限界駆動
試合終了のコールと共に、私の意識を支えていた極度の集中力が、ぷつりと切れた。
瞬間、全身を襲うのは、骨の髄まで染み渡るような、鉛のような疲労感。
視界がぐらりと揺れ、足元がおぼつかない。
呼吸が浅く、速い。
心臓が、警鐘を鳴らすかのように不規則に脈打っている。
…身体的リミット、到達。早期の休息が必須…。
私の脳は、かろうじて現状を分析するが、その処理速度も著しく低下している。
高坂選手との握手を終え、ネット際で一礼する。その一連の動作すら、今の私にはひどく緩慢で、まるで水中で手足を動かしているかのようだ。
「しおりっ!やったな!すげえじゃねえか!」
「しおりちゃん!大丈夫!?顔、真っ青だよ!」
控え場所に戻る私の元へ、部長とあかねさんが駆け寄ってくる。部長の興奮した声と、あかねさんの心配そうな声が、どこか遠くで響いているように聞こえる。
「問…あ…り…せん……」
私は、二人に対して何かを言おうとしたが、喉からは掠れた息しか出てこない。立っているのが、もう限界だった。体が、ぐらりと傾ぐ。
「おっと、危ねえ!」
部長が、咄嗟に私の体を支えてくれた。その腕は力強く、そして熱い。彼の熱が、僅かに私の冷え切った体に伝わってくる。
「おい、しおり、しっかりしろ!無理しやがって…すぐに座れ!」
部長の声には、先ほどの勝利への称賛とは打って変わって、焦りと、そして私の状態に対する本気の心配が滲んでいた。
彼は、私の腕を肩に回し、半ば抱えるようにしてベンチへと運んでくれる。
ベンチに座り込むと、全身の力が抜け、もはや指一本動かせそうにない。
呼吸を整えようとするが、浅い息しかできず、視界も明滅している。
「しおりちゃん!これ、飲める?ゆっくりでいいからね!」
あかねさんが、ペットボトルのスポーツドリンクのキャップを開け、私の口元へとそっと差し出してくれる。
その手は、心配で微かに震えていた。
私は、かろうじて頷き、数口だけそれを飲む。冷たい液体が、乾いた喉を潤すが、体力の回復には程遠い。
「…しおり。お前、今日の試合、凄まじかったぜ。あの高坂を、あそこまで追い詰めて、最後は完全に心を折っちまうとはな…。」
部長が、私の隣に腰を下ろし、私の顔を覗き込むようにして言った。
その声は、いつものような大声ではなく、私の体調を気遣うように、少しだけ抑えられている。
「特に、あの三ゲーム目…お前のあの、何考えてるか分からねえサーブの連続と、最後の最後で俺のサーブまでパクってエース取りやがった時は、正直、鳥肌立ったぜ。お前、本当に、とんでもねえ選手だよ。」
彼の言葉は、称賛であり、そして私の特異な才能への、改めての認識だった。
しかし、今の私には、その言葉にまともに応えるだけの思考力も、体力も残されていない。
「…データ…収集と…分析…そして、勝利…それだけ、です…。」
途切れ途切れに、かろうじて言葉を紡ぎ出す。声は、自分でも驚くほどにか細く、弱々しい。
部長は、私のその様子を見て、痛ましそうに顔を歪めた。
「…ああ、分かってるよ。お前が、どれだけ無茶苦茶な練習して、どれだけ自分を追い込んで、あの卓球をやってるかなんてな…。」
彼は、何かを言いかけて、しかし言葉を飲み込んだ。
そして、代わりに、私の頭を、大きな手で、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと、しかし力強く撫でた。
「…今は、何も考えずに休め。よく、頑張ったな、しおり」
「うん、しおりちゃん!後の事は任せて!」
その、不器用な、しかし心のこもった労りの言葉と、手の温かさ、そしてあかねさんの気遣いが、私の限界寸前だった意識の糸を、ほんの少しだけ、繋ぎとめてくれているような気がした。
あかねさんも、隣で私の背中を優しくさすってくれている。
仲間…か。
同じ過ちを繰り返す気か?
私の「静寂な世界」に、彼らの存在は、もう無視できないほど大きな「変数」として、確かに存在している。
そして、その変数がもたらすものは、今の私にはまだ、正確には分析できない、温かい何かだった。
しかし、その温かさも、急速に遠のいていくのを感じる。視界が、本格的に白く霞み始めた。
耳鳴りが激しくなり、部長の声も、あかねさんの気配も、まるで厚い壁の向こう側のようにぼやけていく。
私の脳は、最後の力を振り絞って、現状で最善を探そうとする。
「…ぶちょ、う…。」
かろうじて、声にならないような声で、私は目の前の大きな存在に呼びかけた。
「ん?どうした、しおり。大丈夫か?」
部長が、心配そうに私の顔をさらに強く覗き込む。
私は、震える手で、握りしめていたラケットを、彼の方へと差し出した。
それは、私の「異端」の象徴。私の、戦うための唯一の武器。そして、私の…魂の欠片。
「これ…私の…お守り、です…。」
途切れ途切れに、最後の力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「…あなたが…勝ち進むための…お守りに…してください…。」
私の「異端」が、あなたの「熱」と共にあれば、きっと…
「しおり…?おい、しっかりしろ!」
部長の焦った声が聞こえる。
彼の手が、私の差し出したラケットを、そして私の手を、力強く握りしめたのが分かった。
その温かさを最後に、私の意識は、深く、暗い静寂の中へと、完全に沈んでいった。
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次に気がついた時、私は、自宅のベッドの上に横たわっていた。
窓から差し込む光は、既に夕焼けの色を帯びている。体育館の喧騒も、ボールの音も、何も聞こえない。
ただ、いつもの、私の部屋の静寂だけが、そこにあった。
(…ここは…私の部屋…?なぜ…。)
混乱する思考。最後の記憶は、あの体育館のベンチで、部長にラケットを託し、意識を失ったところまでだ。
誰が、私をここまで運んでくれたのだろうか。部長か、あかねさんか、それとも顧問の先生か。
体を起こそうとしたが、全身に力が入らない。
高坂選手との試合で負った疲労は、想像以上に深かったようだ。頭も、まだぼんやりとしている。
ふと、枕元に視線をやると、そこには、折り畳まれた私のユニフォームと、そして、見慣れない一枚のメモが置かれていた。
私は、ゆっくりと手を伸ばし、そのメモを手に取る。そこには、丸みを帯びた、しかし丁寧な文字で、こう書かれていた。
「しおりちゃんへ
今日の試合、本当にお疲れ様。ゆっくり休んでね。
ラケットは、部長先輩がしっかり預かってくれてるから大丈夫だよ。
『お前の魂、確かに預かった。必ず、お前と、そして風花と一緒に、全国の舞台に立つ』って言ってた。
また明日、学校でね!
あかねより」
そのメモを読んだ瞬間、私の胸の奥に、今まで感じたことのない、温かくて、そして少しだけ切ないような、複雑な感情が込み上げてきた。
(…私の、魂…。)
部長は、私のあの言葉を、そしてあのラケットを、そう受け止めてくれたのか。
私は、あかねさんの文字を指でそっとなぞりながら、再びベッドに深く体を沈めた。
体育館での出来事が、まるで遠い夢のようにも感じられる。
しかし、この部屋の静寂と、枕元のメモが、それが現実であったことを静かに告げている。
私の「異端の白球」は、今、信頼する仲間の手に託された。
そして、私の知らないところで、物語は、また新たな局面へと動き出そうとしているのかもしれない。
私は、静かに目を閉じ、深い眠りへと、再び意識を委ねた。
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