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記憶のフィルム

作者: Tom Eny

記憶のフィルム


プロローグ:あの日差しの中の君


俺は今でも、あの日、真新しい校舎の廊下を歩いた時のことを鮮明に覚えている。新しい教科書のインクと紙の匂いが混じり合って、独特の香りがしたんだ。体育館からは吹奏楽部の練習の音が微かに漏れてきて、いかにも「高校生活が始まるな」って感じがした。自分のクラスの座席表を見て、俺は窓際の一番後ろの席を見つけた。日差しが真っ直ぐに差し込む、眩しいその場所に、長い髪を揺らす君がいた。


君を見た瞬間、俺の胸は、生まれて初めて感じる不思議な感覚に包まれたんだ。教室のざわめきも、先生の自己紹介の声も、何もかもが遠くの方に消えていく。まるで、君の周りだけが、ゆっくりとした時間の流れの中にいるみたいに思えた。君は少しだけ長めの制服の袖から覗く白い指先で、丁寧にノートに何かを書き込んでいた。その横顔に射し込む光が、俺の心に、静かに、でも確かに、焼き付いていったんだ。クラスメイトの名前が次々に呼ばれる中、君の名前が呼ばれた時、俺の心臓は不規則なリズムを刻んだ。君の声は小さく、澄んでいて、その響きが俺の耳の奥に残り続けた。まるで、俺だけが聞いている秘密のメロディみたいに。


あの時の光景は、まるで褪せることのない一枚のフィルムのように、俺の記憶の中に鮮明に残っている。その日から、俺だけの物語が、始まったんだ。


第一章:半径5メートルの境界線


俺の高校生活は、気づけば君を中心に回っていた。授業中、先生の話はほとんど耳に入ってこない。黒板の文字を追うふりをして、俺の視線はいつも、斜め前の君の背中に向けられていた。黒い髪が揺れるたびに、シャンプーの微かな香りがするような気がして、思わず深く息を吸い込んだ。もちろん、それは俺の勝手な思い込みに過ぎない。君は俺の存在なんて、きっと気付いてもいなかっただろう。


休み時間になると、教室は一気に賑やかになった。女子たちは連れ立って廊下に出て、男子は教室の真ん中で馬鹿みたいにふざけあう。そんな中で、いつも君の周りには、明るい笑顔のグループができていた。「可愛いね」「今日のテストどうだった?」なんて、はしゃぐ声が飛び交う。君は少しはにかむように微笑んで、それに答えていた。


「なあ、あの子、やっぱ美人だよな。俺らのクラスで一番だろ?」


隣の席のケンが、俺の肘を軽くつつきながら、**佐倉さくら**のほうに目線をやった。俺は何も言わず、机の上の教科書をいじった。「おい、聞いてるか?次の休み時間、購買行かねえ?」ケンがニヤニヤしながら聞いてくる。俺は曖昧に笑ってごまかした。佐倉の笑顔は、まるで俺のためにあるかのように輝いて見えたのに、その光は俺には届かない。俺と佐倉の間には、いつも見えない壁があった。きっと、俺は佐倉の半径5メートル以内の世界に、足を踏み入れることさえできなかったんだ。


ある日の放課後、俺は課題のために図書室へ向かった。普段はあまり利用しない場所だ。静まり返った書架の間を縫うように歩いていると、奥の方で、ひときわ目を引く後ろ姿があった。佐倉だった。佐倉は背の高い棚の前で、つま先立ちになりながら、一番上の段の本に手を伸ばしていた。その姿があまりにも絵になっていて、俺は思わず立ち止まって見とれた。佐倉が手を伸ばしたその時、バランスを崩しそうになったのを、俺はとっさに支えようと手を伸ばしかけた。だが、その一瞬早く佐倉は自分で体勢を立て直し、目当ての本を手に取った。俺は慌てて陰に隠れ、佐倉が席に着くのを待った。佐倉は窓際の席に座り、ページをめくり始めた。佐倉が手にしていたのは、SF小説だった。俺はSFはあまり読まなかったけれど、佐倉がどんな世界を読んでいるのか知りたくて、その本のタイトルをそっとスマホのメモに控えた。家に帰ってその本を買い、君がどんな文章に感動し、どんな景色を思い描くのか、想像しながらページをめくった。君との間には隔たりがあっても、同じ本を読んで、わずかでも君の世界に触れられることが、俺にとっては何よりも尊い時間だった。 俺は、佐倉から少し離れた別の棚の影から、ただその横顔を眺めていた。何か言葉を交わしたかった。だけど、心臓が喉まで飛び出してきそうな恐怖と、もし話しかけて佐倉が俺の存在に戸惑う顔を見たら、その瞬間に俺のこの宝物が壊れてしまいそうだと考えると、声は喉の奥に引っ込んだ。その思いは、俺の胸の奥で、無数の伝えたい言葉の破片になって散らばるだけだった。この秘密の想いは、俺だけのものにしたかった。俺だけの、胸の奥の佐倉。


