第4話 前哨
『払暁』基地内、資料室。
立ち並ぶ本棚の影に隠れて、僕はトモカを待っていた。
時刻は午前十一時五十分。
ヤヨイさんの話では正午に資料室へ来るように伝えたそうだから、もう来てもおかしくない時間だ。
時計から目を離して、深呼吸しようとしたそのとき。
がちゃり、と。
扉が開いた。
――来た。
吸いかけた息を止めて、ゆっくりと息を殺す。
足音が部屋の奥へ向かうのを確認して、僕は本棚のそばを慎重に進んでいく。
進む。
進む。
あと一つ。
――この本棚の向こうに、トモカがいる。
うろたえるな、明智伶。
ちょっと気まずい関係になっただけだ。
寝ぼけて抱きついたのを謝るだけだ。
ほんの少し長く時間を置いたから、必要以上に重く受け止めてしまっているだけだ。
きっと本当は、大した問題じゃない。
自分を叱咤する文句を並べて、心を落ち着ける。
そして、僕は意を決して――
「っうわ!?」
本棚の向こうへ行こうとして、本棚が真っ二つに割れた。
割れた本棚の間を真っ直ぐにくぐり抜けて、細い腕が僕へと伸びる。
その手は、僕を、掴まなかった。
僕の肩より低い位置から、感情の読めない金色の視線が僕を射抜く。
「……伶」
トモカは驚きに目を瞠っていた。
「や、やあ」
ぎこちなく手を挙げる。
「半日ぶりだね。話すのは」
精一杯普段通りを装って笑顔を見せる。
「――」
トモカが身体を仰け反らせて後退った。
驚きでもつれたのか、おぼつかない足取りで。反対側の本棚に背中を預けるようにして、それでも距離は開いたと安心して――
どんっ、と。
その距離を詰めて、安堵を殺すかのように逃げ場を塞ぐ。
初めて会ったときとは逆だ。
流石に足で本棚を蹴る度胸は僕にはないけれど。
「トモカ、逃げないで」
「っ――逃げてない」
トモカはびくりと肩を震わせた。
動揺が走る。
視線が揺らぐ。
「こ、こんなところで何してるの」
「トモカと話がしたくて」
「私は、夜酔に呼ばれたはず」
「そうだよ。ヤヨイさんに頼んだんだ。僕が」
じっとトモカを見下ろして告げる。
「トモカはどうして僕を避けてるの?」
「それは……」
口ごもるトモカから目を離さず、一秒たりとも気を抜かない。
隙を見せればやられる。
必殺の掌底を決められて、逃げられるのがオチだ。
だから懸命に気を張りながら、トモカの答えを待つ。
「――怖かった、から」
目を伏せて、トモカは答えた。
「怖かった?」
「……ん。朝、抱きつかれたときに、能力が暴走しそうになった」
暴走?
