第2話 変性少女と蛸の足
「まあ、愛情表現の一環みたいなところはあると思うよ。多分。僕は心理学とか詳しくないけど、なんかそれっぽい感じもするし」
げんなりと項垂れる、僕。
その隣で、まるで労るかのように僕の頭を撫でている――手ではなく、ブックカバー付きの文庫本で――トモカ。
そして今、適当でなげやりな言葉を使って励ましてくれた僕っ娘が、ヤヨイさんだ。
彼女はトモカと同じ特級特異点防衛班であり、二人目の見た目がまともな幻脈使いだ。
少々適当気味ではあるけどできれば、中身がまともであってくれることを祈る。
祈ろう。
祈りたい。
祈る自由はあるはずだ。
目の前に置かれたカップに視線を落とし、波打つコーヒーを眺めながら、折れた心を懸命に繋ぎ止める。
「さて。益体のない慰めはこれくらいにして。本題に移ろうか」
ヤヨイさんがにこやかに言う。
飲み物に口をつける動作一つとっても良家のお嬢様のような佇まい。
それだけで場の空気が引き締まる。
僕の頭上から文庫本の気配が消えた。
「改めて、僕は久能夜酔。十八歳だ。きみたちより二つ年上だね。ああ、それとコードネームは、SPD006-αと呼ばれているよ。そっちは書類上に限った話だけど。挨拶が遅れたことについては、どうか許してほしい。任務があって――」
「ん。その任務の成果は、私も聞きた――むぐっ」
ピンク色の触手が、トモカの口を塞いだ。
……触手?
「それは後だよ、九重さん? まあ別にきみの記録を塗り替えたりはしていないから、安心して」
微笑むヤヨイさんのちょうど背中あたりから、それははみ出していた。蛸足を思わせる吸盤のついた、僕の腕ほどもある太さの触手だ。
「……って。ああ。しまったな。やってしまった。ゆっくり説明するつもりだったのに。ええと、新人くん? 怖がらないで聞いてほしいんだけど、これは僕の幻脈使いとしての能力でね。……おっと。その前に幻脈使いについては知っているかな?」
問いに頷く。
もっと言うならヒヅルさんを見たのだから今さら触手くらいでさして恐れはしていないけれど、口に出してしまうとヒヅルさんの耳に――いや、髪に届いてしまうかもしれないので黙っておいた。
沈黙は金、ってやつだ。
「よろしい。なら話は早いね。この通り、触手は僕の能力だ。正確に表現するなら蛸足だけれど」
現れた蛸足は八本。
背中から現れていたように見えたそれらは、根っこごとだんだんと下へ降りていき、やがて八本すべてが彼女の足のように、着物の下から生える。
「スキュラというモンスターを聞いたことはあるかい?」
「名前と、簡単な外見だけなら」
半人半蛸の姿をした、女性のような怪物だったか。
「十分だ。少し能力を引き出すだけなら、たとえば人差し指の先だけを蛸足に変えることもできるんだけどね……全部引き出すとこんな風に、上半身が人間で下半身が巨大な蛸になるのさ。蛸足には怪物らしい怪力のオマケつきで」
「すると、それで殴ったりして戦うわけですか」
「それもできるけど……メインはこっちかな」
ぽたり、と。
一本の蛸足の先から液体が落ちる。
瞬間。
じゅうっと音を立ててテーブルに穴が空いた。
「蛸足の表面に分泌液が滲出できてね。今みたいに溶解液を出したり、麻酔にしたり毒にしたり。砂糖水を出したり」
ぽたりと一滴、透明な液体をコーヒーに落とす。そして別の触手でカップを掴み上げて一口、ヤヨイさんは微笑んだ。
「うん。おいしい。やっぱりブラックは性に合わないね。他には薬なんかも出せるから、結構重宝するんだよ? 性格を含めれば、『払暁』のエンバンカーとしては最も汎用性がある能力だと自負している」
確かに。
力仕事もできて、手の、いや足の……とにかく数も多い。麻酔や薬なら役立つのはもちろん、溶解液だって必要な用途・場面はあるはずだ。毒は……できれば使わないで済むほうがいいと思うけど。
「まあ、副作用として身体が女の子になってしまうのが欠点といえば欠点かな」
「なるほど――」
女の子になってしまうのか。
なるほど。
「まるで普段が男の子みたいな口ぶりですね」
「ああ。僕は男だよ?」
「えっ?」
「うん?」
僕が首を傾げると、ヤヨイさんも同じように首を傾げた。
そんな僕らのすぐそばで、かたんとカップをソーサーに置いて――、
「ん。伶は脳みそピンクマンだから。可愛い子を見ると女の子だと思ってしまう病気にかかってる」
トモカの言葉がとどめを刺した。
「いや! でも! 顔が変わってない――」
「うん。顔も体格も元とあまり変わらないから、確かにその通りだね。僕は女々しい見た目の男だ。……とはいえ僕も男だし、少し気を遣ってくれると嬉しいかな?」
「そういうつもりで言ったわけじゃないです!」
「ふふふ。ああ、分かってるとも。きみが心の底から僕を女子だと思ったことも、僕を傷付けるつもりなんてなかったことも、そしてきみの言葉が悪気なく僕の心を切り裂いたことも、重々承知しているよ」
ぐうっ! 全部言葉にされると余計に心苦しい!
「なんかすみません本当に」
触れられたくないところに触れてしまったかもしれない。
「……あの、それで」
――本当に男なんですか?
