74話:臨界点(リュミエラ)
匂いが、違う。
戦場を支配していた、あの鉄錆と硝煙の混じった鮮烈な死の臭いではない。そこにあるのは、じっとりと肌にまとわりつくような腐敗、不自然な熱、そして目に見えない微小な敵が静かに蔓延していく、不気味な湿り気だった。
野営地の一角、厚い布で幾重にも仕切られた臨時治療区画。
そこはもはや、祈りと安らぎのための「回復の場」ではなかった。
刃の代わりに、刻一刻と刻まれる時間が残酷に人を殺していく。一分子の停滞も許されない、命の選別所。それが今の現実だった。
「次! すぐに連れてきて!」
リュミエラの声は、すでにボロ布のように掠れていた。
それでも、彼女は止まらない。止まれば、その瞬間に誰かの呼吸が途絶える。その恐怖が、彼女の細い肩を突き動かし続けていた。
担架が次々と運び込まれる。
深い斬り傷を負った戦傷者。
そして――その隣には、顔色が土気色に変色し、荒い呼吸を繰り返す者。皮膚に不気味な斑紋が浮かんでいる。疫病だ。
「……っ」
一瞬だけ、指先が強張る。
だが、思考を止めることは許されない。
「分けて! 戦傷者と感染者、動線を一分子も交差させないで! 早く、ハイッ、移動!」
叫びに近い指示。アルトの采配をなぞるような、迷いを圧殺した声。
彼女の掌から、混じりけのない純白の光が溢れ出す。
「……大丈夫、大丈夫です。まだ、間に合いますから……っ」
自分に言い聞かせる呪文のように、彼女は光を紡ぐ。
光は肉を繋ぎ、奔流となって漏れ出す血を堰き止める。砕けた骨を元の形へ、激痛を深い眠りへと変えていく。
だが、奇跡を一つ成し遂げた瞬間に、次の絶望が彼女の前に差し出される。
「次!」
呼吸を整える暇さえない。
体内の魔力回路が、過剰な負荷によって焼き切れるような悲鳴を上げている。だが、彼女はそれを「ノイズ」として切り捨てた。
「……浄化」
今度は、疫病。
光の質を瞬時に変える。純度を極限まで高め、体内の深奥に潜む濁りを焼き払う。
異物を排除し、生命の構造をあるべき形へと再定義する作業。
「……っ……あぁ……!」
抵抗が、重い。
一度の術式では抜けない。二度、三度。
魔力を絞り出すたびに、視界がチカチカと明滅する。
「……まだ……まだ、いけます……!」
額から滴る汗が、患者の服を濡らす。
震える手をもう片方の手で抑え込み、彼女は光を灯し続けた。
「次!」
何人救ったのか。
どれほどの時間が経過したのか。
太陽がどの位置にあり、自分が今どこに立っているのかさえ、意識の霧の向こう側にあった。
ただ、目の前にある「個」を救い、次の「個」へと繋ぐ。
その連続だけが、今の彼女の世界のすべて。
だが――。
臨界点は、非情な足取りで近づいていた。
「……」
一人の少年が運び込まれてきた。
あまりに小さく、軽い体。
呼吸は今にも消え入りそうで、手首に触れた拍動は、壊れた時計の針のように不規則で弱い。
「……お願い……助けて……この子だけは……!」
付き添う母親の声。
震える手。絶望に染まった瞳。
「……はい」
リュミエラは、短く頷いた。
余計な感傷を挟む余白は、もう彼女の中には残っていない。
即座に胸元へ手を当てる。
光。
最大出力。
一分子の余力も残さぬほど、純粋な魔力を少年の体内へ流し込む。
「……」
反応が、薄い。
石に水を注いでいるような、不気味な手応えのなさ。
「……もう一度。重ねます」
魔力を倍加させる。
術式を多重に展開し、強制的に生命活動を賦活させる。
身体が、軋む。魔力の通り道が、物理的に焼けるような激痛となって彼女の脳を揺さぶる。
「……まだ……!」
三度目。四度目。
彼女の全存在を光に変えて流し込むような、狂気じみた治癒。
「……」
だが、少年の容態は、ピクリとも動かない。
「……どうして……」
思考が、初めて揺らいだ。
「……どうして、届かないの……。術式は完璧なはず。魔力も足りているはずなのに……」
焦りが、冷たい汗となって背中を伝う。
彼女には、アルトのような精密な鑑定能力はない。
ただ、直感として感じる。
「……深い……」
病の、あるいは死の根源が、彼女の光の届かない、さらに深い闇の底に潜んでいる。
「……お願い……っ、助けて……!」
母親の声が、逃げ場のない矢となって突き刺さる。
「……まだ、やれる。まだ、終わっていない……!」
魔力を、最後の一滴まで絞る。
魂を削り、形を変え、ただ「生」という結果を導き出すためのエネルギーへと変換する。
「……っ!!」
光が、爆ぜた。
天幕全体を白銀に染め上げるほどの、猛烈な輝き。
衝撃波に似た魔力の波動が、周囲の空気を震わせる。
「……」
一瞬。
世界が静止した。
「……」
