プロローグ
僕は、逃げていた。
迫る無数の手たちから。
異界から来た魔物たちから。
賢明な逃走ではなかった。
明智の姓ほど。
伶という名ほど。
決して名前に誇れるほど賢明にはできなかったけれど――愚かしくも生き汚い逃走ではあったけれど。
僕は――明智伶は懸命に、そこを目指していた。
眼前にそびえ立つ青の鉄塔。距離感を見失うほど巨大なそれが、僕の目指している場所。
第六基地『払暁』。
――別名、双子塔基地。
扶桑最高の英雄たちが集う場所へ向かっていた。
「こっちだ! ――」
人の声。
まるで僕を慮るような、助けを差し伸べるような声を振り切って、直線に駆ける。
ちらり、と。
僕が曲がらなかった曲がり角の先に見えたのは、魚顔馬体の怪物。僕を付け狙うのはそいつだけじゃない。虚空に浮かぶ無数の小さな黒い炎から、人のものに似た腕が伸びてくる。腕だけが。
それらを躱し、ときに払いのけ、僕は走る。
無数のビル群に睥睨されながら、人っ子一人いなくなった東京の街を駆け抜けていく。
もういっそ、帰りたい。
帰ってしまいたい。
でも、僕がここまで来るために、僕がこの先へ進むために犠牲になってくれた人たちがいる。だから僕は走り続けた。
鐘を叩き割らんばかりに鼓動を続ける左胸を押さえる。息が苦しい。足が重い。けれど。けれど、もし、捕まれば――
そんなことを考えていたからだろうか。行く手に人が現れたことにさえ、僕が気付けなかったのは。
女の子だった。
煮えたぎる鉄のような明るい赤髪に、影のある金色の瞳。青っぽい基調の制服を着た、十代半ばの少女。
彼女の視線は手元の本に落ちている。
つまり僕を見ていない。
いや。
それどころか反対側に浮かび上がった、直径二メートルほどの黒炎にも、気が付いていないようだった。
脳髄を走るのは最悪の想像。
もしも。
もしもそこから現れた巨大な腕が。
僕に向かって伸ばされたら――彼女は巻き込まれて死ぬだろう。
僕を招こうとする五指の先は、既に闇の中から現れ始めている。
指先。
関節。
付け根。
掌すべて。
僕を招く手が、僕以外の人間を傷付けようとしている。
「危ない!!」
もう、一歩分の量だって残っていなかった肺から空気を絞り出して、僕は叫んだ。
叫んだ――だけだった。
膝からがくりと崩れ落ちる。彼女が助かったとしても、僕はあの手に捕まるだろう。それでも良かった。僕が狙われることで、誰かが死ぬのだけはもう、嫌だった。
けれど彼女は僕の声を聞いて、僕を一瞥もせずに本を閉じただけだった。
ぱたん。
きっとそこに続くであろう、不快な音と光景を想像して、僕は目を閉じた。
――ぐしゃり。
想像通りに、その音はやってきた。
そして僕は掴まれ――なかった。
……なかった?
「何してるの」
抑揚のない声。
頭の上から降ってきたそれに、僕は目を開ける。顔を上げる。
やはり制服姿のままの、しかし右半身は返り血まみれの少女が顔色一つ変えずに、パンツを見上げられる距離に立っていた。
「うわぁ!?」
思わず上体を起こして後ずさる。足が疲れ過ぎていて、立ち上がれはしなかった。でもこれで、距離は開――
――どんっ。
距離を開けたと思ったら壁ドンされていた。ただし、足で。当然スカートの中が見えてしまっている。羞恥心とかないんだろうかと考えてしまう僕に、女心を理解するのは無理そうだ。
「なんで逃げるの?」
「逃げたわけではないです。ていうかきみは、こんなところで何してるんだ。さっきの腕はどうしたのさ。いやそもそもきみは、誰なんだ」
「……質問が多い」
少女がため息をついた。どんな表情をしているのかは分からない。僕は今、頑張って目を逸らしているからだ。本当は見たい。あの白い清純シルクの模様をすべて焼き付けたい。でも僕はぐえっ!?
頭を掴まれて、強引に正面を向かされる。
もう、彼女の浴びた返り血は消失していた。
「――見て」
パンツを!?
じゃらり。
……パンツじゃなかった。
僕の目と少女のパンツの逢瀬を妨げたのは、懐中時計だった。鎖だけが真新しい、いかにも古めかしい面構えの。
一時二十分を指している。ああ、でも、太陽の在り処を鑑みるなら十三時二十分と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
問題は一つ。時計の針が天頂を指す時間――今日の十二時に、人と会う約束をしていたことだ。
双子塔基地の人たちと。
「遅刻は仕方ない。今ここで生きているなら問題にもならない。でも、そうだとしても、私たちが暇なわけじゃない」
そこで初めて、僕は彼女の顔を真っ直ぐに見た。
「だから簡潔に済ませる。一つ目の質問の答えは、『私があなたを迎えに来たから』。分かった?」
頷く。
氷点下の視線。
仮面を被ったような無表情。
それが彼女の第一印象だった。
「二つ目の答えは、すぐに見せてあげる」
頭上には、直径十メートルほどの巨大な黒穴がいくつもできていた。疑いようもなく、やつらは僕を獲りにきている。
けれど。
「きみは――」
黒炎から現れた数多の腕は、一つ残らず潰れて果てた。
彼女に触れることすら叶わずに。
「これが答え。三つ目の質問。私は、SPD006-β」
真顔で言われた。記号の羅列としか思えない音韻を。
それって、つまり――
「……冗談。私は九重朝戈。朝戈でいい」
僕が口を開く前に。
反応が悪かったのを見てとったのか、トモカさんはすぐに言を改めた。
表情が変わらないので、反応が云々というのは僕の想像だけれど。
彼女なりのジョークだったのかもしれない。
「よろしく」
懐中時計をしまったかと思うと、代わりに差し出されたのは逆の手。透き通るような白い手だ。その手を慎重に握り返す。
「ええと、トモカさん」
「朝戈でいい。敬称不要」
「トモカ。よろしく、僕は明智伶だ」
彼女の手は、同じ人間だなんて思えないほど、首から上の鉄面皮からは想像もできないほど柔らかくて。
――そして死人のように、冷たかった。




