◇the Cascade Rebacks
今話は三人称パート。
この1話だけです。
黒いスーツが風になびく。
オールバックの黒髪は、どことなく九重朝戈という少女に似て赤みがかっている。
瞳は黒い。
哀惜の青も憤怒の赤も。
紫がかった嫉妬も黄ばんだ軽蔑も。
あまねく色を。この世にありうるすべての色を。ありとあらゆる悪感情を混ぜ、固め、煮詰めたような、どす黒い瞳だった。
男だ。
双子塔の片割れ。第六門を擁する赤い鉄塔の頂点から、男が世界を睥睨していた。
「……あの娘」
ぽつりと漏れた低い声は、少女が聞けばまさしく生前そのままのものだと判別できただろう――九重暁鬼その人のものだと。
「何者だったか」
されど、彼の脳に記憶はない。
カスケイドとして現世に舞い戻った。その時点からしか、彼の記憶はなかった。彼に、それより以前の回想はない。
だから正確には、舞い戻ったという意識もない。
だから彼に、元の人格はない。
「あの少年を守っていたな」
愛娘とそれに近付く男を見ても、彼が覚えるのは強い飢餓だけだった。
今の彼はもう、恋のように焦がれる生命の香りに引き寄せられて、生まれ故郷に引きずり込むことだけを目的とする怪物だ。
人語ではカスケイドと呼ばれる、一心不乱の化け物だ。
むしろ性質が悪いことに、記憶は残っていないのに能力は残っている。
幻脈使い九重暁鬼の、『分け身』の能力。
さながら悪鬼の如き強さを誇る分身を作り出し、戦闘させる能力だ――傍目から見るとそれは、日弦の使った騎士人形に近い。結果は先の戦いの通り、分身は騎士人形と互角がいいところではあるが。
「いずれにせよ」
今となってはカスケイド化した本体のほうが強い。
人類にとっての不運は、彼が有象無象の数合わせ――黒炎の人手魔ではなく、切り札の如きカスケイドとして扱われたこと。
人類にとっての幸運は、彼がカスケイドとなっても分身の能力に違いはなく、むしろ蓄積された記憶――経験を奪われたことで弱体化したこと。
――だった。
「次は捕らえる」
だが今は違う。
もう彼は経験を取り戻してしまった。
その力で幾度となく、生者を捕らえることで。
ときに動物。ときに人間。ときに香辛料で自らを飾り立てたような存在にも出会ったことがある。
「罠も。策も」
そして今日は、特上の香りに誘われたはずだった。
彼が出会ったのは、一人の少年と一人の少女。
それを、見て。
少年少女を見て、彼は。
記憶になかれど、心が蠢いた――ような気がした。
何も思わねど、魂が叫んだ――ような気がした。
八年の間に成長していても、朝戈の姿は暁鬼の人間性を揺らすに充分だった。
だが、揺らいだだけだ。確固たる芯のある者に、カスケイド化した人間に、人を人たらしめる精神が残っていないのなら。
「すべて壊す」
もはや二度目の偶然はない。
次はない。
撤退も。
容赦も。
「必ず奪う」
次に特級特異点――明智伶と邂逅すれば、朝戈の存在など関係なく、微塵の不純物もなく、純然たる悪意をもって生者をこちら側へ引きずり込むだろう。
この人型カスケイドは選ばなかったのだから。
私心も。
躊躇も。
決別も。
ただカスケイドとしてあるがまま、次は必ず特異点を捕らえると決めただけだった。
「ヤツカ」
じろり、と。
腰に佩いた剣を見た。
六十億の命に万遍なく向けられていた悪意が、剣を見た。
伶たちを襲撃したときにはなかったものだ。
「次はお前を使う」
剣は答えない。
ただ青白い光を、淡くも確かな光を湛えて応えただけだった。
はたして喜びを表していたのか、何か別の想いを示していたのかは分からない。
ただ一つ確かなのは。
人型カスケイドの口元に、笑みが浮かんだことだけだった。




