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準男爵家の二男だが、合理で戦場を支配したら公爵令嬢と侯爵令嬢に選ばれた件  作者: 慈架太子


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81話:静かな対峙

夜は、どこまでも深かった。


戦の残り香は、依然としてこの土地にこびりついている。血と土、そして術式によって焼き切られた空気の、あの独特な熱と乾燥。

それでも――音は、消えていた。

荒い息遣いも、鋼がぶつかり合う轟音も今はなく、ただ凍てつくような静寂だけが世界を支配している。動く者は少ない。そして、動ける者は、すでに来るべき次の「振り分け」のために、一分子の無駄もなく準備を整えていた。


その中心に、アルト・フェルディスはいた。


簡易の卓に広げられた地図の上に視線を落とし、何も書き込まれていない余白を、無機質な瞳で見つめている。

必要な情報は、すでに彼の脳内に完璧な「構造」として構築されている。等高線、部隊の損耗率、魔力リソースの残量。紙の上に記された線は、もはや確認用の残滓に過ぎなかった。


「……あはは。ここは、捨てるしかないね」


独り言のように呟く。

声はいつも通り明るく、気さくだ。だが、その言葉に「迷い」という不純物は一分子も混じっていない。それは検討ではなく、冷徹な演算によって導き出された確定事項。

たとえ今、誰もその声を聞いていなくとも、その「未来」はすでにアルトの手によって固定されていた。


そのとき。


足音が一つ、静寂を裂いた。

規則正しく、無駄がない。だが、以前よりもずっと重い、大地の熱を帯びたような足取り。


「……おやおや。来たようだね」


アルトは、地図から視線を上げなかった。

気配で分かる。

一分子の隙もなく、自らの「責任」という重荷を足音にまで浸透させている人間は、この軍には一人しかいない。


「……随分と余裕なのね。この状況で」


声が落ちる。

以前の、あの天を衝くような高潔な響きとは違う。

棘はある。だが、かつての浮ついた軽さは一分子も残っていない。


「余裕ではないさ。一分子の無駄も出さないための、必要な『凪』だよ、アンジェリカ様」


アルトは答え、ようやく顔を上げた。

そこに立っていたのは――アンジェリカ・ラファ・ヴァルクレイア。


整った姿は、公爵令嬢としての美しさを保っている。だが、以前の「完成された貴族」としての完璧な虚飾は、もはやそこにはなかった。

何かが、決定的に削り取られている。

いや、不必要な「誇り」という名の表皮が剥がれ落ち、その下にある剥き出しの芯が、月光に晒されていた。


「……話があるわ。逃げないで聞きなさい」


真っ直ぐな言葉。

以前のような、他者を見下す位置からの宣告ではない。

同じ地面に立ち、同じ地獄を見つめる者としての対峙。


「聞こうじゃないか。一分子も漏らさずにね」


アルトは、椅子にもたれかかることさえしなかった。

姿勢を正すこともない。ただ、対等な「機能」同士として、彼女の言葉を待つ。


「……」


アンジェリカは数歩、間を詰めた。

かつての彼女なら、無遠慮に距離を侵しただろう。だが、今は違う。

彼女は、ある一定のラインで足を止めた。

これ以上は、今の自分に許されていない距離だと。信頼という名の演算において、まだ自分はそこに至っていないのだと、彼女自身の理性が判断したのだ。


「……聞いたわ。報告のついでにね」


「何をだい?」


「あなたと……エルディアのことよ」


「あはは、そうか。耳が早いね」


アルトは、動じなかった。

否定もしない。照れることも、釈明することもない。


「……随分と、あっさり受け入れるのね。一分子の動揺も見せずに」


「事実なら、それ以上でもそれ以下でもないからね。僕の計算機に、嘘を書き込む必要はないよ」


「……」


アンジェリカは、視線を逸らさなかった。

だが、その琥珀色の瞳の奥に、微かな揺れがある。

以前の彼女なら――激昂していただろう。ヴァルクレイアへの侮辱だと、高潔な怒りに身を任せていただろう。

だが、今の彼女は、その「揺れ」さえも自らの内側に留めていた。


「……分からないのよ。どうしても」


ぽつりと、零れ落ちた言葉。


「何がだい?」


「どうして、ああなれるのかしら。……どうして、あんな風に、迷いなく『誰か』を特別だと決められるの」


声は静かだ。だが、その底には、押し殺された悲痛な叫びのようなものが渦巻いている。


「……」


アルトは、即座には答えなかった。

ただ、彼女の言葉の続きを待つ。


「続けなよ。君の中にある『ノイズ』を、すべて吐き出してしまわないとね」


「……私は、最善を尽くしたわ」


アンジェリカは、もはや整えられた言葉を飾ることはなかった。

「ヴァルクレイアの歴史に、恥じぬように。一分子の不純物もなく、理想の指揮を執った。……それだけは、真実よ」


「そうだね。君の采配は、教本通りなら完璧だったよ」


「でも、結果は違った。……あなたが見せた『正解』とは、あまりにもかけ離れていたわ」


「そうだね」


「……なのに」


アンジェリカは、一歩、さらに踏み出した。

「あなたは、迷わない。一分子の躊躇もなく、冷酷な決断を下し続ける」


距離が、縮まる。


「同じ戦場に立ち、同じ人間を見ているはずなのに。……どうして。どうして、あんな判断ができるのよ!」


問い。

だが、それはもはや糾弾ではなかった。

