そうである。
細い腕は壁に立てかけられた槍に伸ばされつつあった。
厳しい視線で睨まれること約十秒間、生きた心地はしなかった。
沈黙に耐え切れず、もう一つくらい言い訳を足そうとした時、彼女は身構えていた体勢を解き、その身を抱くように腕組みをした。
青い視線の警戒は解けない。
「……本当にたった今起きたのであれば、何よりよ」
機会を伺っていた変質者との疑いは晴れないらしい。
「まあ、いいわ。起きたのなら支度して。村に戻らないといけないの」
「え、支度……村、とは?」
わけの分からない状況に、再度のろまな脳細胞を急かす。
つい最近も、このような形で記憶を辿った覚えがあるのだが、それはいつであったか。
――そこまで考えて、意識は完全に覚醒した。
ゴブリンに噛まれた左腕を振り上げ、凝視する。
肘から先は、ちゃんと付いていた。
よく見れば前腕に傷の痕らしきものもあるが、痛みはまったくない。
肩も肘も手首も指も、問題なく動く。
この場に医療機器など見当たらない。
全ては夢だったのかとも思ったが、彼女の髪色や衣装が、未だここがファンタジーの世界だと告げている。
とすると……一つ尋ねなければいけない。
「……えっと、これ、その、あなた、様? が治してくれ、ましたのですか?」
戸惑いと後ろめたさで言葉が変であった。
彼女は先ほど飛び退いた際にこぼしたのであろう手桶の水をてきぱきと拭きながら答える。
「治したのは貴方の魔法でしょ。私は集めただけよ、『集歌』も唱えられない程ボロボロだったお粗末魔導師さんの代わりにね」
「魔導師?」
もう一度周りを見渡すが、ローブの老人も、つばの広い帽子の女性もいない。
視線を戻すと、じとりとした青い瞳が真っ直ぐこちらを見据えていた。
悠太が自分自身を指差す。
こくりと頷かれた。
首を横に振る。
眉が訝しげに歪んだ。
「いや違……ごめんなさい魔導師って何です? シューカって?」
素直で正直な疑問であった。
だから、少女に物凄い勢いで迫られ、両肩を掴まれたことに怯えた。
「ひっ」
「嘘でしょ本当!? あなた記憶喪失とか言うんじゃないでしょうね! 魔導師が集歌も覚えてないんじゃ意味ないじゃない!」
目の色が変わった彼女に揺さぶられながら、脳内で状況のすり合わせをする。
口ぶり的には、彼女の言う魔導師は自分のことである。
そして意味不明のシューカという言葉は、魔導師とやらが覚えていて然るべきもののようであった。
結局わからない。
せめてヒールのように、ゲーム等に出てくる言葉であれば想像のしようもあるのだが……とりあえずステータス画面にヒントはないだろうか。
そこまで考えてはっとする。
「嘘吐いてないわよね? 何度でも確認するわよ、あんた本当に何も覚えてないわけ?」
――この少女は、誰だ。
名前を知りたいわけではない、どういう存在の人間かが疑問であった。
「呆けてないで答えなさい! 言葉は覚えてるでしょ!」
そう、考えてみれば、明らかに現代日本風ではない出で立ちの癖に、普通に日本語で話せることも不思議である。
疑問は溢れ出て止まらない。
しかし、捲し立てる眼前の少女の前で長考することは難しそうであった。
――なので、悠太はまず、現時点で確かな行動をとることにした。
「ま・ず・は!」
これ以上肩を揺さぶられるとまた意識が飛びそうなので、彼女の肩を掴み返して言ってやる。
「助けてくれてありがとう! 俺の名前は悠太! 山田悠太です!」
若干やけくそ気味ではあったが、お礼と挨拶は基本。
少なくとも介抱してくれた恩人なのだから、これだけは言っておかないと気持ちが悪かった。
言われた本人はまたも目を丸くして、悠太が視線で「君の名前は?」と問いかけると、バツが悪そうに腕をどける。
思ったより距離が近かったことに気づき、悠太は頬に熱を感じた。
「だから私は別に助けたわけじゃなくて……ああもう! 私はライチ。ライチ・カペルよ! ど……」
「ど?」
「どういたしまして!」
プイっとそっぽを向いて言い放つ仕草が捻くれたわりには律儀で、思わず笑みが込み上げた。
直前に迷った身の振り方は、彼女のその仕草で決まった。





