第4話 人型
ようやくヤヨイさんが口を開いた。
抑揚から緊張が伝わってくる。
けれど、言葉と同時にヤヨイさんの力強い蛸足に抱かれたことで、僕の心は凪いでいた。
もしかしたら揮発性の、精神安定を図る液体――そんなものも分泌していたのかもしれない。
ともかく僕はそこで初めて、周囲の状況に目を向けられた。
いつの間にか攻撃は止んでいる。
トモカのものも。
カスケイドのものも。
有象無象の木っ端カスケイドたちは、遠巻きに僕らを見ていて。
生き残り、だろうか。
カスケイドたちの間から、人が歩いてくる。
「諦めた、わけじゃ、ないですよね?」
もう一度ヤヨイさんの声を聞きたくて、僕は間の抜けた声を上げていた。
自分で口にしておいて、とても死地にいるとは思えない声音だった。
思い返せば、それも仕方ないと思う。
だってそいつは、とてもカスケイドとは思えないほど。
――普通の人間みたいな見た目をしていたから。
「逃げて!!」
悲鳴のような、声。
トモカのその声を皮切りに、ヤヨイさんの触手が僕を引っ張った。
事前にそう教えられていても。
知識として知っていたとしても。
「なんで――」
何故と問われるべきは僕のほうだ。
少なくともこのとき。この瞬間。僕は途轍もない愚劣を露わにしていた。
一時間とは言わない。三十分も、いや十分でも、なんなら五分も経った後の僕が見れば、「何を寝ぼけたことを」と罵るような暗愚ぶりだった。
そいつは門の側から来て。
そいつは人間と同じ姿をしていて。
そいつが来た途端に、他のカスケイドたちは手柄を譲るかのように退いたのに。
――まともな見た目をしているのが一番やばいと教わっていたのに。
僕はそいつを人間だと思っていた。
「九重さんっ! 時間は稼がなくていい!」
頭上の叫びで我に返る。
既に数百メートルの距離を詰めて、人型カスケイドはトモカに接近していた。不意打ち気味のそれを、銀色の渦が受け止めているのが見える。
――三人がかりで逃げに徹するほどの相手。
そうまで理解していてなお、僕は混乱の極みにあった。
なんで人間同士で争っているんだ、なんてことを。
ようやく考え始めていた。
「夜酔――!!」
ヤヨイさんの触手の先を、トモカが掴む。
人型カスケイドが追い縋る。
ほんの数秒で銀髪の檻は打ち破られていた。
――速い。
足の数はまるで違っても、一歩の推進力が桁違いだった。
ヤヨイさんが五歩で行く距離を、敵は一歩で詰めてくる。
銀髪の妨害や触手の防衛があってもそれだ。
まるで歯が立っていない。
基地は遠い。
敵は強い。
おまけに問題は、それだけじゃなかった。
「トモカ、大丈夫?」
僕とトモカは一本の触手でまとめて掴まれている。流石に身体は密着しないように気遣ってくれているが、腹のあたりをぐるりと触手が掴んでいるだけだし、手を伸ばせば届くような距離だ。
その目と鼻の先で、トモカは怯えるように震えていた。
「――トモカ?」
呼びかけても返事がない。
顔面蒼白の彼女の視線は一点、人型のカスケイドに集中している。
ごくりと唾を飲む音がした。
きっと僕の喉から。
がちがちと歯が鳴っていた。
トモカの口の中で。
彼女から視線を外し、人型カスケイドを睨んだ。
背が高くてがっしりとした身体つきの、どうやらスーツ姿の男性だ。
門から来たと知らなければ、人として接してしまいそうな外見。
赤みがかった黒髪はオールバックに。鋭い双眸は黒い。いかつい顔を険しく歪めて、憎悪の混じった目をこちらに向けている。
特におかしなところは見られない。それが何より恐ろしい。
――。
一瞬の空白。
直後、僕の身体が総毛立った。
汗が全身から吹き出した。
それほどの。
恐ろしい殺気を、素人の僕でも感じ取ってしまうほどの怪物。
人の姿をした怪物が、自動車よりも速く迫ってくる。
