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異端の白球使い  作者: R.D
準決勝への準備

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灯火の返還

 県大会準決勝を来週に控えた放課後。


 体育館には、いつもより少し早い時間から、私と部長、そしてあかねさんの姿があった。


 他の部員たちは、まだ揃っていない。


 昨日の激闘の疲労は、一晩寝ただけでは完全には抜けきっておらず、私の体はまだ僅かな重さを引きずっていたが、思考はクリアだった。


 次の戦いに向けて、最終調整をしなければならない。


 私が一人でマシンに向かって黙々とボールを打ち、体の感覚を確かめていると、不意に部長が近づいてきた。


 その手には、見慣れた私のラケットケースが握られていた。


「よう、しおり。体の調子はもういいのか?」


 彼の声には、私の体調を気遣う響きと、そしてどこか真剣な眼差しが宿っている。


「…はい、部長。問題ありません。昨日はご迷惑をおかけしました」


 私が答えると、彼は「迷惑だなんて思うかよ」とぶっきらぼうに言いながら、私のラケットケースを差し出した。


「ほらよ。お前の『魂』確かに預かってたぜ。こいつがあると、なんか変なプレッシャー感じてかなわねえ。お前がいない間、俺の試合のベンチにしっかり置いておいたからな。」


 彼の言葉には、彼なりの責任感と、そして私が託した「お守り」という言葉への、彼なりの誠実さが滲んでいた。


 私は、静かにラケットケースを受け取る。


 その重みが、指先に確かな感覚として伝わってくる。自分の体の一部が戻ってきたような、安堵感にも似た感覚。


「…ありがとうございます、部長。破損等はありませんね?」


 私は、彼を見上げ、いつも通りの分析的な問いを発する。


 しかし、その声の奥には、ほんのわずかな、彼への信頼と感謝の念が込められていた。


「あったりめえだろ!神棚にでも飾っとけって言ってたんだよ、あかねが。…まあ、実際、こいつでちょっと素振りしてみたが、やっぱりお前のラケットはわけわかんねえな。どうやったらあんな変化が出るんだか。」


 部長は、少し照れくさそうに頭を掻きながら、しかし興味津々といった表情で私のラケットを見つめる。


 そこへ、ドリンクの準備をしていたあかねさんが駆け寄ってきた。


「もう、部長先輩!しおりちゃんのラケット、勝手に使っちゃダメですよ!でも、しおりちゃんのラケット、やっぱり特別なんですね!部長先輩も、あれで勝てたんですもんね!」


 彼女は、私と部長を交互に見ながら、嬉しそうに笑う。


「アンチラバーは3000円で買えますけどね」


 二人は私の現金な話をスルーして、部長は、あかねさんの言葉に「ま、まあな!」と得意げに胸を張った。そして、再び私に向き直る。


「…こいつがあれば、お前も準決勝、いつも通りの『変態的』な卓球ができるだろ。相手が誰だろうと、お前なら大丈夫だ」


 彼の瞳には、私への絶対的な信頼が宿っていた。


 私は、ラケットケースを開け、愛用のラケットを手に取る。


 グリップの感触、ラバーの張り具合、そして、スーパーアンチラバーと裏ソフトラバーが織りなす、私だけの「異端」な組み合わせ。


 このラケットがあってこそ、私の卓球は完成する。


 …部長。彼の勝利は、彼自身の力だ。


 しかし、私が託したこのラケットが、彼の精神に何らかのプラスの変数として作用した可能性は否定できない。


 そして今、このラケットは、再び私の手に戻ってきた。


「…はい、部長。」


 私は、ラケットを軽く数回振り、その確かな感触を確かめながら答えた。


「これで、準決勝、私の全てのデータと戦術を、最大限に発揮できます。」


 その言葉には、静かな、しかし揺るぎない自信が込められていた。


 私の「魂」は、確かに私の手元に戻ってきた。


 そして、それは、仲間の勝利と信頼という、新たな「熱」を帯びて、戦いに臨む私を、静かに、しかし力強く後押ししてくれるだろう。


 信頼?裏切ったのは君だろ?


 ラケットを握りしめたまま、私は、先ほどの部長の言葉と、あかねさんの屈託のない笑顔を反芻していた。


「お前なら大丈夫だ」という部長の信頼。


「しおりならきっとできるよ!」というあかねさんの応援。


 それらの言葉は、私の思考ルーチンにおいて、単なる「激励の音声データ」として処理されるだけではなかった。


 私の胸の奥、普段は凍てついているはずの静寂な湖面に、ほんの小さな石が投げ込まれたかのように、微かな、しかし確かな波紋が広がっていくのを感じる。


 …この感覚は、何だ?データ上の「高揚」とも異なる。論理的な「納得」とも違う。


 部長やあかねさんの言葉に含まれる非言語的情報…声のトーン、表情、彼らが纏う靄の色の変化…それらが、私の内部パラメータに、予測不能な、しかし不快ではない影響を与えている。


 私は、自分のラケットのラバーを、指先でそっとなぞった。


 裏ソフトの吸い付くような感触。スーパーアンチの滑らかな、しかしどこか掴みどころのない感触。


 これらは、私が世界と対峙するための、合理的な選択であり、計算された武器のはずだった。


 しかし、今、このラケットを握る手に、ほんの少しだけ、いつもとは違う「力」がこもっているような気がした。 


 それは、勝利への渇望や、闘争本能といった、私が既に認識している感情とは、また異なる種類の力。


 もっと、温かくて、そして、誰かに「応えたい」と願うような…。


 …他者の期待に「応える」という行動原理は、私の勝利至上主義と、現時点では矛盾しない。


 むしろ、それが勝利の確率を高める変数として機能するならば、積極的に活用すべきだ。


 しかし、この胸の奥で生じている、この微細な振動のようなものは…?合理的な説明がつかない。これは…ノイズの一種か?


 私は、その結論の出ない思考を一旦保留し、軽く素振りを始めた。


 体の動き、ラケットの角度、ボールの軌道。いつものように、全てを脳内でシミュレートし、最適化していく。


 だが、そのシミュレーションの中に、ほんの僅かに、部長の豪快な笑顔や、あかねさんの心配そうな、しかし信頼に満ちた眼差しが、ノイズのように混じり込んでくる。


 そして、そのノイズは、不思議と私の集中を乱すのではなく、むしろ、私の思考を、より深く、そしてより多角的なものへと導いているような、奇妙な感覚があった。


「どうした、しおり?ぼーっとして。明日の相手のことでも考えてんのか?」


 部長の声が、私の思考を現実へと引き戻す。


「…はい。対戦相手の戦術パターンの分析と、それに対する最適解のシミュレーションを」


 私は、いつも通りの平坦な声で答える。


 しかし、その言葉とは裏腹に、私の内側では、まだ名もつけられない、新しい感情のデータが、静かに、しかし確実に蓄積され始めているのを感じていた。


 それは、私の「静寂な世界」に訪れた、ほんの小さな、しかし無視できない変化の兆しだったのかもしれない。

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