第1話 第六基地『払暁』
百八年前。
西暦の上では千九百九十二年のことだった。
大西洋上に突如として現れた『門』から、魔物たちが溢れ出したのは。
妖怪。化生。異形の者。外国ではクリーチャーやモンストロルムとも呼ばれているか。かつて、人々の幻想の中にしかいなかった――と、思われていた――それらはある日、唐突に有形可視の脅威となって地球に現れた。
それらは続々と、門を通じて脈打つように現実に送り込まれてきた。現出した魔物たちは生きとし生けるすべてのものを門の向こう側へと引きずり込み、そのたびに力を増して侵攻を繰り返した。
人類の兵器だって個々には通用したけれど、圧倒的な物量の前に成す術はなかった。
街は残った。生物以外のすべては残った。
ビルも自動車も、電車も駅も、家だって家具だってすべて、あらゆる非生物は魔物によっては被害を受けず、ことごとくが残された。
けれど動物も。
けれど人間も。
生者は一匹として一人として残らなかった。
魔物たちは退治されれば、返り血すらやがて霧のように消えてしまった。魔物たちに捕まった生物はすべて、門の向こうへと消えていった。
残った死体はほんの少し。ビルの倒壊に巻き込まれたとか、自害したとか、ともかく魔物以外の攻撃によって死んだものは残った。
それだけだった。
門そのものと、その内から現れた魔物たち。
史上最大・最悪の誘拐犯たち。
総称、それらは幻象氾濫と名付けられ、カスケイドと戦う人間たちはエンバンカーズと呼ばれた。
けれど努力は虚しかった。
二つ。三つ。四つ。門は年月を経るごとに増えていき、その被害を食い止めるために同じだけの基地が作られている。
そして八年前、世界で六つ目の門が極東に現れた。
扶桑は東都、赤青二つのランドマークだった双子塔の片割れ。
かつて東都タワーと呼ばれた赤い鉄塔を喰らい、巣食って生まれた第六の門。
それがこの世界、少なくともこの地球における、現行最新最後の門であり。
その反対側、青い鉄塔。
同じく最新最後の砦――第六基地『払暁』は、そこを根城としている。
根城とはいっても塔の中にすべての機能が組み込まれているわけではなく、事実上の機能はその周囲にまとめられているらしい、のだけれど。
塔の存在は、あくまでシンボルに過ぎない。
だから僕が通されたのは、塔を見上げる――山でいうと麓の位置にある応接室だった。
ちょっと恐ろしいほど深く沈むソファに、言われるまま腰掛ける。
「よーこソ、ジェミニへ――」
ジェミニ。
この基地へ入ってからよく耳にする言葉だ。きっと双子塔だから、ジェミニ。
分かりやすいが、通称をさらに通称化するというのはどうかとも思う。
「――歓迎するゼ、人身御供」
あけっぴろげに過ぎる表現。特徴的な発音で僕を人身御供と呼んだのは、おまるに座った赤子だった。
ソファの上に。
おまるを用意して。
完全に用を足す姿勢で、僕にいい笑顔を向けている。
……もう一度言おう。
赤子だった。
「悪りぃナ。俺ァ昔っから、ご覧の有様でヨ。いわゆる不老不死ってやつだナ。赤子の喉だかラ、ちと発音が悪いのモ。ナ。堪忍してくれヤ。……まァ、見た目は〇歳だが中身はちゃんと成長してル。とはいえこの身体は……こいつの止め方が分からんのだワ。っつぅわけデ、出そうになったらこっちで勝手に気張るからヨ、まずは自己紹介といこうじゃねえカ」
いいのだろうか、それで。
ちらりと僕の後ろに控える――本当、まさに控えるという感じで、従者っぽくついてくれている――トモカのほうを見る。
彼女はこくりと頷いた。
「ええと、でしたら遠慮なく。僕が明智伶です」
頭を下げようとして、手つきで制される。
赤子相手にかしこまったことしてんじゃねえ、と彼は独特のイントネーションで前置きして。
「俺ァ、ジェミニの……っと、違っタ。第六基地『払暁』の司令でナ……防人護条ってんダ。よろしくナ」
「そして私が『払暁』影の総支配人、門脇支です」
ぺこり、と。
いつの間にか防人司令(で、いいはずだ)の後ろに立っていた女性が頭を下げた。
キリッとした表情の美人さんだ。なぜかメイド服を着ている。
……こんな人、さっきまでいただろうか?