はたしてトモカは恐怖したのか。
「トモカ!!」
びくりとトモカの身体が震えた。
その目が僕を見る。
「何かあったの? あのカスケイドについて、何か知ってるとか」
問いに彼女の表情が歪み。
「――お父さんが、」
そして、トモカはがくりと項垂れた。
気を失ったのだと理解するより早く、僕の目の前に文字が浮かぶ。
『暴れたりすると困るから、ちょっと眠っておいてもらった』
浮かぶ銀髪には、とろりとした液体が伝っている。
ヤヨイさんの生み出した麻酔か何かを、ヒヅルさんが打ち込んだんだろうか。
「それ、カスケイドには効かないんですか」
『流石に麻酔はね』
「じゃあ硫酸とか」
『私の髪が溶けないようなのじゃないと駄目だよー』
実質、対人間専用か。
だったらそれは慮外にしよう。
「ヒヅルさん。あのカスケイドに心当たりは」
『カスケイドにはないけどー、見た目は朝戈ちゃんが言った通りだよー。』
ちらりと人型カスケイドを見る。
殺気を飛ばす以外は一般人と変わらない。
けれどトモカは、彼を「お父さん」と呼んでいた。
『朝戈ちゃんのお父さんにそっくりさんだよねー。八年前そのままの姿、って言うと分かりやすいかなー?』
「……もしかして、トモカのお父さんは」
『ご明察ぅ。カスケイドにさらわれちゃったわけだねー。八年前に。ここに基地を建てるための戦いで。その遺志を継いで……なのかは分からないけど、とにかく朝戈ちゃんはここで戦っていたわけだけどー。』
カスケイドの目は確かにトモカを捉えている。
でもその瞳には――親の愛情とか、血の絆とか、そういうものは微塵も感じられない。
ただただ憎悪があるばかり。
生者を恨む死者のような――
そこまで考えて、僕は頭を振った。
「あれは本当に、トモカの父親なんですか」
『分かんないねー。もしかしたら誘拐された後、改造手術を施されて悪の心に目覚めちゃったのかもしれないしー、身体をスキャンされて容器を作っただけで、本物はもうとっくに亡き者にされてるかもしれないしー』
ヤヨイさんの触手がカスケイドを叩く。
ヒヅルさんの髪がカスケイドを縛る。
けれどそれは叩き伏せるとまではゆかず。
けれどそれは縛り上げるとまではゆかず。
攻撃の都度、距離は離れる。
僅かだけ。
引き離すには、僕らは近付かれ過ぎていた。
時間稼ぎで一の距離を稼ぎ、ヤヨイさんが一の距離を移動しても、奴はあっという間に三の距離を詰めてくる。
追いつかれるのは時間の問題だ。
「まずいね、これは」
ヤヨイさんがそうこぼす。
微笑はない。
真剣な眼差しで一手一手を丁寧に、しかし強かに打ち込んでいる。
桃色の乱撃も銀色の閃撃も、黒い旋風を止めることは敵わない。
僕らが逃げに入ったのを察したのか、カスケイドの攻撃が徐々に行く手を阻むようなものに変わっていく。
執拗なまでに先回りした攻撃。
行く手を遮り、退路を封じ、僕らを基地へ向かわせないように――
……違う。
「横だ!」
叫んだのは反射だった。
予感と悪寒が脊髄を迸って、僕の喉を震わせた。
声と同時。
現れたのはもう一体のカスケイド。
僕らを追うものと同じ。
同じ姿の人型カスケイドが、右側にあったビルを食い破るように突進してきた。
分身だ。
瞬間、そう思った。
大量に湧き出る黒炎と手のカスケイドを見たときはそんなことを思わなかったのに、二人に分かれた彼を見たとき、僕はそれを分身だとしか思えなかった。
分身の勢いを銀の竜巻が減衰させて、ピンク色の一撃が弾き飛ばす。
人型の本体はそれを見て苦渋の表情を浮かべたけれど、動きは最適なものだった。抜け目なく間隙を突いて肉薄する。
駄目だ。
本体を止められない。
触手も銀髪も間に合わない。
だから。
だから――苦渋に歯を食いしばって。
僕は懐から、それを引き抜いた。




