第3話 誘われしもの
それは朝の出来事だった。
僕の眠る娯楽室へと、隣室からネズミ穴を通って流れ込んでくるのは暖房と加湿と、それから思い込み程度の女の子の温もり。
春眠よりも暁を忘れるには充分な状況が揃って、僕は普段より深く眠りについていた。
立ち並ぶ棚に圧迫されて、端に少し皺の寄った布団が狭いことなど気にならず。
突然環境が変わったストレスもまるで感じず。
泥のようにという形容がしっくりとくる睡魔の底なし沼で。
暁より先に、僕は柔らかな感触を覚えた。
掌に吸い付く透き通る肌触り。
そして呼吸の度に喉が潤うような香りも。
幸せなこれを、他の五感でも感じたい。
だから僕は目を開けて。
目を覚ますのと、身体の奥に篭もった熱が冷めるのと、きっと僕の顔が青褪めたのは、同時だった。
つまり――
◆◆◆
「つまり、明智くんはわざわざ起こしにきてくれた優しい九重さんに、寝ぼけて抱きついてしまったわけだ。随分と婉曲的な表現だったけれど」
「おっしゃるとおりです……」
「で、今の状況か」
やれやれと嘆息するヤヨイさんの口から、さらに思わぬ追撃が続く。
「それで本当は、何をしてしまったのかな」
「今言ったので全部ですよ」
「本当に?」
「本当です」
目を見て告げる。
嘘は言っていないし、隠し事もしていない。
何故疑われているのか分からない。
「……ふむ。確かに嘘をついたとは書いてないね。きみの顔には」
どうやら信じてくれたようだ。
「でも、どうしてそんな疑いを」
「それはもちろん、九重さんがそういう性格じゃないと知っているからだよ。きみも知っているだろう? 寝ぼけて抱きつかれるなんて、そんなのは格好の脅迫材料だ。きみをからかうことに使わないわけがない」
「……なるほど」
原因不明。
解明も難事。
解決も難事。
困ったことになった。
「まったくきみは。昨日の急襲といい今日のそれといい。カスケイドだけじゃなくてトラブルまで誘引していないかどうか、司令に頼んで試験してもらったらどうだい?」
言葉が心にぐさりと刺さる。
妖怪に絡まれる体質を不幸体質と揶揄されたことはあったけど、それを有効に使いにきたはずのこの基地でまで似たような感想を聞くとは思わなかった。
涙が出そうになるのをこらえて、丁寧に心から針を引き抜く心持ちで返事をした。
「僕が引き寄せるのはカスケイドとか、原生の妖怪とか神器だけですよ。それ以外のところについていうと、僕はいたって普通の人間なんです」
「いや、大概異常だと思うよ?」
「うぐっ」
針だと思ったらナイフだった。
言葉の刃だ。
痛い……。
「普通の学生ぐらいの身体能力しかなくて、超能力なんて一つも持ってないのに、『敵を引き寄せる体質だから囮役やります』とは正直――僕だったら言えないな。普通の精神性だったら言わないとも思う」
心が抉られるようだ。
ナイフはナイフでもほとんど剣みたいなナイフだった。肉包丁とか剣鉈とか呼ばれる類のものだった。
「明智くんは……帰りたいとは思わないのかい?」
「思った瞬間もありましたけど。でも故郷での暮らしだって、朝起きたら顔の隣に神器が突き刺さってたときもありましたから。それに比べたら、今はそばにカスケイドが寄ってくることもないから安心してますよ」
これは本当だ。
幸い扶桑国内の神器だったので、代引きで即日返送したけど。
「それでも。怪異を引き付けて怪我したことはないんだろう? おまけに……門脇さんに聞いたけれど、きみに好意をもって接してくれる物の怪だっていたそうじゃないか」
「間違ってはいませんけど」
――いないけど、それは違う。