「――って、おい門脇ィ! お前、お前はまたッ、俺の印象全部かっさらうような自己紹介しやがっテ!?」
「安心してください」
門脇さんの細い指が、僕を示す。
ただ指差しただけなのに艶やかな気がして、心臓がどきりと跳ねた。
「護条様の第一印象に比べれば、私の自己紹介なんて塵屑塵芥にも劣ります。おそらく私がいることにも気付いていなかったのでしょう。見てください、明智殿が驚いているではありませんか――いつの間にいたんだこの人、という顔で」
「それはお前が気配消してたからだろうガ!?」
「あら、そうでしたっけ」
その指がそのまま、彼女の唇に添えられた。
というか本当に、言う通りだ。
……あの人いつからいたんだろう?
「ずっと居た。あなたが部屋に入ったときから」
「うひゃいっ!?」
ぼそり。と耳元で囁かれて。
僕の背筋を、甘いような痺れるような、不思議な感覚が引き走る。
彼女の息と、繊細な紅髪が僕の耳をくすぐっていた。
「きゅ、急に後ろから話しかけるのはやめて……」
「ん。理解した。一声掛けてから耳元で囁くようにする」
こくりとトモカが頷いた。
「耳元で囁くのをやめてほしい、って意味だったんだけど……」
「知ってる。今のは冗談」
それだけ言うと、トモカはまた僕から距離を取った。
単に僕が気になったことを伝えに来てくれただけのようだ。ついでのようにからかわれたのは、フレンドリーの範疇だと信じたい。
「イチャイチャは済んだかヨ?」
「イチャイチャしてません」
返事がつい、硬い口調になってしまった。
「それならそれでいいんだガ。それよりお前さン、資料は全部見たナ?」
「ええ。きちんと」
全部といっても大した量ではなかった。暗号を読み解く手順が別紙にあったのだけれど、そちらのほうが分厚かったくらいだ。資料自体への不満といえば……僕は扶桑人なのに、全部アルファベット表記だったことくらいか。そのあたりは難読漢字を並べられるよりマシだったと思うしかない。
肝心の資料の内容は僕の待遇についてが主で、あとは少しの名前の羅列。
SPD006-α、クノウ・ヤヨイ。
SPD006-β、ココノエ・トモカ。
SPD006-γ、サザラシ・ヒヅル。
その三人が、僕が直接関わることになる人たちだ。
「でも、顔合わせのときくらいは三人揃うと思ってましたけど」
「一人はまだ当番……じゃなかった任務中でナ。だいたい、多忙でなかったとしてもここには二人しか揃わねエ……って、九重ェ? おめーそのへん、話してねーのかヨ?」
「ん。話してねえ」
「口調真似てんじゃねェ! ここに護送する間に事情は説明しとけつったろォ!?」
「時間がなかった。仕方ない」
嘘だ。
トモカと合流してからは徒歩だったし、それに僕が沈黙に耐えられずこの周辺のことや基地について訊こうとするたびに、彼女は先んじて関係のない話題を上げていた。
例外として、本当にどうでもいいこと(基地の食事とか、趣味とか)については、遮られずに訊ねられたのだけれど。
まあつまり、話す時間は存分にあったということだ。
……それをわざわざ口に出すと、この少しばかり勢いの強い司令さんの火勢が増しそうなので言わないけれど。
「かぁーっ! じゃあ今から説明すんのか――ぐうっ」
「えっ?」
それは一瞬の出来事だった。
僕が驚きの声を上げ終える頃には、すべてがもう終わっていた――そう言いたくなるほどの、短い間隙。
防人司令の身体が、ぐらりと傾き。
それを門脇さんが支えた。
まるで電池が切れるように突然のことだった。
しかも電池が切れるのを知っていたような、流麗な所作だった。
「おや。司令はおねむの時間のようですね、責任ある司令の立場だというのに嘆かわしい。申し訳ありません、明智殿」
ぺこりと門脇さんが頭を下げる。
「ですがあまり、司令を責めないで頂きたいのです。赤子の身体は融通が利かないと、司令自身も常々頭を悩ませていらっしゃいますので」
こくこく、と。
彼女の右手に、綠色の液体が入った注射器が握られていたから。
その針先が司令の肌から抜ける瞬間を、僕は確かに見ていたから。
僕は頷くしかなかった。