そして。
「……」
少年の胸が、わずかに、本当にわずかに上下した。
「……!」
「まだ……まだです、ここから……ここから引き戻します……!」
指先に力を込める。
追い打ちをかけるように、新しい術式を編もうとした。
だが。
そこで。
光が、唐突に、そして完全な静寂を伴って途切れた。
「……え……?」
指先を見つめる。
何もない。
温かな魔力の奔流も、空気を震わせる輝きも。
「……」
出ない。
何度も何度も、心臓の鼓動を魔力に変えようと試みる。
だが、内側にあるのは、乾ききった井戸の底のような、不気味な虚無だけだった。
「……どうして……」
呼吸が浅くなる。
視界が、ぐにゃりと歪む。
「……まだ……。……足りないの……?」
理解が、現実に追いつかない。
少年の呼吸が、先ほどよりもさらに、さらに浅くなっていく。
「……」
母親の手が、リュミエラの衣を掴んで震えている。
一秒。
その一秒が、永遠の重みを持って、彼女を押し潰す。
「……出て……お願い……出てよ……っ!!」
声にならない叫び。
だが、指先からは一分子の光も漏れ出さない。
「……」
空白。
音が消えた。
周囲の怒号も、運び込まれる担架の音も。
全部、星の彼方の出来事のように遠のいていく。
目の前にあるのは。
自分の手が届かなかった、一つの「命」。
「……足りない……」
口から、ポツリと零れた。
「……足りないんだ……」
何が?
愛か? 祈りか?
「……私が……」
理解してしまった。
自分という「リソース」が。
自分という「機能」が。
この残酷な現実を救い切るには、あまりにも、あまりにも脆弱で、不完全であるということを。
「……」
少年の呼吸が、止まった。
波紋ひとつ立てない、静かな終焉。
「……」
母親の声が、ワンテンポ遅れて届く。
「……ああ……あああ……っ!!」
崩れ落ちる音。
魂を削るような慟哭。
リュミエラは、動けなかった。
宙に浮いたままの手が、無様に震えている。
「……」
次の担架が運び込まれてくる。
別の負傷者。別の、今まさに消えようとしている命。
だが。
脚が、鉛のように重い。
一歩。たった一歩、隣の寝台へ移動することさえ、不可能な試練に思えた。
頭の中で、何かが音を立てて壊れた。
今まで自分を支えていた、「救える」という無邪気な前提。
それが、一分子の残滓もなく瓦裂した。
救えなかった。
今、この瞬間に。
それは、例外でも不運でもない。
「私」という存在の限界。
膝が、ガクガクと震え始める。
その場に座り込み、目を閉じて、すべてを拒絶してしまいたかった。
それでも。
「……」
動かなければならない。
次が来ているから。
自分が止まれば、さらに「数」が増えるだけだから。
「……」
分かっている。
けれど、手が上がらない。
「――おやおや。そこで止まっちゃうのかい? リュミエラちゃん」
背後から、静かに、しかし有無を言わせぬ明るさを孕んだ声が届いた。
「……」
振り向けない。
その声は、嫌というほど知っている。
アルト・フェルディス。
かつて彼が投げかけた言葉が、呪いのように蘇る。
『なら、強くなれ』
「……」
簡単に言う。
笑いながら、気さくに、彼はそう言った。
だが。
今なら、血を吐くような思いで理解できる。
その言葉の、本当の意味が。
あの男が背負っている、不条理なまでの「責任」の重さが。
届かせるための、強さ。
自分の無力を、一分子の言い訳もなく認め、その上で限界の先を掴み取りに行く、冷徹なまでの意志。
今の自分には、それが一分子も足りていなかった。
「……」
涙が、一滴、地面の泥に落ちた。
拭う気力もない。
「……足りない……。全然、足りてないわ……」
自嘲気味に繰り返す。
それでも。
次が来ている。
担架が、彼女のすぐ隣に置かれる。
リュミエラは、ゆっくりと、折れそうな腕を持ち上げた。
指先はまだ冷たく、震えたままだ。
光は、まだ出ない。
それでも。
「……やります……。……まだ、終わりじゃないから……」
掠れた、今にも消えそうな声。
限界は、とうに越えた。
心は、ボロボロに砕け散っている。
だが。
その瞳の奥にある光だけは、一分子の曇りもなく、次の命を見据えていた。
ただ、自分が足りないと、知っただけ。
なら、その足りない分を、どうやって埋めるのか。
彼女の本当の「戦い」は、この絶望の臨界点から、静かに始まろうとしていた。
アルトは背後で、一度だけ満足げに頷いた。
「あはは! いい目だね。さあ、最高にハッピーな再起を期待してるよ、リュミエラちゃん」
その気さくな声に背中を押されるように、彼女の指先に、一分子の、しかし消えることのない小さな輝きが戻った。