自らの崩壊した価値観を、どうにかして再構築しようとするための、必死の「解析」だった。


「あはは。簡単だよ、アンジェリカ様」


アルトの声は、どこまでも気さくに、しかし一分子の容赦もなく響いた。


「優先順位を、正しく決めているだけさ。君が大切に抱えていた『不純物』を削ぎ落としてね」


「……」


「君は『すべてを守る』という、最高にハッピーで、かつ最高に非現実的な前提を抱えすぎていた。僕は、それを最初に捨てた。それだけのことだよ」


「……!」


アンジェリカの瞳が、激しく揺れた。

核心を突かれた。


「それを……。……それを『正しい』と、あなたは断言するの?」


「正しいかどうかは、僕の興味の対象じゃない」

即答。

「結果が、一分子でも多く導き出せるかどうか。それだけが、僕の全ての基準だ」


「……!」


「守れた数が多ければ、それがその場における『最適解』だ。……違うかな?」


「……」


アンジェリカは、言葉を失った。

反論できない。理屈において、アルト・フェルディスという存在に勝つことは、もはや不可能だと理解しているからだ。

だが――。


「……それで、いいの? あなたは……それで、納得できるの?」


搾り出すような声。


「納得なんて、最高に非効率な感傷だよ。そんなものは不要だ」


「……!」


「結果が出ているなら、それで終わり。一分子の余地もない、完了した事象だ」


切り捨てる。

一切の、微塵の迷いもなく。


「……」


沈黙。

長い、重苦しい沈黙。

空気が、限界まで張り詰め、爆発寸前の圧力を孕む。

だが――。

以前の彼女なら、ここで拒絶か激昂の果てに自壊していただろう。


「……あはは。本当に、ずるいわね。あなたって」


アンジェリカは、小さく笑った。

自嘲。だが、そこには確かな「自覚」があった。


「逃げているだけじゃない。そうやって、心に蓋をして」


「逃げてはいないよ。一分子もね」


「……じゃあ、何なのよ」


「選んでいるんだ」


アルトは、一歩も引かなかった。

「捨てることを、自らの意思で選び取っている。……それが、僕の責任の取り方だよ」


「……」


アンジェリカの呼吸が、止まった。

それが、一番重く、彼女の魂に突き刺さった。

理解してしまったのだ。アルト・フェルディスという男が、どれほどの「地獄」を自覚的に選んでいるのかを。


「……私は」


声が落ちる。

「……私は、それができなかったわ」


初めての、完全な敗北の認諾。

「分かっていたのに。そうしなければ、より多くの命が零れ落ちると、知っていたのに……。……できなかった」


認める。それはヴァルクレイアの令嬢としての死にも等しい。

だが、彼女は逃げなかった。


「……だから、聞きに来たのよ。一分子の嘘もなくね」


顔を上げる。

かつての傲慢な誇りではない、削られた果てに残った、鋼のような芯を瞳に宿して。


「私は、これからどうすればいい? 次の戦場で、私は何を選択すべきなの?」


命令を求めているのではない。

自らの新しい「前提」を確認するための、命懸けの問い。


「……」


アルトは、彼女を見つめた。

その「機能」としての価値を、その「器」の強度を、一分子の妥協もなく計測する。


「……変えなよ、アンジェリカ様」


短い。

だが、これ以上ないほど重い答え。


「何を?」


「前提だよ。一分子残らず、すべてね」


「……」


「『すべてを守る』という甘い夢を捨てなさい。その上で、守るべき範囲と、捨てるべき優先順位を、自分自身で確定するんだ」


「……!」


「それができないなら、君に指揮官の席はない。……ただの飾りに戻りなよ」


容赦のない宣告。

だが、それは彼女が最も求めていた「正解」でもあった。


「……厳しいのね。あなたは本当に」


「現実は、僕の言葉よりも一分子以上、常に厳しいものだよ」


「……あはは。そうね。その通りだわ」


わずかに、微笑む。

完全な変容ではない。だが、確実に彼女は、アルト・フェルディスという名の不条理な光に照らされ、一歩前へと踏み出していた。


「……最後に、もう一つだけ」


「何だい?」


「私は、まだ負けていないわ。……一分子も、折れてはいない」


瞳に、強い光が宿る。


「次は、同じ条件でやりましょう。……あなたの隣に立つのに、私が『最適』だと、その結果で見せてあげるわ」


宣言。

もはや、そこに逃げ場所はなかった。


「あはは! 好きにするといい。期待なんて不確かなものはしないけど……一分子の干渉もせず、その『結果』を見届けてあげるよ」


アルトはそれだけを言い、視線を再び地図へと戻した。

否定もしない。だが、止めることもない。


「……ええ。見ていなさい」


アンジェリカは頷き、振り返る。

そのまま、夜の闇へと歩き出した。

足取りは、決して軽くはない。迷いも、痛みも、一分子以上抱えているだろう。

だが、その足跡は、二度と止まることはなかった。


「……」


アルトは見送らなかった。

すでに彼の思考は、次の、さらに困難な「振り分け」へと加速している。


夜は続く。静寂も続く。

だが――。

確実に、何かが変わっていた。

気高き令嬢の誇りが、血の通った「責任」へと焼き直され、新しい構造の一部として、一分子の狂いもなく回り始めたのだ。


それだけで、今は十分だった。

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