と、訊く度胸はないまま、僕は顔を上げた。
しかし。
「うん? 僕の顔に何か、ついてるかい?」
「……いや、何も。なんでもないです」
しかしまじまじと見つめてみても、やっぱり女の子にしか見えない。
「『どう見ても女の子だ』とか思っていそうな顔だけど」
「言いがかりですねえ」
思わず頬がひくついた。
そんなに顔に出やすいのかな、僕は。
「まあきみが僕をどう思っていようと構わないよ。今はそれよりも重要なことがあって」
トモカならあと五段はいじってくるところだったろうに、ヤヨイさんはすんなりと話題を変えてくれた。
なんだろう。
そういえばさっき、トモカが何か訊ねようとして制止されていたはずだ。それにまつわることだろうかと首を傾げていると、ヤヨイさんが口端を歪める。
「いやなに、きみはどうせ聞いていないだろうから――というより九重さんがどうせ話していないだろうから。僕から話しておこうと思って」
トモカが話していないこと。
何かあっただろうか。
……心当たりが多過ぎるなあ。
「心当たりがあり過ぎてなんのことだか、って顔をしているね」
「そんなに顔に出やすいですかね、僕って」
こくりと頷かれた。
ショックだ。
「ん。自覚するのは大事」
「トモカには訊いてない」
というかいつの間に触手から逃れていたんだ。
「まあ明智くんの表情事情はおいといて。まだ、九重さんや細石さんの能力の詳細なんかは聞いてないだろう?」
「ヒヅルさんの能力は聞きましたけど」
「髪が動いて感覚器の代わりになる、くらいの話しか聞いていないはずだよ。多分。あくまでこれは僕の予想だけど」
他にもあるのか。
トモカのほうを見ると、さっと目を逸らされた。
「……確かに、聞いてないことがあるみたいですね」
「だろう? 予想通りだ。九重さんのサプライズ癖はともかく、細石さんも彼女のことになると悪ノリするからねえ」
腰を据えて話すためか、ヤヨイさんは触手をしまった。
「たとえば、これ」
代わりに取り出したのは藁人形。
「呪いでも掛けるんですか?」
「まさか。戦友を手に掛けるような真似はしないよ。だいたい、これは僕がきちんと細石さんに頼んで手に入れたものだから」
ぱっくりと藁人形の胴体が開いて、ヤヨイさんはそこを指差した。
「細石さんの能力はとびきり広範、というか脈絡がなくてね」
「生えた触手から薬物を分泌できる、よりも?」
「生えた触手から薬物を分泌できる、よりも」
続けて藁人形のそばに置かれたのは一房の髪だ――銀色の。
「これを人形の中に入れると、人間になるんだ」
「はっ?」
人間?
「……言い方が悪かったね。ただの等身大サイズの人形騎士だ。生命があるわけでも、知性があるわけでも、繁殖なんかをするわけでもない。ただ人間サイズになって武装して、カスケイドの的になれる。それを細石さんの能力で動かして戦闘できる。活動時間は限られるけど」
「つまりその、ヒヅルさんには髪の毛を操る能力の他に、分身的な人形を作る能力があるってことですか……その二つ、全然関係性が見えないんですけど」
「そりゃあね」
くすりとヤヨイさんが笑う。
「厳密にカウントするなら、髪の毛を手足のように動かせるのと、髪の毛を耳目のように扱えるのだって別々の能力に数えてしまえるわけだし」
その通りだ。
幻脈使いの能力というのを、統合された複数の能力と考えるのは間違っているのかもしれない。
「得心してくれたならそれで良し。これはきみにあげよう」
ヤヨイさんは惜しげもなく、藁人形と銀髪をテーブルの上に放り出した。僕に受け取れということだろう。
「いいんですか?」
「構わないとも。元より僕には必要のないもので、きみには必要なものだ。さっきも言った通り、その藁人形は細石さんの能力の一部に過ぎないし、細石さんがいなければただの木偶だ。けれどちゃんと――カスケイドに狙われてくれる」
カスケイドに狙われるのは、生き物だけだ。
最初から生きていないものはもちろんのこと、命を失ったものにだって奴らは見向きもしない。
それを狙うとしたら、中に収まるヒヅルさんの髪が、命の一部――ヒヅルさんの命を構成する一部として認識されているということだろう。
「つまり即席の囮戦士というわけさ。まあ細石さんの女の命が少なからず犠牲になってしまうから、使わなくて済むように振る舞ってくれるのがベストだけどね」
「心掛けます」
「ん。でも使うべきときに使わないのも駄目」
それまで黙っていたトモカがしっかり釘を刺してきた。
板挟みになった心を慰めるために、手の中の髪束を揉んでみる。
銀色の髪は、触れていて癒される感触だった。
ふさふさだ。
もふもふだ。
「明智くん? 話を続けていいかな」
……おっといけない。
「それとも今日は、その髪を抱いて眠るかい?」
空っぽのカップを置いて、ヤヨイさんがにこりと笑い。
僕がその冗句を否定しようとして。
そのとき、隣にいたトモカが立ち上がった。
視線は窓の外にある。
「――来る」
トモカの声に、まるで呼応するように、空に黒い染みが広がった。
「おや」
ヤヨイさんも、微笑みを浮かべたままそちらを見る。
けれど空気は張り詰めている。
それは多分、仕方のないことだった。
「ゆっくり話す時間くらいはあると踏んでいたんだけど――どうやらツケが回ってしまったらしい」
だって、初めてだ。
窓の外を埋め尽くすように。
空の彼方を覆い隠すように。
こんなのは、初めてだ。
テレビで見たより。僕が肌で感じたより。きっと僕が今までに見たいつよりも多い――雲の上から大地まで、それは壁か、あるいは帳か。
世界の果ての如き氾濫が、『払暁』に向けて押し寄せていた。