なんのことだ。
初めて知らされた言葉に、眉根が寄るのが分かる。
「能力が無理に発動しそうになった。朝だけじゃなくて、その後も」
それはつまり、僕が触れたからか。
僕がトモカに触れると、トモカの能力が暴走しそうになるということか。
「人間を……伶を殺してしまうんじゃないかって。そう考えて、怖くなったから」
「だから僕と、接触しないようにしてたのか」
「ん」
こくりとトモカが頷く。
自分の力に。
得体の知れない感覚に。
それは怯えているようで。
だから僕は、気付けばトモカの頭を撫でていた。
「だ、駄目っ」
払いのけようとする手を掴んで、さらに撫で続ける。
これは賭けだ。
僕らの大一番は、この後に控える決戦。
人型カスケイドとの戦い。
だからこれは、大一番の前の景気づけ。そんな立ち位置だけど――これも確かに大一番だった。なにせ僕の命を賭けている。
いっそこの後に控えたものよりたちが悪い。
読みも何もない、ただ必要だからベットしただけの、正真正銘の大博打。
「――トモカ、我慢して。もう少しだけだから」
撫でる。
撫でる。
撫でる。
ほんの数秒のことだ。
たった数回のことだ。
けれどそれだけのことで。
けれどこんなに簡単な手段で、トモカの表情からは憑き物が落ちたように恐怖が消えていった。
「……なんで? 暴走しない……? どうなってるの」
「良かった。思った通りだったね」
トモカの疑問に、すぐさま反応する。
結果がどう転ぶか分からなかったなんておくびにも出さず、僕は勝利を確信していたと言わんばかりに笑みを浮かべた。
ヤヨイさんのように笑えているかどうかは分からない。
けれど確かに、僕の笑みはトモカの心を解したように思う。
そうしてできた心の隙間に、僕はハリボテを差し込んでいく。
「朝のことは、不意打ちだったからトモカの理性が対応できなかったんだ。現に今、こうして『能力が暴走するかもしれない』って危惧して臨めば、問題なく抑えられた」
思いついたでっちあげを、できるだけ整理して並べ立てる。
「特級特異点ってくらいだから、僕の体質はカスケイドとか幻脈使いとか、そんなの関係なしに作用してしまうんだ。けれど幻脈使いは人間だろう? だからカスケイドと違って、理性で暴走を抑えられる」
嘘だ。
まるで確証のないことを、本当のことのように解説していく。
トモカの表情を――もう、いつもの無表情に戻ってしまっているけど――つぶさに観察しながら、慎重に言葉を選んでいく。
「だから大丈夫。僕と一緒にいても、トモカは人を傷付けたりしない」
「――本当?」
「本当だよ」
可愛らしく、こてんと首を傾げられては頷かざるを得ない。
「……ん。分かった。じゃあ仲直り」
少し。
ほんの少しの間をおいて、トモカはそう言った。
言って、僕を見上げる格好のまま目を閉じた。
――ううん?
ちょっと待ってほしい。
僕の想像していた仲直りと違う。
……これはいわゆる、据え膳ってやつだろうか。
いや、しかし。
……食わぬは男の恥と、言ってしまっていいのだろうか。
視線は一点。
桜色の、瑞々しい唇だ。
疑問を述べるべきだ。
もっと穏当な仲直りを提案するべきだ。
そう天使が囁く。
頂いてしまうべきだ。
こんな可愛い女の子の好意を無碍に扱うのか。
そう悪魔が囁く。
天使と悪魔が秤を揺らし、僕の心がぐらぐらと揺れる。揺れる天秤を引き倒すように、トモカの手が僕の肩を引いた。
天秤が倒れてしまえば後は、こぼれた欲望が溢れ出るだけだった。
「――――」
せめて、トモカと同じように、目は瞑るべきだろう。
そう思って目を閉じて。
ともかくこれで、仲直り成立だ。
そう考えて顔を近付けて。
――バッチイィィィン!!
と、僕の眉間を衝撃が捉えた。
「なっ、んっ、へえあ!?」
意味のない、わけのわからない声を撒き散らしながら、僕は床をのたうち回る。
痛い。
これすごく痛い。
親に拳骨をもらったときより、友達と取っ組み合いの喧嘩をしたときより、今この一撃のほうが痛い。
「伶。一つだけ、忠告」
気付けばすぐそばに、トモカが立っていた。
嘲るような面白可笑しいような、分かりづらい笑みで無表情を崩して、這いつくばる僕を見下ろしていた。
「嘘をつくなら、メールか手紙に書いて送ったほうがいい。多分、伶が面と向かって隠し事をするのは絶対に無理だから」
嘘。
どれがバレていたのか、あるいはすべて見抜いていたのかは分からない。
言えるのはただ一つ。
僕は僕の表情筋を、今日ほど恨んだことはないってことだ。
「――でも、少しだけ元気が出た。それだけは感謝してあげる」
そしてトモカは、僕を置いて資料室を去った。




