異世界【前編】
「まさか……」
「ま、さか……」
リュカを見上げる歩美。
歩美を見下ろすリュカ。
二人の頭の中の考えは、一致していた。
「き、君は、異世界から来たのか……?」
「え、ええと……わ、私は……日本という国にいたはず、なん、ですけど……」
「ば、かな! ……っ、まさか! …………す、少し待っていてくれ!」
「は、はい!」
異世界。
その単語に喉が一気にからからに乾いた。
粘膜が張り付くような不快感。
扉が出て行ったリュカの「ハーレン! 聖女召喚は成功したのではなかったのかー!」という叫び声が聞こえる。
(せ、聖女?)
そのあとは数人の話し声。
慌ただしい気配。
ガシャンガシャンと鳴り響く鎧の音。
明らかに人数が集まっている。
ガヤガヤと賑やかな扉の外。
そして突然、シーンと静まり返る。
「…………?」
「失礼した」
「あ、はい」
扉を覗き込んでいると、ガチャリとノブが回る。
戻ってきたリュカの顔色は、悪い。
「……あ、あの……」
「……」
「え?」
リュカは無言で、先ほどのように歩美の前に跪く。
ただ先ほどとは明確に違いがあった。
まるで歩美に敬意を払うような、そんなスタイルに見えたのだ。
なにより眼差しが違う。
あまりにも突然変わった空気に、戸惑う。
「え? あの……」
「度重なる無礼をお許しください。……ご説明したい事と、確認して頂きたい事がございます。何卒、城内の応接室までご足労願えませんでしょうか?」
「…………、……あの、でも娘を……」
「はい、その事も含めてです」
「……………………分かり、ました」
なにか尋常ではない。
突然のリュカの変化に戸惑いながらも、立ち上がった彼が手を差し伸べてくる。
一瞬迷って、その手を取った。
膝の怪我は治ったが、痛みを思い出してしまったからだ。
大きく固い手に引っ張られて立ち上がる。
リュカが扉を開くと、やはり大勢の鎧姿の男たちが列を作って立っていた。
彼らは歩美を見ると腰を曲げてお辞儀をする。
なんとも、居心地の悪さを感じた。
リュカを目線だけで見上げると微笑まれる。
そうではない。
説明が欲しいのだ。
しかし、リュカは「こちらへ」と歩美を建物の中へと誘う。
胸に置いた左手をきつく握り締め、先行くリュカの背を追って歩き出した。
しばらく歩くと渡り廊下に出る。
石畳、定間隔の柱、石の天井。
T字路に着くと、リュカは左側へと曲がる。
新しい建物へ入れば、そこはまた一気に雰囲気が変わった。
金色の二本線が入った赤い絨毯が延々と長く続く廊下を彩る。
建物の作りが明らかに変わった。
(もしかして、お城の中? ……真美……お城に保護されているのかしら? 無事? 怪我とかしてない、わよね?)
森の中から見えた城。
それほど遠くはなかったはずだ。
ようやく見えてきた階段を、リュカが登り始める。
「足元にお気を付けください」
「は、はい」
返事をしただけなのに微笑まれて、胸がわずかに高鳴った。
モデルのような男だと、今更ながらに思う。
クリーム色の淡い髪。
深い緑色の瞳。
整った顔立ち。
中でも、少し太めの眉が男らしくて素敵だと感じた。
それに、日本では見かけない屈強な体格。
あの重そうな鎧を物ともせずに纏い、歩いていく。
そして二階に着くと、長い白のローブを着た老人が数名立っていた。
「剣を」
「……任せます」
二人の老人が前に出て、リュカから剣を預かり下がっていく。
丸腰になったリュカは歩美に「こちらです」と右の通路を指す。
そのまま、また、リュカの背中をついていく。
(ひぇ……)
後ろからぞろぞろと老人たちがついてくる。
全部で十人ほどの老人は、不躾に歩美を後ろからジロジロ見ているようだった。
そしてついに突き当たりの部屋へとたどり着く。
(疲れた……。真美……この先にいるの?)
