ライトアリーナ
県大会準決勝当日。
早朝の空気はまだひんやりとしていて、私の思考をクリアにするには十分だった。
高坂選手との激闘の後、一時は危険水域に達した私のバイタルも、この一週間の調整ですっかり持ち直した。
心も「決起会」以降、私の中に芽生えた新たな「何か」のおかげか驚くほど安定していた。
体のだるさはまだ完全には消えていないが、試合に臨む上で支障はないレベルまで回復している。
自宅の鏡に映る私は、いつもと変わらない、感情の乏しい静寂しおりだった。
しかしその瞳の奥には、以前にはなかった種類の、静かだが確かな「熱」が灯っているのを、私自身も認識していた。
それは幽基未来という未知の強敵への挑戦心であり、そして、部長と三島あかねという「仲間」と共に戦うことへの、まだ名もつけられない高揚感のようなものだった。
あかねさんのノートの一件、私の作戦メモの紛失、そのあの後誰かが読んだ形跡もなく、しかし不自然な形で私のバッグに戻されていた。
依然として私の思考の片隅に、解決されない「ノイズ」として残っている。
背後にいるであろう「見えない敵」の存在は、常に私の警戒レベルを引き上げている。
しかし今の私には、それ以上に集中すべき「戦い」があった。
駅で部長とあかねさんと合流し、私たちは会場となる県立総合体育館へと向かった。
電車の中では、部長がいつものように冗談を飛ばし、あかねさんがそれに笑いながらツッコミを入れ、私はそれを冷静に(しかし、以前よりは少しだけ、そのやり取りを「データ」としてではなく「風景」として)観察していた。
体育館に到着すると、既に多くの選手や応援団でごった返しており、独特の熱気と緊張感が充満していた。
準決勝・決勝が行われるメインアリーナは、これまでの予選とは比較にならないほど広く、そして観客席も多い。
中央には、数面だけ残された卓球台が、スポットライトを浴びて静かにその時を待っている。
「うわー…やっぱり準決勝ってなると、雰囲気も全然違うね…!」
あかねさんが、緊張と興奮が入り混じった表情で周囲を見渡す。
「ああ。ここからは、本物の化け物しか残ってねえからな」
部長も、いつもの軽口とは裏腹に、その瞳には鋭い闘志を宿らせていた。
彼が今日対峙する尾ヶ崎選手は、あのオフチャロフ選手のような、粘り強く、そして精神的にもタフな難敵だ。
私は、静かにメインアリーナを見渡す。ここで、私は幽基未来という「異質」と戦う。
そして、もし勝利すれば、その先には決勝が待っている。部長もまた、彼の戦いを勝ち抜き、決勝の舞台へ駒を進めるだろうか。
(…部長の勝利確率は、尾ヶ崎選手の戦術と精神的タフネスを考慮すると、現時点での私の分析では互角。しかし、彼が持つ『粘り』と、私との練習で得た『変化への対応力』が機能すれば、その数値は上昇する。そして、彼自身の魂が、それを後押しするだろう)
私たちは、受付を済ませ、控え場所へと向かう。
そこには、既に他の準決勝進出者たちが集まり始めていた。
その中には、月影女学院のジャージを纏った、小柄で、しかし異様なほどの静けさと存在感を放つ少女――幽基未来選手の姿もあった。
彼女は、誰とも話すことなく、ただ静かに壁に寄りかかり、目を閉じて何かを聴いているのか、あるいは瞑想しているのか、その表情からは何も読み取れない。
そして、観客席の一角には、見覚えのある制服の集団がいた。
あの、クラスの中心的な女子生徒とその取り巻きたち。彼女たちは、まるで今日の試合の結果を、あるいは私の「何か」を見届けるために来たかのように、こちらを値踏みするような視線で眺めている。
その視線に、私は微かな不快感を覚えたが、すぐに思考を切り替えた。
(…今は、目の前の戦いに集中する。幽基未来。彼女の「異質」な卓球を、私の「異端」がどう分析し、どう攻略するか。そして、あの盗まれた作戦メモの情報が、この試合でどのように影響してくるのか。全てのデータは、このコートの上で明らかになる)
私は、ラケットケースを強く握りしめた。その中には、部長から返された、私の「魂」が静かに眠っている。
まもなく、準決勝のコールが体育館に響き渡るだろう。
私の、そして私たちの、新たな戦いが、今、始まろうとしていた。