放課後、俺は部活動にも入らず、通学路を歩く。佐倉と友達が楽しそうに話しながら、少し前を歩いているのが見える。いつもと同じ時間、同じ道。佐倉が歩く後ろ姿は、俺にとって日常の一部だった。佐倉のリュックサックにつけられた、小さなマスコット。風が吹くたびに揺れるそのマスコットでさえ、俺にとっては特別な存在だった。雨の日には水滴を弾き、晴れた日には陽光を浴びて輝くマスコット。その小さな揺れ一つにも、佐倉の今日の気分や、見えない感情を重ねてしまう自分がいた。君の存在を、少しでも長く感じていたんだ。俺の心に焼き付けた佐倉の面影は、季節が変わるたびに、繊細な変化を見せた。入学時の「少し長めの制服の袖」は、いつしか手首にぴったりと収まるようになり、その細い手首が伸びやかに見えた。夏服の真っ白なブラウス、秋の風に揺れる髪、冬のマフラーに顔をうずめる仕草。高校を卒業する頃には、佐倉はすっかり大人びた表情を見せるようになっていた。その成長を、俺は一番近くで、そして一番遠くから見つめていた。他の誰も気づかないような、佐倉のささやかな変化に気づくたびに、俺だけの特別な宝物が増えていくようだった。佐倉の存在は、俺にとって教室の片隅に差し込む、唯一の光であり、俺のモノクロの世界に色を塗る絵の具のようだった。


第二章:文化祭の輝きと、胸に響く音


季節は巡り、夏が過ぎて、秋の気配が校舎を包む頃、文化祭の準備で学校中が活気に満ちていた。放課後、クラスの出し物の準備で残る日が続いたんだ。俺は微かな期待を胸に抱いていた。もしかしたら、この雑多な空間の中で、佐倉と少しだけ言葉を交わす機会があるかもしれないって。


ある日の英語の授業中。佐倉がスピーチの発表のために教壇の前に立った。透明感のある澄んだ声が、はっきりと教室に響き渡る。その完璧な発音と、堂々とした立ち姿は、俺の目を釘付けにした。俺の視界には、スポットライトを浴びた佐倉しか映っていなかった。


「なあ、佐倉って英語うめえよな。なんか、すげーインテリって感じじゃね?」


隣の席のケンが、小声で俺に話しかけてきた。俺は眉間に微かに皺を寄せた。わかっている、そんなことは俺が一番わかっている。そんな表面的な言葉で、佐倉の全てを語ってほしくない。俺はただ、沈黙で答えた。


「おい、ケン!私語は慎め!」


先生の厳かな声が、シンとした教室に響き渡る。ケンの肩がびくっと震え、クラス中の視線が彼に集まった。佐倉の発表が一時中断し、その視線の中には、もちろん佐倉の視線も含まれていた。俺は、その場に釘付けになったように、動けなかった。もし、俺が同じように騒いで、佐倉の視線が俺に届いてしまったら、この秘密の想いが、一瞬で消え去ってしまうような気がしたから。心臓が痛いほど高鳴り、全身から汗が噴き出る感覚に襲われた。俺はひたすら、視線を足元に落とし、その場をやり過ごした。


ある日の放課後、クラスの準備で残っていた時、俺は教室の隅で黙々と作業をしていた。ふと顔を上げると、少し離れた場所で、ケンが佐倉に話しかけているのが見えた。 「佐倉、ここどうするんだっけ?」 「えっとね、これはこうして…」 二人はごく自然に言葉を交わしていた。ケンは特に緊張した様子もなく、佐倉もまた、ごく当たり前のように笑顔で答えている。俺は、その光景をなんとも言えない気持ちで見ていた。簡単なことのはずなのに、俺にはそれができない。たった数メートルの距離が、万里の壁のように高く感じられた。**俺には届かないその声と、俺には向けられないその笑顔。**心臓が軋むような音がした。