それほど高いヒールではないが、パンプスでこの距離はさすがに堪える。
普段座り仕事なので余計だろう。
「こちらでお待ちです。ご確認ください」
「? え、あ、はい」
リュカが扉を開く。
他の場所とは違い大きな観音開きの扉だった。
金のドアノブは回すタイプではなく引くタイプ。
それをゆっくり開くリュカの大きな背中。
この背中にさっき背負われていたのだと思い出して、わずかに顔が熱くなる。
いや、それよりも『確認』しなければならない事柄だろう。
もしかして、と祈るように扉の奥を覗き込んだ。
しくしくと泣く子どもの声。
ハッとした。
「真美!」
「!」
大きな模様の描かれた、とても広い部屋だった。
その中心で、体育座りをして泣く娘の姿を見つけた歩美は甲高い声で叫んだ。
足の疲れも忘れて、室内に飛び込む。
顔を上げた真美の周りには、老人たちと同じローブ姿の人々がオロオロした様子で立っていたが、歩美が駆け寄ると道を開ける。
「真美! 真美〜! ああぁ、無事で良かった〜!」
「……お母さん……っ……おかあさぁぁあんっー!」
堰を切ったように二人でワンワンと大泣きした。
目の前に迫った車。
あまりの速度で、確実に死を覚悟した。
そんな中、目を覚ましたら森の中に一人。
隣にいたはずの娘はおらず、胸が張り裂けそうだった。
混乱して、取り乱して、きっと今、化粧もぼろぼろでひどいことになっているだろう。
だがそんなのどうでもいい。
娘がいた。
泣いてはいたが、無事に。
抱き締めて、しっかりと腕の中に閉じ込める。
不安だったに違いない。
怖かったに違いない。
大人の歩美ですら、不安で死にそうな気持ちだったのだ。
「よか、良かったぁ……怪我は? 痛いとこない?」
「う、うんっ、へ、へいき」
「ほんと? ちゃんと見せて。顔は大丈夫ね。腕は? お腹は? 足は?」
「へ、へいきだよぉ……」
「…………そう……」
一通りチェックしてから、もう一度抱き締める。
グスグスと泣いいた真美も、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
涙をお互い拭い、歩美は真美の頭に頰を押し付ける。
「本当に、無事で良かった……」
「……うんっ」
「あー……こほん」
「!」
わざとらしい咳払いにハッとした。
座り込んだまま真美のいた部屋の奥を見ると、一人の初老の男が座っている。
白い髪を三つ編みにした、歩美より少しだけ歳上の男は大層な椅子から立ち上がった。
着ているものも、雰囲気も、周りのローブの者たちとは桁違い。
真美を抱き締めて、必死に不安を押し隠す。
「あ、あなたは……?」
「失礼、名乗るのが遅れたな。我が名はエルランディル・クレーメンス。このクレーメンス王国の国王だ」
「…………クレーメンス?」
聞いた事のない名前だ。
それに、国。
王国、そして国王。
(お、王様?)
外国に未だ『王国』は存在する。
しかし、海外に来た記憶はない。
となればやはり、先ほどの考えが再び頭を擡げる。
(そ、んな事……そんなバカな事……)
また頭がぐるぐると混乱してきた。
一歩一歩近付いて来る『国王陛下』に、娘を抱く力を込める。
嫌な予感しかしない。
「そう怯えないで頂きたい。……失礼だが、聖女の母君であらせられるか?」
「…………せ、聖女?」
「左様。事情を説明しよう。……ゆるりとくつろげる部屋へ案内する。リュカ」
「はい。……アリサカ様、こちらへ。聖女……いえ、娘さんもいつまでも硬い床に座らせておくのは可哀想だ。……ええと、お茶でも飲みながら……どうですか?」
「…………」
少しだけ、情けなく微笑まれる。
真美を見下ろすと不安げな表情で見上げられた。
(確かに……この辺な模様の描かれた床はちょっと気味が悪い。……魔法陣、みたいな……まさかね? 私ってばゲームのしすぎかな?)
それほどハマっているわけではないにしても、せいぜい会社の同僚に勧められ、嗜む程度にスマホゲームは歩美もやる。
ファンタジー系で見かけるような模様。
いわゆる魔法陣。
そして、聖女と呼ばれる娘。
心臓がうるさいぐらいに鳴り響く。
「い、行こうか、真美。床痛いものね」
「……うん」
「立てる?」
「うん」
娘と共に立ち上がり、リュカを見上げる。
相変わらずどこか困った笑み。
案内されたのは、すぐ横にある部屋。
ローブの者たちは少し豪勢なローブを着た者を残して、大きな方の部屋へ入っていく。
そして案内された部屋の中は、それはもう贅の限りを尽くしたような部屋だった。
シャンデリア。
黒光りの家具。
装飾の彫られたテーブルと椅子。
ツヤッツヤのソファー。
ふかふかの絨毯に、煌びやかなカーテンと窓枠の窓。
ごくり、と息を飲む。
壁には八人もメイドが立っていた。
「こちらへ」
リュカに促され、ソファーに座る。
恐る恐る腰を下ろすと、まあ沈む沈む。
ふっかふっかすぎやしないだろうか。
真美もあまりにふかふかのソファーに歩美を見上げる。
その表情は、先ほどとは違い「スゴイ!」とありあり書いてあった。
そして、メイドさんより無言で差し出されるお茶。
紅茶のようだった。