第4話 二人目のSPD
暗い廊下に、規則正しくノックが響く。
基本的に開放的に作られた『払暁』の中では珍しいことに、この廊下は窓もなければ照明もない――カーテンがあるとか、スイッチが入ってないとか、ではなく。
ない。
差し込むのは唯一、長い廊下の曲がり角の先から漏れる光だけ。
薄闇に覆われて少々不気味さえ感じるこの場所で、トモカと僕はどういうわけか一つずつ懐中電灯を握りしめ、たった一つだけの扉の前に立っている。
扉があるのだから、そしてトモカが忍耐強くノックしているのだから、扉の向こうにはきっと部屋があって、中には人がいるのだろう。
しかしさっきから……もう十分ほどになるだろうか。
扉の向こうから反応はない。
四度。少し待って、また四度。
ノックを続ける。
コツがいるものなのか、僕が代わろうとしてもトモカは首を振るばかりで、決して譲ってはくれなかった。
「留守なわけでもなくて?」
あるいは寝ているとか。
と、僕が続ける前に、
「いる。絶対」
トモカは断言した。
絶対、か。
こんこんこんこん。
こんこんこんこん。
あとどれくらい試すのだろうと、やることもない僕が手慰みに懐中電灯を弄び始めた頃――ようやく、音を立てて扉が開いた。
「ん。開いた」
「やっとか……言っちゃ悪いけど、待ちくたびれたよ」
寝ていたのだろうか。
いや、『絶対にいる』の理由が寝ていたからだというのなら、もっと激しく扉を叩いたり、モーニングコール(といっても今は日没前だけど)なり、なんなりとすれば良かったのだから、それは違うはずだ。
「あ。忘れてた」
僕の思考を遮るように、トモカが振り向く。
「どんなに驚いても、できるだけ反応しないようにして。目を見開くくらいまでならいける、と思う。大声を上げたりしたら……命の保証はできない」
「命の保証って――」
僕の追求を待たずして、トモカは扉を開いてしまった。
――そこは、真っ暗な部屋だった。
外に窓や照明がないせいで、扉を開いても何も見えない。
薄暗がりの廊下よりもさらに暗い。
暗黒染めの一室に一歩踏み込んで、トモカが振り返る。
「電灯。点けて」
言われるままにスイッチを入れた。
懐中電灯の先端から、光帯が細く展開される。
「足元から照らすようにして。絶対に、急に動かさないで。私が動かすのを、できるだけ真似すればいい」
ごくりという音は、きっと僕の喉から鳴ったのだろう。
トモカがそこまでしなければならない相手。
丁重さは敬意からくるものか。
あるいは。
その想像が恐怖を掻き立てる。
カスケイドに感じるものとはまた別の、未知を怖いと思う心だ。
「ゆっくりと。そう。ゆっくり」
まずは廊下の足元を照らす。
次いで部屋の中。――扉の内側で、何か軽いものが無数に引きずられるような音がするのは……気のせいだ。きっと。
一秒に一体、何センチ動かしただろうか。
何秒、経った頃だろうか。
亀の歩みより遅い動きで、僕はようやく部屋の入口を照らした。
するすると何かが逃げていくような音。
光の端で少しだけ蠢いたのは無数の白い糸。
ホラーチックな状況に、またごくりと喉が鳴る。
今度も僕だ。
間違いなく僕だ。
悲鳴を上げずにいる自信がない。
「……ちゃんと照らして」
言われるまま、トモカの懐中電灯を追っていく。
ゆっくりと光が部屋の中へ這い進み、やがて中心を照らしたとき。
僕は咄嗟に、自分の口を自分の手で塞いだ。
床を埋め尽くす白い糸が、銀色の髪だと分かったから。
部屋の中心にいたのが、顔の輪郭すら分からないほど髪を伸ばし尽くした誰か――人間だと、分かったから。
「久しぶり、日弦」
トモカがそう口にして初めて、その誰かがサザラシ・ヒヅルなのだと理解した。
SPD006-γ、サザラシ・ヒヅル。
まるで全面が後頭部だと言わんばかりに、三百六十度全方位から銀髪を垂らした彼女は頭を揺らす。
会釈のように見えたけれど、それが何を意味するのかは分からない。
何も返さないのは気分が良くないので、とりあえず会釈で応じておいた。
トモカのような無表情ではなく、そもそも表情が見えていない。声もない。のっぺらぼうを相手にしている気分だ。
多分、座り込んでいる――頭のてっぺんと思われる部分が、僕の腰くらいの位置にある――姿勢で、誰かに、あるいはどこかに顔を向けたまま、動くことも話すこともしない。
「こっちは明智伶。特級特異点」
「明智です。ええと、防衛の邪魔にならないように頑張るので、よろしくお願いします」
トモカが僕を指差して口を開いたので、合わせて喋っておく。
反応はない。依然として。
部屋に入って頭を下げると、扉がひとりでに閉まった。
――違う。
ひとりでにではない。よく見ると扉を動かしたのは銀色の髪の毛だった。つまり銀髪を操るのが、彼女――ヒヅルさんの能力なのだろう。
「日弦はシャイだから、口を開かない」
「シャイ……?」
そういう問題だろうか。
窓も照明もない部屋。同じく、扉が開いても部屋にできるだけ光が差し込まないように設計された廊下。
確かに人との接触を断つ雰囲気はあるけれど、これはどちらかというと、引き――
「あ。見て、伶」
思考を打ち切って、トモカが照らした先を見る。
『細石日弦だよー。よろしくー。』
銀髪がうねって、空中に文字を描いている。
ぱしゃりと音がした。視線を向けると、トモカがスマホのカメラを文字に向けていた。
「日弦が虚空に喋るのは奇跡。この写真は高く売れる」
「これは『喋った』の範疇なの……!?」
そもそも虚空に喋るってなんだ!?