「僕が怪我をしたことはなくても、僕の周りには危険があるんですよ。好意って言ったって、妖怪にとっての好意です。僕に近付いた人が危険な目にあったことも、僕が関わった人が怪我をしたことだって……一歩間違えば僕自身が向こう側に行くことになりそうなことだってあったんですよ」
だから、僕はあの場所にいられない。
カスケイドがいるとか、いないとか、そんな理由じゃなくて。
僕を目指してやってくる彼らの力をもってしても、傷付けられないような――そういう強い人たちとじゃないと、僕は一緒にいられない。
そうだ。
その通りだ。
僕がここへ来たのに、何一つ高尚な理由なんてない。
――ただ、怖かっただけ。
「それで、ここへ来たわけか」
「はい。ここにいる人となら、一緒に過ごせるみたいですから」
昨日のトモカの戦いぶりを見て、僕は確信した。
『払暁』の人々の周りになら。
いや、SPDのみんなとなら、僕はいてもいいんだと。
「――それは誤解だ」
だからヤヨイさんのその言葉に、僕の心は叩き斬られるような衝撃を受けた。
「僕たちだって傷付くし、僕たちだって勝てないことはある」
「でも、昨日は勝ったじゃないですか」
「九重さんだって言っていただろう? 昨日のは雑魚だよ」
最後に出てきた巨人と巨虎は違うはずだ。「――と、言いたそうな顔だね」
僕の心を読んだように――そして実際に、表情から読み取ったのだろう――ヤヨイさんは人差し指を立てた。
「あれもカスケイドの中で言えば雑魚だよ。はっきりと言わせてもらうけど、あの程度の敵なら最接近区域にだってごまんといる。今まであのあたりに現れたことがないようなレベルの敵だったのには違いない。違いないけど、さっきからちらほらと撃破されているのは見れば分かるるよね?」
ヤヨイさんの言葉に頷く。
四百メートルの目印代わり、トモカの射程限界に建っているビルのそばを過ぎてすぐにことごとく倒されているけれど。巨人も巨虎も、巨大という括りに入れるならもっと数多のカスケイドが現れている。
昨日ヤヨイさんが言っていた説明を裏付けるかのように、そいつらは現実にいる生物が巨大化しただけの姿をしていた。
「もう二千メートルも近寄れば、トモカでも湧く敵の数と殺す敵の数が釣り合うようになる。最接近区域まで行けば雲霞の如く押し寄せる。トモカが殺すのに数秒を要する敵が、数百・数千という勢いでやってくるんだ。人外魔境の至りだよ」
ぶるり、と。
背筋と同時に、ポケットが震えた。
トモカの討伐数が五万を超えたと書かれている。到達時間は十七分と二十五秒。三十秒ほど前のことだ。
「いやはや、凄まじい成果だね。九重さんも今日は絶好調だ――それともきみに意識を向けるのが嫌で、没頭しているだけかな?」
ヤヨイさんはスキュラの姿になってすらいない。
どころか一度も、今日は蛸足を見ていない。
カスケイドは一匹たりともトモカの脇をすり抜けられていなかった。
――そして。
「……ヤヨイさん?」
門脇さんの事務的な文章を読んで。状況を観察して、僕が意識を再び振り向けて。そこでようやく、僕は異変に気付く。
ヤヨイさんの――背が高くなっていた。
身長を嵩増ししている原因は、間違いなく蛸足の下半身。
部分変化を通り過ぎて完全にスキュラの姿となったヤヨイさんは、張り詰めた雰囲気を醸しながら視線を止めていた。
僕の声も聞こえていない様子で、一心に凝視していた。
トモカを。
――違う。
トモカの向こうを、だ。
先を追っても僕には何も見えない。
ただ、トモカも同じように動きを止めていることしか。
「何かありましたか」
もう一度声を掛けても、反応がない。
三度彼を――本人の言を借りるなら、今は彼女だけれど――呼ぼうとしたところで、腰にぶにぶにとした感触が纏わりつく。
「――やっぱりきみは、トラブル誘引の性能試験を受けたほうがいい」