廊下の曲がり角を曲がろうとした時、不意に佐倉とぶつかりそうになった。一瞬、佐倉の白い手が俺の制服の袖に触れるか触れないかの距離まで近づき、佐倉の顔が目の前に現れた。シャンプーの香りがふわりと鼻をかすめ、俺の心臓は止まりそうになった。佐倉は少しだけ目を丸くして、すぐに「ごめんなさい」とだけ言って、足早に去っていった。俺は、その場に立ち尽くした。言葉を交わすこともなく、ただ一瞬の肌の記憶だけが、この手のひらに残された。その微かな温もりと、すれ違っただけの現実が、たまらなく切なかった。


佐倉が劇で演じた役は、白いドレスを纏ったお姫様だった。俺は、客席の一番後ろの席から、舞台上の佐倉をじっと見つめていた。スポットライトを浴びて輝く佐倉は、本当に手の届かない存在だと、改めて突きつけられるようだった。佐倉が光り輝く存在であるほど、俺はただその光を遠くから見つめる影のように感じられた。それでも、俺は佐倉のクラスの出し物に何度も足を運んだ。そのたびに胸が締め付けられるような痛みを感じたけれど、目を離すことができなかった。俺の視線は、大勢の人混みの中でもすぐに佐倉を見つけ出した。佐倉の輝きは、それほどまでに俺の目を奪った。


「なあ、今日の劇の佐倉、マジやばかったな!本物のプリンセスかと思ったわ。お前もそう思うだろ?」


別の友人であるタケルが俺の肩を叩いた。俺は返事に詰まり、首をすくめて曖昧に笑った。「おい、いつまで見てんだよ。次、俺らのクラスの出し物始まるぞ!」タケルが呆れたように俺を引っ張る。俺は彼の後に続いた。


文化祭の最終日、後夜祭の花火が上がった。グラウンドに集まった生徒たちの歓声が夜空に響く。俺は人混みの中に埋もれながら、花火を見上げる佐倉の姿を探した。見つけたんだ。佐倉は、やはりあの彼の隣で、夜空を見上げていた。打ち上がる花火が佐倉の顔を照らし、そのたびに、俺の心臓はきりきりと音を立てる。佐倉の笑顔は、いつも俺の知らない場所で、俺の知らない誰かのために輝いていたんだ。佐倉の言葉が世界を彩る音ならば、俺の言葉は無音の響きだった。俺の声は、この喧騒の中に紛れて、佐倉には届かない。花火の音が、俺の胸をえぐるように響いた。その瞬間、俺の中で「佐倉はもう誰かのもの」という決定的な現実が突きつけられた。それでも、俺は佐倉を愛している、と静かに受け入れた。この痛みこそが、俺の恋の真実なのだと。


第三章:空白の卒業アルバムと、届かぬ独り言


冬が訪れ、卒業が目前に迫った頃、俺は焦りを感じていた。このまま、何も伝えられないまま、俺の高校生活は終わってしまうのだろうか、と。雪がちらつく放課後の道。見慣れた通学路を一人、足元を見つめながら歩いていたんだ。耳からイヤホンを外して、凍えるような空気の中に、佐倉の気配を探した。ふと、前方に佐倉の姿が見えたような気がした。白い息を吐きながら、マフラーに顔をうずめる佐倉の横顔。そういえば、入学したばかりの頃、佐倉の制服の袖が少し長くて、それが妙に可愛らしく見えたのを思い出した。雪で白く染まった制服の肩に、積もった雪を払う佐倉の仕草が、あまりにも自然で、本当にそこにいるように思えたんだ。


「一度だけでも、話したかったな……」


そんな声が、俺の心の中で響いた。今なら、今なら追いかけて、声をかけられるかもしれない。そんな思いが、足をもつれさせた。勇気を振り絞って、顔を上げた。そこにいたのは、ただの木枯らしが吹き荒れる道。雪解け水で濡れたアスファルトが、夕暮れの光を鈍く反射していた。佐倉は幻だった。俺の臆病な心が作り出した、切ない幻影。


卒業アルバムを受け取った日、俺は真っ先に佐倉のページを探した。はにかんだ笑顔の佐倉が、写真の中にいた。クラス写真の中では、佐倉の隣にいつもいた彼が、満面の笑みを浮かべている。俺は、その写真の隅で、ぼんやりと遠くを見つめていた。俺のページは、佐倉の隣どころか、佐倉の視界にすら入ることのない、真っ白な余白のままだった。もちろん、佐倉とのツーショットなんて、一枚もない。当たり前のことなのに、胸の奥がズキズキと痛んだ。アルバムを閉じ、窓の外を眺めながら、誰に届くこともない俺だけの独り言が口をついて出た。まるで、誰にも読まれることのない手紙を書いているような、そんな気分だった。