「ん。日弦の声は聞いたことない」
僕の困惑に気付いていないのか、気付かないフリをしているのか。トモカは無表情のままこくりと頷いた。
初対面のときにくすぐって声を出させようとしたけど、無理だったそうだ。
どうやらヒヅルさんは髪の毛すべてを一本ずつ独立して扱えるらしく、手数で劣るトモカでは太刀打ちできなかったのだという。他にも顔を見ようとしたり、胸の大きさをチェックしようしたりして部屋の外へ弾き飛ばされたこともあったらしい。
……とっくに分かっていたことだけど、トモカは変なところで行動的過ぎる子だ。
僕も特級特異点である以外に普通でない点があったら――たとえば分かりやすく、ヒヅルさんのように顔が髪で隠れていたりしたら――彼女にもっと手酷いいたずらをされていたかもしれない。
――っと。
今はヒヅルさんとの顔合わせの最中だった。
「それで、僕はどうしたらいいのかな」
「ここに座って」
懐中電灯で示された場所に座り込む。
ちょっとしたスポットライト代わりだ。トモカも同じように自分の席を確保して、最後に懐中電灯を扉に向けて固定した。
「日弦が喋るときはそこに文字が出るから」
「ご本人の近くを照らしちゃ駄目なの? 遠いと描画も時間がかかりそうだけど」
「視線を向けられると部屋から追い出したくなるらしいから、私はこうしてる」
暗闇の中ですら視線に耐えられないのか。
やっぱりヒヅルさんって引きこも――
「それに部屋の中ならどこでも、日弦にとっては変わらない」
銀髪が扉に張り付くようにして、『○』の記号が形作られた。影と相俟って見やすい。今回はトモカは写真を撮らなかった。
なるほど、虚空じゃなく喋るというのはこういうことらしい。
影絵のような使い方だ。
「日弦はこういう人間だから、自分で外には出ない」
「出ないって、一歩も?」
「ん。私物は全部ここと隣の部屋にあって、他のこともお世話してくれる人がいる。八年間、外に出てないって言ってた」
八年間。
つまり、双子塔基地ができてからずっとということ。
防人司令が『二人しか揃わない』と言ったのも、ヒヅルさんが決して外に出ないと知っていたからかもしれない。
気になることはたくさんあるけど、それは僕が話題に上げていいものなのか判断しかねてしまう。
「でもトモカの言う通りなら、隣の部屋にも行ってないってことにならない?」
僕が訊ねると、トモカの懐中電灯が部屋の隅に向いた。
小さな穴。
口には決して出さないけど、それこそネズミの這い出るような穴だ。
「そこから髪の毛を通して、ゲームしてる」
僕らが通ってきたような廊下は、反対側にももう一つ通っている。さらにここと同じようなつくりの部屋が用意されている。だからちょうどアルファベットの『H』のような形に、二つの部屋と二本の廊下が位置しているのだ。
ゲームに本に音楽機器に、インドア系趣味のあらゆる類が充実していて、それをいつでも楽しめるらしい。
「髪の毛だけで?」
「ん。髪の毛だけで」
『ちゃんと見えてるし聞こえてるからねー。問題ないよー。』
「ん。対戦ゲームもできる。日弦が一番強い」
トモカももう一人のSPDも、暇なときには入り浸っているという。初めて会ったときにトモカが読んでいた文庫本も、ヒヅルさんの趣味部屋から借りたものだそうだ。
「仲が良いんだね」
「ん。それほどでもない。私のこ……こみ?」
『コミュ力』
「コミュカにかかれば、余裕」
「多分『こみゅりょく』だよ」
トモカの視線が素早く動く頃には、『力』の上にきっちり『りょく』とよみがなが振られていた。




