休息
深い眠りから覚めたのか、それとも浅い眠りを繰り返していたのか、判然としないまま、私は重い瞼を押し上げた。
カーテンの隙間から差し込む光は、既に朝のそれではない、白々とした昼に近い光だった。
全身が、まるで鉛を流し込まれたかのようにだるく、指一本動かすのすら億劫だった。
高坂選手との試合の記憶が、断片的に蘇る。
あの極限の集中と、体力の消耗。
そして、最後に部長にラケットを託し、意識を失ったこと。
…私は、一体どれくらい眠っていたのだろうか。
思考が、まだ霧がかかったようにぼんやりとしている。
枕元のメモ――あかねさんが残してくれたもの――が、昨日の出来事が夢ではなかったことを静かに告げていた。
のろのろとした動作でベッドから這い出し、制服に着替える。
体中の関節がきしみ、筋肉が微かな悲鳴を上げている。こんな状態で、学校へ行かなければならないのか。
いや、行かなければならない。データ収集と分析は、私の日常ルーチンの一部だ。
そして、何よりも、部長に託した私のラケット…「魂」の行方が気になった。
家を出て学校へと向かう道すがら、体のだるさは抜けず、足取りは重い。
普段なら気にも留めない周囲の音や光が、今日はやけに刺激的に感じられた。
ようやく辿り着いた教室のドアを開けると、そこには既にあかねさんの姿があった。
彼女は、友人たちと談笑していたが、私の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ、すぐに駆け寄ってきた。
「しおりちゃん!大丈夫!?昨日、すごい顔色悪かったから、すごく心配してたんだよ!ちゃんと休めた?」
彼女の言葉には、隠しきれない安堵と、私への純粋な気遣いが満ちている。
そのストレートな感情表現は、まだ少し重い私の心に、じんわりと温かく染み込んできた。
「…はい、あかねさん。ご心配をおかけしました。休息は取りました。まだ、多少の身体的負荷は残っていますが、問題ありません」
私は、いつも通りの平坦な声で答えるよう努める。しかし、その声が自分でも僅かに掠れているのが分かった。
「よかったぁ…」
あかねさんは、心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「昨日のしおりの試合、本当にすごかったんだから!みんな、しおりのこと話題にしてたよ!一年でベスト4なんてすごいって!」
彼女は、興奮気味に昨日の試合の反響を伝えてくれる。
私は、その言葉を受け流すように、静かに尋ねた。
「…部長は?彼のその後の試合結果は…?」
私が最も気にかけていたのは、それだった。
私の「お守り」を託した彼の戦いの結果。
その問いに、あかねさんの表情が、再び興奮と喜びで輝いた。
「それがね、しおり!部長先輩も、すごかったんだよ!後藤先輩とのあの試合の後も、勝ち進んで…なんと、部長先輩も、準決勝進出を決めたんだ!」
「…準決勝…」
その言葉の響きに、私の胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに反応した。
「うん!だからね、明日の準決勝、しおりと部長先輩、二人とも試合があるんだよ!すごくない!?同じ学校から二人もベスト4なんて!」
あかねさんが、自分のことのように嬉しそうに、私の手を握って言った。
…部長も、準決勝へ。私のラケット…「魂」と共に、彼もまた、あの後戦い抜き、勝利を掴んだのか。興味深い。彼の精神力と、私の「異端」が、彼の中でどのような化学反応を起こしたのか。分析対象として、非常に価値のあるデータだ。
そして、それと同時に、私の心の奥底に、ほんのわずかな、しかし確かな「安堵」のような感情が芽生えているのを感じていた。
それは、私の「お守り」が、彼の力になったのかもしれないという、非論理的な、しかし否定しがたい感情。
そして、来週、私も、彼も、再びあの県大会の舞台に立つ。
私の体はまだ重いが、その事実は、私の内に新たな、そして静かな闘志を灯し始めていた。
昼休み。
私は、教室の自分の席で、午後の授業の予習をしながら、昨日の試合のデータと、次の準決勝に向けての思考を整理していた。
体力的な消耗はまだ残っており、活発に動き回る気にはなれない。周囲のクラスメイトたちの賑やかな声が、いつもより少しだけ遠くに感じられる。
あかねさんは、私の体調を気遣ってか、時折心配そうにこちらを見ているが、無理に話しかけてくることはない。
彼女のその距離感が、今の私にはありがたかった。
その時だった。
教室の中央付近、ひときわ大きな声と華やかな雰囲気を放つ一団が、私の視界の端に入った。
その中心にいるのは、クラスメイトの青木れいか。彼女は、常に数人の取り巻きを引き連れ、クラス内に目に見えない力関係のようなものを作り上げているリーダー格の存在だ。
その自信に満ち溢れた立ち居振る舞いや、他者に対する見下すような視線は、私にとって常に理解し難いものだった。
社交的で誰とでも分け隔てなく接するあかねさんは、青木さんのそういったグループや、彼女が作り出す特有の雰囲気に対して、特に何かを意識している様子はない。
良くも悪くも、クラスの一つの風景として捉えているだけなのだろう。
しかし、私にとって、青木れいかという存在は、常に何らかの「負の感情」を呼び起こす。
彼女の計算されたかのような笑顔、取り巻きへの指示めいた口調、そして、彼女の周囲に常に漂う、ある種の支配的な空気。
それは、私の求める「静寂」とは対極にある、不快で、そして警戒すべき対象だった。
青木さんのグループが、私の席の近くを通り過ぎる。その瞬間、青木さんの視線が、ほんの一瞬、私に向けられたように感じた。
その瞳の奥には、何の感情も読み取れない。しかし、彼女の表情の端に、私に向けられたその刹那、ほんのわずかに、氷のような冷たさと、見下すような色が宿ったのを、私の観察は見逃さなかった。
彼女は、すぐに視線を逸らし、隣にいた友人と何事かを囁き合い、そして、再び甲高い笑い声を上げた。
その笑い声は、直接私に向けられたものではないのかもしれない。
しかし、その音に含まれる、無意識の、あるいは意識的な「排除」のニュアンスが、私の記憶の奥底にある、過去の不快な出来事の断片と重なり、微かな頭痛と息苦しさを引き起こす。
…青木れいか。彼女の行動パターンと、私に対する非言語的なシグナル。直接的な接触はないが、潜在的なリスク要因として分類。
私は、表情を変えることなく、再び手元の資料に視線を落とす。
しかし、思考の隅では、青木れいかという存在が放つ不穏な空気と、それに対する私の説明しがたい嫌悪感が、県大会という目前の戦いとは別に、私の日常に、静かだが確実な影を落とし始めていた。