エピローグ:フィルムの終幕、そして未来へ


卒業式の日。体育館での厳かな式典が終わり、俺は足早に教室へと向かった。最後のホームルームが終われば、もう二度と佐倉に会うことはないかもしれない。そんな焦燥感に駆られていたんだ。教室では、クラスメイトたちが思い出話に花を咲かせ、寄せ書きを交換し合っている。夕陽が滲む窓から差し込む光が、教室をオレンジ色に染めていた。ざわめいていた教室も、時間が経つにつれて一人、また一人と静かになって、誰もがそれぞれの未来へと旅立っていく。


「なあ、お前、この後どうするんだ?打ち上げ行くよな?」


クラスの端で一人佇む俺に、ケンが声をかけてきた。 「いや、俺はいいや。ちょっと用事あるから」 「そっか、寂しいな。でも、またすぐ会えるって!連絡するわ!」 ケンはそう言って、他の仲間たちと笑顔で教室を出ていった。俺は曖昧な笑みを返し、彼らを見送った。


誰もいなくなった教室の隅に佇んだ俺は、黒板に残された「ありがとう、三年〇組」という落書きを眺める。机に残されたわずかなチョークの粉、壁に貼られたままの文化祭のポスター。そこに、佐倉の面影を探した。佐倉が座っていた席に、そっと手を触れてみる。まだ微かに、佐倉の体温が残っているような気がした。教室の空気が、まるで佐倉の残り香を運んでくるようだった。**あの時の日差しが佐倉の席を照らす光景が、まるで昨日のできごとのように鮮やかに蘇る。**もう二度と、この場所で佐倉と会うことはない。


「一度だけでも、話したかったな……」


その言葉が、今度こそ、俺の喉元までせり上がってきた。だけど、もう、遅いんだ。窓の外は、すでに夕闇が迫っていた。


この痛みさえも、愛おしい日々として、俺の胸に残り続けるだろう。なぜなら、それこそが、俺の**「青春」のすべて」**だったから。遠くから見つめ続けた佐倉との日々は、俺にとっての宝物だったんだ。決して交わることのなかった俺と佐倉の物語。それは、まるで一本の映画のように、俺の記憶の中で永遠に再生され続ける。


俺の記憶のフィルムは、ゆっくりと、だけど確実に、終幕へと向かっていく。スクリーンの向こうでは、エンドロールが流れ始める。そこには、俺の視点から見た佐倉の姿が、鮮やかに映し出されては消えていく。佐倉の笑顔、佐倉の横顔、佐倉の仕草。すべてが、俺の心の中に永遠に刻まれていくんだ。


そして、卒業から数年後。僕は、今も時折、スマホの奥深くに保存された**「佐倉だけのフォルダ」**を開くことがある。そこには、佐倉の笑顔や、誰も知らない佐倉の癖、そして僕が佐倉に伝えたかった無数の言葉が、テキストとして記録されている。時には、佐倉がSNSに投稿した、友人たちと楽しんでいる短い動画を眺めてしまう。直接「いいね」もコメントもできないけれど, 画面の中の佐倉の笑顔を見るたびに、僕はあの時佐倉が読んでいたSF小説を読み返したり、佐倉が好きなアーティストの曲を聴き返したりする。それは、僕だけの「共有したい音楽」のプレイリストとなり、誰にも知られることなく僕のスマホの中で眠っている。誰にも見せない、僕だけの秘密の場所。スマホの画面をなぞるたび、佐倉の笑顔が蘇り、あの甘酸っぱい痛みが胸をよぎる。しかし、もう、あの頃のような絶望感はない。むしろ、それが僕を成長させてくれた大切な時間だったと、穏やかに受け止められるようになった。**君への想いは、僕をより感受性豊かにし、人や物事の「美しさ」を見出す目を与えてくれた。あの恋は、僕の人生という長い物語を形作る、かけがえのない礎となっていたのだ。フォルダの最後に、僕は「佐倉が幸せでありますように」**という、誰にも見せない一行をそっと追記した。それは、もう届かない手紙の、最後の一文だった。


遠い街で、佐倉がきっと幸せにしているだろうことを願う。僕のこの初恋は、決して実ることはなかったけれど、僕の人生という長い物語の特別な一本のフィルムとして、永遠に輝き続けるだろう。そして俺は、君との切ない日々を胸に抱きしめて、新たな一歩を踏み出す。遠くに見える、まだ見ぬ未来へ向かって。

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