深夜の聞き手
「…待ってなさい!水、入れてくるから!」
私は半分逃げ出すように、ベッドルームを飛び出した。
キッチンのカウンターに手をつき、荒い息を整える。
…水じゃない。
私はコンロの方へと、向き直った。
今あの子に必要なのは、温かい何かだ。
数分後。
私はマグカップを二つトレーに乗せ、寝室へと戻った。
しおりさんは、ベッドの上で体育座りのように小さくなって、私を待っていた。
私はベッドサイドのライトだけを点け、彼女にマグカップを手渡した。
「…温かいココア、その方がいいでしょう」
「…ありがとうございます」
彼女は両手でカップを包み込み、そっと一口飲んだ。
その温かさに、少しだけ体の強張りが解けていくのが、分かった。
「…驚かせてしまい申し訳ありません、…もう大丈夫です」
また、その言葉。
私の中で何かがプツン、と切れた。
「…いいから!その堅苦しい話し方!なんとかならないの!?」
私の突然の叫び。
しおりさんは、目を丸くして固まっている。
「だ、だっておかしいでしょう!?たいして変わらないのよ、私たち!…おまけに一緒のベッドで寝る関係にまでなって!それなのに『申し訳ありません』!?…聞いてるこっちが息詰まるわよ!」
しおりさんは、困ったように眉を下げた。
「…努力はします、ですがこれはもう私の一部のようなものですから、…あまり期待はしないでください」
「…昔からなの?」
私は思わず聞き返していた。
彼女はココアの湯気に目を落としながら、静かに頷いた。
「…そうですね」
彼女はポツリポツリと語り始めた。
私が聞いた、あの地獄。
父の暴力。母の無関心。
そして唯一の光だった、親友を守るために、自らその手を突き放したこと。
その全てを失った少女が最後に選んだ道。
小学二年生の冬、自ら命を絶とうとしたこと。
…知っている、猛に事情を、おおまかに聞いていたから…、でも…。
人から聞くのと、本人から聞くのは、重みが違う。
私はただ黙って、ココアを飲むことしかできなかった。
しおりさんは、そこで一度言葉を区切る、そして。
静かに続けた。
「…あの日、死ぬことに失敗して病院のベッドで目を覚ました時、…私は、理解したんです」
「…何を…?」
「希望を持つことも、誰かを愛することも、感情を持つことそのものが、間違いだったのだと」
そのあまりにも絶望的な悟り。
「信じるから裏切られる、希望を持つから絶望する、その痛みは、自分に帰ってくる」
「だから捨てたんです。全部」
「え…」
「あお…、親友への想いも、卓球への情熱も、生きているという感覚も、…そして、一番最初に捨てたのが、子供らしい『言葉』でした」
…言葉…?
「普通の子供の言葉は、感情と繋がりすぎていますから『嬉しい』『悲しい』『楽しい』…、そんな言葉を口にするだけで、死んだはずの心がまた痛み出す」
「だから私は、心を殺すために、言葉を殺したんです」
「幸い私の母が完璧な『道具』を与えてくれていました『大人と対等に話せる子供であれ』と、…だから、その感情の乗らない冷たい言葉だけを、使うことに決めたのです」
彼女は、私をまっすぐに見つめた。
その瞳は、どこまでも静かだった。
「この言葉遣いは私の『盾』であり『鎧』です、これを構え、纏っている限り、私は何も感じずに生きていける」
「…だから、私には分からないのです」
「『普通』の話し方というのが…よく分かりません」
「だって私は」
「『普通』の話し方を知っていた、昔の自分を、あの日に殺して、捨ててきましたから」
その告白。
私はもう彼女を天才だとも魔女だとも思えなかった。
ただどうしようもなく不器用で、どうしようもなく哀しい一人の少女が、そこにいるだけだった。




