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異端の白球使い  作者: R.D
県大会 女子準決勝

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情報の逆手

 私はラケットを握りしめたまま、深く、深く息を吐き出す。


 体中の力が抜け、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。


 情報が筒抜けであるという圧倒的な不利。


 そして、それを的確に利用し、私を精神的にも追い詰めてくる幽基未来という選手の、底知れない「異質さ」


 私の「静寂な世界」は、今、これまでにないほどの強大な壁の前に、無力感を突きつけられていた。


 ベンチに戻ると、あかねさんが、今にも泣き出しそうな、しかし必死に私を励まそうとする表情で駆け寄ってきた。


 その手には、いつものようにノートとペンが握られているが、今は何を書けばいいのか分からない、といった様子で固まっている。


「しおりちゃん…大丈夫…?あんなの、ひどいよ…。まるで、しおりちゃんの考えてることが全部読まれてるみたいだった…。」


 あかねさんの声は、震えていた。


 彼女の私に対する呼び方は、もうすっかり「しおりちゃん」で定着している。


 その親しみが、今の私の張り詰めた心には、かえって痛みのように感じられた。


 私は、タオルで額の汗を拭い、乾いた喉をスポーツドリンクで潤す。


 しかし、体のだるさや、精神的な消耗は、それだけでは回復しない。


 指先が、微かに震えているのが自分でも分かった。


「…あかねさん。ご指摘の通り、私の作戦メモの情報は、完全に相手側に漏洩していると判断するのが合理的です。そして、未来選手は、その情報を元に、私の戦術、思考パターン、さらには精神的な弱点までをも的確に分析し、利用してきました」


 私は努めて冷静に、しかしその声の奥には、これまでにないほどの苦渋と、そしてそれを上回る闘志を滲ませながら答える。


「そんな…!じゃあどうすれば…!?しおりちゃんの作戦が全部バレちゃってるなんて…!」


 あかねさんの表情がさらに曇る。彼女は自分のノートに目を落とし、何かを必死に探しているようだった。


「私のノートだって、一日なくなった時があったし…あの時、もしかして…」


「…その可能性は、極めて高いと分析します」


 私は、静かに頷いた。


「あかねさんのノート、そして私の作戦メモ。二つの事象は同一の意図を持った人物、あるいは組織による計画的な情報収集活動である可能性が高い。そして、その情報が、幽基未来選手側に提供されている」


 私の言葉に、あかねさんは息をのんだ。


「…第一ゲームのデータを整理しましょう」


 私は、あかねさんのノートを指差した。


「あなたの記録と、私の記憶を照合し、幽基選手の『異質さ』と、彼女が『私の情報を知っている』という前提で、どのような戦術パターンを選択してきたのかを、再度分析します。そして、その中に、必ず『矛盾点』あるいは『新たな変数』を投入できる隙があるはずです」


 あかねさんは私のその言葉に、少しだけ気を取り直したように頷き、ノートを開いた。


「うん…!えっとね、まずしおりちゃんの最初のナックル性ショートサーブに対して、未来選手はものすごく短いストップで返してきたでしょ?あれ、本当にびっくりした…。まるで、得意技を逆手に取られたみたいで…。」


「…はい。あの返球は、私のサーブの回転と推進力を完全に無効化するものでした。通常のカットマンの技術とは明らかに異質です。そして、その後の彼女のサーブ。私が『秘策』としてメモに記していたロングサーブの弱点を的確に突くショートサーブや、私がアンチで処理しにくいと分析していたコースへのロングサーブ。これらは、偶然では説明できません」


「それに、しおりちゃんが得意なナックルサーブを、今度は未来選手がチキータで狙ってきた時も…!あれも作戦メモに書いてあった『有効なレシーブの一つ』と全く同じだった…!やっぱり、メモ、見られてたんだよ…!」


