裏切りの裏切り
幽基選手の顔から、血の気が引いていく。
その表情は、もはや混乱を通り越し、何か理解不能な、得体の知れないものに対する、原始的な恐怖に近いものへと変わりつつあった。
彼女の纏う、静かで深い湖のような雰囲気は、完全にその様相を変え、激しく波立ち、濁り始めている。
控え場所の部長は、もはや声も出せず、ただ唖然として私と幽基選手を交互に見ている。
体育館のその一角は、私の「異端」な卓球が織りなす、静かで、しかしあまりにも残酷なまでの支配によって、異様な静寂に包まれていた。
私のサーブ。
私は、ここでもラケットを持ち替えない。
裏ソフトの面のまま、構える。
幽基選手の視線が、私のラケット面に、そして私の瞳に、まるで何かを探るかのように突き刺さる。
(…彼女の思考は、今、私の「裏ソフトでの攻撃」という新たなパターンに集中している。ならば、その予測を、さらに裏切る)
私は、ボールをトスし、そして、先ほどのドロップショットとは対照的な、強烈なトップスピンをかけた、速いロングサーブを、未来選手のバックサイド深くに、低い弾道で叩き込んだ!
それは、彼女が最も警戒していなかったであろう、純粋な「力」と「スピード」のサーブ。
「…っ!」
幽基選手は、完全に意表を突かれた。彼女の体は、短いサーブや、ネット際の小技を警戒して前がかりになっていた。
その逆を深くつく、そして速いロングサーブに、彼女の反応はコンマ数秒遅れる。
咄嗟にバックハンドで合わせようとしたが、十分な体勢ではない。ボールは、彼女のラケットのフレームを掠め、力なくコートの外へと弾かれた。
静寂 5 - 0 幽基
(…成功。裏ソフトでの攻撃を意識させた上での、ロングサーブによる奇襲。相手の思考の固定化を利用した、効果的な戦術)
次の私のサーブ2本目。
幽基選手の顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。
ただ、能面のように無表情なまま、私を見つめている。
しかし、その内側で、彼女の思考が激しく揺れ動き、新たな対応策を必死で模索しているのが、私には手に取るように分かった。
私は、再び裏ソフトの面のまま、今度は、回転をほとんどかけない、しかし極めて速いナックル性のロングサーブを、先ほどとは逆の、幽基選手のフォアサイド深くへと送り込んだ。
これもまた、彼女の予測の範囲外だっただろう。
未来選手は、そのサーブに対し、なんとかフォアハンドでドライブをかけようとする。
しかし、回転のないナックルボールは、彼女のラケット面で滑り、コントロールを失ったボールは、大きく台をオーバーしていった。
静寂 6 - 0 幽基
(…異なる球質のロングサーブの連続。彼女のレシーブのタイミングと、回転への対応を遅らせる)
サーブ権は幽基選手へ。
彼女は、無言で、そしてゆっくりとした動作でサーブの構えに入る。
その姿からは、もはや先ほどまでの「異質」なオーラは感じられない。
ただ、深い困惑と、そして私という存在への、底知れない不気味さだけが漂っている。
しかし、その時だった。
未来選手がサーブを放つ直前、彼女の瞳の奥に、ほんのわずかな、しかし確実な「光」が宿ったのを、私は見逃さなかった。
それは、まるで、長いトンネルの先にかすかな出口を見つけたかのような、あるいは、絶望の淵で最後の希望にすがりつこうとするかのような、そんな色だった。
(…何だ?この変化は。彼女は、何かを「見つけた」のか?まさか…私の作戦メモに書かれていた、あの特定の状況下でのみ有効となるはずの、私の思考の「癖」や「弱点」を、この土壇場で思い出し、それに賭けようとしている…?)
未来選手から放たれたサーブは、これまでのどのサーブとも異なり、私のフォアサイド、ネット際に、極めて短く、そして強烈な横下回転がかかった、非常に質の高いサーブだった。
それは、私の作戦メモの中で、「私が最もレシーブミスをしやすいサーブのパターンの一つ」として、自己分析を書き込んでいたものと、酷似していた。
「…!」
私は、咄嗟に裏ソフトでフリックを試みる。
しかし、その強烈な横下回転と、絶妙な短さ、そして何よりも、私の思考を読まれたかのようなタイミングに、ラケットの角度を合わせきれない。
ボールは、無情にもネットにかかった。
静寂 6 - 1 幽基
(…やはり、そうか。彼女は、私のメモを、ただ読んでいるだけではない。その情報をこの状況の中で、的確に引き出し、そして実行するだけの、冷静さと、そして底知れない精神力を持っている)
私の背筋を、今度は別の種類の戦慄が走った。
情報が筒抜けであるという不利は、私が思っていた以上に、この試合を複雑で、そして危険なものにしている。
続く幽基選手のサーブ2本目。
彼女は、再び同じような、しかし今度は回転の方向を微妙に変えた、横下回転ショートサーブを、私のフォアサイドへと送り込んできた。
私は、先ほどのミスを繰り返すまいと、より慎重に、そして回転を読み切ろうと集中する。
しかし、その集中が、逆に私の判断を鈍らせたのかもしれない。
私のツッツキは、僅かに甘く浮き、幽基選手にとって絶好の攻撃チャンスとなってしまった。
未来選手は、そのボールを見逃さない。フォアハンドで、私のバックサイド深くに、鋭いドライブを叩き込んできた!
静寂 6 - 2 幽基未来
(…まずい。彼女は私のメモの情報から、私の弱点を知っている。そして、それを的確に突いてくる。このままでは、せっかく掴みかけた流れが、再び彼女の手に渡ってしまう…!)
私の「異端」が、そして私の「冒涜的」とも言える戦術が、今本当の意味で試されようとしていた。




