第一話:ふたつのインクの本
初投稿です。読んで頂けて本当に嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。
Forest Ink Online
第一部:青いカーテンの内側 —孤独と色彩の箱庭—
第一話:ふたつのインクの本
夜の家は、騒がしい。母の叱咤や弟の笑い声、兄が床を鳴らす足音。それらはすべて、私の肌を素通りして壁に吸い込まれていく。
夕食の席に私の居場所はあるけれど、そこにあるのは「娘」や「姉」という役割の空席に、私が収まっているだけの感覚だった。
やるべきことをすべて片付け、時計の針が重なるのを待ってから、私はカーテンを引き絞る。
シャッ、という乾いた音が、世界を二つに分かつ合図だ。
背後で家族の気配が薄れ、電球の光が狭い空間に閉じ込められる。机の上。使い古された消しゴムの屑。ここだけが、私の呼吸が許された唯一の場所だった。
その机の中央に、それは鎮座していた。
クリスマスに届いた、差出人のない贈り物。
辞書のように分厚く、革の表紙は鈍い光を放っている。両手で持ち上げると、ずっしりとした、確かな質量が腕に伝わった。
冷たいようでいて、どこか体温に近いような、不思議な手触りだ。
私はゆっくりと表紙をめくる。
かすかに、古い紙と、微かな甘い香料が混ざったような匂いがした。
中身は、二色のインクで描かれていた。
地を這うような深い黒の文字と、その隙間を縫うようにして踊る、見たこともないほど鮮やかな、深い夜の青(あるいは、遠い森の奥の影)のような色。
その青い文字を目で追った瞬間、胸の奥が、ちくりと疼いた。
嬉しい、と思った。
この本は、私のものだ。
私はカーテンの中の小さな明かりの下で、吸い込まれるように読み始めた。
読み進めるにつれて、奇妙なことが起こり始めた。
最初は行間に少し混じる程度だった青い文字が、ページをめくるたびに増えていく。黒い文字を侵食し、やがてページ全体が、その青い光沢を帯びたインクで満たされていった。
ふと、耳の奥がツンとするような感覚を覚えた。
カーテンの外から聞こえていた、テレビの音、弟の笑い声、母の足音。それらが、まるで水底から聞く音のように、遠く、ぼんやりとかすんでいく。
手元の電球の光が、次第に薄くなっていることに気づいた。
代わりに、本の中の青い文字が、独自の光を放ち始めている。カーテンの布地が、その青い光を反射して、まるで夜の海のように波打ち、境界線が溶け出していく。
怖くはなかった。
むしろ、ずっと探していた場所に、ようやくたどり着けるような、静かな安らぎがあった。
私は、青い光に満たされた最後のページを、ゆっくりとめくる。
指先が紙を離れた瞬間、世界が、反転した。
カーテンの閉塞感は消え、代わりに、肌を撫でる冷ややかで、けれどどこか優しい風を感じた。
電球の匂いは去り、湿った土と、青い葉の、清冽な匂いが鼻を突く。
目を開けると、そこは森だった。
音がない。
けれど、それは静寂というよりは、世界が呼吸を止めているような、満ち足りた静けさだった。
頭上からは、木の葉の隙間を縫って、やわらかな、青白い光がいくつも降り注いでいる。その光に照らされた空気は、まるで細かな水晶の粉が舞っているように、きらきらと輝いていた。
足元の草は、朝露を帯びて、微かに青く光っている。
私は、その場に立ち尽くした。
初めて見る景色のはずだった。けれど、その空気の冷たさも、光の優しさも、風の匂いも、すべてが私の内側にある「何か」と、ピタリと噛み合う感覚があった。
「……青い、森?」
声は、静かな森に吸い込まれていった。
違和感がない。ずっとここにいたような、あるいは、いつか帰ってこなければならなかった場所のような。
私は、ゆっくりと歩き出した。
草を踏み鳴らす音も、衣服が擦れる音も、ここにあるすべての音は、この森の静けさを乱すことなく、溶け込んでいく。
周囲を見渡す。木々は古く、巨大で、その樹皮は青みがかった光を帯びている。
特別なことは、何もしない。ただ、ここにいるだけでいい。
私は足を止め、深く呼吸をした。
カーテンの中の、窮屈で、誰にも見られていない自分ではなく、この広い、青い光の森に、確かに存在している自分を感じる。
「……きれい」
足裏から伝わる静かな感覚だけが、確かな輪郭を持って、私の心に深く沈み込んでいった。