 あかねさんの声に、怒りと悔しさが滲む。


 その感情は、私にも痛いほど伝わってきた。


 私は、淡々と分析結果を述べる。


 しかし、その言葉の一つ一つが、私自身の敗北の記憶をなぞり、胸の奥に重くのしかかる。


 私自身も、高坂選手との試合で、似たような心理的揺さぶりをかけたことを思い出していた。


 それが今、より高度な形で自分に返ってきている。


「じゃあ、しおりちゃんの作戦は、もう全部バレちゃってるってこと…?このままじゃ、次のゲームも…」


 あかねさんの声が、不安でかき消えそうになる。


 彼女の大きな瞳が、潤んでいるのが分かった。


 私はしばし沈黙し、そして、ゆっくりと顔を上げた。


 その瞳の奥には、先ほどまでの僅かな動揺の色は消え、代わりに、より冷徹で、そしてより強固な決意の光が灯っていた。


「…いいえ、あかねさん。まだ、全てが終わったわけではありません」


 私の声は、静かだが、確かな力強さを帯びていた。


「確かに、私の『既知のデータ』は、彼女に読まれている。しかし、それは逆に言えば、彼女は私の『未知のデータ』、つまり、この試合の中で、今、この瞬間にも進化し続ける私の『異端』については、まだ何も知らないということです」


「しおりちゃん…?」あかねさんが、私の顔をじっと見つめる。


「彼女が私のメモを読み、私の思考を予測してくるというのなら、こちらも、その『読まれている』という事実そのものを、新たな戦術的変数として組み込みます。彼女の予測の、さらにその斜め上を行く。彼女が最も警戒していないであろう一手で、彼女の思考の前提を、もう一度、根底から破壊する」


 私の言葉に、あかねさんの瞳に、再び希望の光が宿り始めた。


「でも、具体的にどうするの…?幽基選手、本当に強いよ。しおりちゃんの考えてること、全部お見通しみたいだったし…」


 あかねさんの不安は、もっともだった。


「…ええ。彼女の分析能力と、情報処理能力は、私の予測を上回っていました。そして、彼女の『異質さ』の正体…あの、ボールがまるで生きているかのように変化する原因。それは、まだ完全には解明できていません」


 私は、一度言葉を切り、思考を巡らせる。


「しかし、第一ゲームで、いくつかの仮説は得られました。彼女の打球の『伸び』や『死に方』は、おそらく、極めて特殊な回転軸のコントロールと、ラケット面の微細な角度調整、そして何よりも、常人離れした指先の感覚によって生み出されている可能性が高い。物理法則を無視しているわけではない。むしろ、物理法則を、彼女独自の解釈で、極限まで利用している…」


「だとしたら…?」


「だとしたら、その『法則』の隙間を突くことは可能です。彼女が最も自信を持っているであろう、その『異質』なボールコントロール。それを、こちらも同様の、あるいはそれ以上の『異質さ』で無効化する。あるいは、彼女が予測できない『ノイズ』を意図的に混入させ、彼女の精密なコントロールを狂わせる」


 私の瞳の奥に、新たな戦術のシミュレーションが、高速で展開され始めていた。


「例えば、あえて彼女の『得意な場所』に、彼女が最も嫌うであろう『死んだボール』を送り込み続ける。あるいは、彼女のサーブに対し、これまでのどのデータにもない、全く新しい種類の模倣レシーブを試みる。彼女が私のメモを読んでいるなら、そのメモに『書かれていないこと』こそが、最大の武器になる」


「メモに書かれていないこと…!」


 あかねさんの目が、再び輝きを取り戻す。


「そっか!しおりちゃんなら、きっとできるよ!だってしおりちゃんの卓球は、誰にも真似できない、しおりちゃんだけの『異端』なんだもん!」


 彼女の言葉は、非論理的だ。


 しかし、今の私にとっては、どんな精密なデータ分析よりも、力強い「変数」として作用する。


「はい」


 私は小さく、しかし力強く頷いた。


「このインターバルで、新たな戦術を構築します。そして、第二ゲーム、必ず流れを取り戻します」


 私の「静寂な世界」に、再び闘志の炎が燃え上がる。


 情報という武器を奪われたとしても、私の「異端の白球」は、まだ死んではいない。


 むしろ、この絶望的な状況こそが、私をさらなる進化へと駆り立てる、最高の触媒となるのかもしれない。


 インターバル終了のブザーが、間もなく鳴り響く。私の、本当の反撃が始まろうとしていた。

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