異端に眠る王道
静寂 8 - 10 高坂
ついに高坂のセットポイント。
私のサーブ。
彼女の瞳は、勝利への確信と、今の私に対する絶対的な優位性を物語るように、強い光を放っている。
…どう対処するか。
私が放ったサーブは、ネット際に短く、回転量の多い下回転サーブ。
高坂選手のレシーブは、つっつきだった。
台上での捌きあいで雌雄を決しようという意志が感じる。
…まずい。完全に盤面を支配されている。
私の変化も、奇策も、今の彼女の気迫の前では効果が薄い。どうする…?このままでは…。 …負けてしまう
私の脳は、最適解を模索する。しかし、どの戦術シミュレーションも、今の高坂選手の勢いを止めるには確率が低いと弾き出す。
その時だった。
追い詰められた私の内側で、何かが、ほんのわずかに、しかし確かに変化した。
それは、論理的な思考や分析とは異なる、もっと原始的な、あるいは、かつて私が卓球を始めた頃に持っていたかもしれない、純粋な「負けたくない」という感情の欠片。
そして、これまで無意識のうちに積み重ねてきた、膨大な反復練習の記憶。
私の体は、思考よりも先に動いていた。
その短い下回転のつっつきに対し、私は派手な持ち替えも、トリッキーな変化も選択しなかった。
ただ、基本に忠実な、低い姿勢からのツッツキで返す。
しかし、そのツッツキは、これまでのどの返球よりも、深く、鋭く、そして回転量が多かった。
まるで、台に吸い付くように低い弾道で、高坂選手のバックサイド、エンドラインぎりぎりに突き刺さる。
「!」
高坂選手は、私が何か奇策を繰り出すか、あるいはミスをすると予測していたのかもしれない。
そのあまりにも「普通」で、しかし質の高い返球に、一瞬反応が遅れた。
彼女は、なんとかそのボールを拾い上げるが、返球は甘く、私のフォアサイドに山なりに浮いた。
…チャンスボール、ではない。これもまた、罠か。
私はそのボールに対し、強打を選ばなかった。
再び、基本に忠実な、しかしコースを厳しく突くフォアハンドドライブ。
回転を重視し、安定性を優先した、確実な一打。
高坂選手も、それを堅実にブロックする。
ここから、信じられないようなラリー戦が始まった。
高坂選手は、勢いに乗り、得意のドライブで私を左右に揺さぶる。
フォアへ、バックへ、厳しいコースへ、角度のあるボールを次々と打ち込んでくる。
しかし、私は、その全てのボールに食らいついた。
派手な「異端」の技ではない。
スーパーアンチでの変化球を最小限に抑え、主に裏ソフトの面で、ただひたすらに、粘り強く、ボールを相手コートに返し続ける。
まるで、かつての名選手が、世界トップクラスの選手たちを相手に見せたような、驚異的なまでの守備範囲と、どんなボールにも食らいつく執念。
それは、私の「異端」や「冒涜的」と評されるスタイルの奥底に、隠されていた、あるいは私自身も忘れかけていた、膨大な練習量に裏打ちされた「王道」の技術だった。
左右に振られ、体勢を崩されながらも、私は倒れ込みそうになりながらボールを拾う。
床を滑るシューズの音。荒くなる呼吸。しかし、私の瞳は、ただ一点、白いボールだけを追い続けていた。
私の脳は、もはや複雑な分析を放棄し、ただ、目の前のボールを相手コートに返す、その一点に全ての処理能力を集中させていたのかもしれない。
「な…なんだ、あいつ…さっきまでの変な卓球はどこ行ったんだ…?」
「ただの粘りじゃねえ…全部、コースが厳しい…!」
観客席から、控え室から、驚きの声が上がる。
私の「異端」な変化球を期待していた彼らにとって、このあまりにも地味で、しかし異常なまでに粘り強いプレイは、別の意味で「異質」に映っただろう。
高坂選手の表情にも、焦りの色が浮かび始める。彼女の渾身のドライブが、ことごとく、まるで壁にでも打ち返されるかのように、私のコートから返ってくる。
それも、ただ返すだけではない。回転をかけられ、コースを突かれ、決して楽なボールではない。
長い、長いラリー。体育館の誰もが息をのんで、その攻防を見守っている。
そして、十数本続いただろうか。ついに、高坂選手のフォアハンドドライブが、ネットを越えずに力なく落ちた。
静寂 9 - 10 高坂
どっと、体育館が沸いた。あの絶体絶命のピンチから、信じられないような粘りで可能性を繋いだのだ。
私は、肩で大きく息をしながら、汗を拭う。
体は鉛のように重い。しかし、心の中には、先ほどまでの焦燥感とは異なる、何か熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
それは、「人間らしい」粘り。
そして、勝利への純粋な執着。
私の「異端」と「冒涜」は、この膨大な練習量に裏打ちされた「王道」という名の凶器があってこそ、初めて真価を発揮するのかもしれない。
高坂選手の瞳には、信じられないといった表情と、そして、目の前の私という存在に対する、純粋な畏怖のようなものが浮かんでいた。
流れは、再び、私の方へと引き寄せられようとしていた。




