冒涜的
高坂選手は、ネット際に力なく転がったボールを、ただ呆然と見つめている。
その瞳からは、もはや戦意はおろか、思考する力すら奪われているかのようだ。
彼女の「正統派」の卓球が、私の「異端」によって、二度までも、ありえない形で否定されたのだから。
私は、卓球台に近づき、ネット際に落ちたボールを拾い上げる。
そして、高坂選手に向き直り、軽く手を挙げた。
「…失礼しました。ネットインです」
声のトーンは、いつも通り平坦。しかし、私の口元には、ごくわずかな、しかし高坂選手からはっきりと見て取れるであろう、皮肉とも憐憫ともつかない、薄ら寒い笑みが浮かんでいた。
それは、偶然の産物であるはずの幸運を、あたかも全て計算通りであったかのように振る舞う、彼女のプライドをさらに抉るための、静かなる冒涜。
高坂選手の肩が、小さく震えた。
私のその表情と言葉が、彼女の最後の理性を焼き切ろうとしているのが分かった。
彼女の瞳は、もはや冷静さを失い、ただただ絶望的に揺らめいている。
そして、次の私のサーブ。スコアは9-7。この1点で、私はセットポイントに王手をかける。
高坂選手は、もはや私の次の行動を予測することを放棄したかのように、ただ力なく構えている。しかし、僅かに闘志が残っているのも感じる。
…この状況。彼女の精神状態。
そして、私が持つべき「トドメ」の一手。選択肢は複数存在する。
高橋選手のサーブ、後藤選手のサーブ、あるいは、私自身のオリジナルである、あのナックル性の変化サーブ。
どれも有効打となり得るだろう。しかし…。
私は、脳内で全ての選択肢の成功確率と、相手に与える精神的揺さぶりを瞬時に計算する。
そして、導き出した最適解。それは、最もシンプルで、しかし最も残酷な一手。
…この相手には、もはや複雑な変化は不要。必要なのは、彼女の「正統派」の卓球の拠り所を、完全に破壊する一撃。
私は、ボールを高くトスした。そして、ラケットを裏ソフトの面に構え、体を深く沈み込ませる。そのフォームは――。
控え場所で息をのんで見守る部長の、そして高坂選手自身の記憶にも新しいであろう、あの、部長の、獣のような力強いサーブのフォームそのものだった。
しかし、そこから放ったのは、力強くはなかった。
インパクトの瞬間、私は手首の角度を微調整し、ラケットの面でボールの真下を、しかし強烈なバックスピンではなく、ごく僅かな、しかし非常に速いナックル性のロングサーブを、高坂選手のフォアサイド、エンドラインぎりぎりへと、低い弾道で叩き込んだ!
それは、部長のパワーフォームという「見せ球」を利用した、全く異なる球質のサーブ。
強打を警戒して後退しかけた高坂選手の、完全に意表を突く一打。彼女の思考は、もはやこの変化に対応できない。
「なっ…!」
高坂選手は、その予測不能な速いナックルロングサーブに対し、一歩も動けなかった。
ボールは、彼女の目の前を、まるで嘲笑うかのように通り過ぎ、エースとしてコートに突き刺さった。
静寂 10 - 7 高坂
私は、静かにサーブの構えに入る。これを、このセット最後の一球にする。
私は、ボールを高く、そしていつもよりもほんの少しだけ、ゆっくりとトスした。体育館の照明を背負うようにして落下してくるボール。
その動きを、高坂選手は、まるでスローモーションのように目で追っている。
彼女の思考は、完全に私の術中にある。
そして、私が選択したのは――。
これまでの模倣サーブや、パワーサーブといった「見せ球」ではない。
私の、最も基本的な、しかし最も相手を幻惑させてきた、あのサーブ。
ラケットの面は、一見するとフラット。
モーションも、強い回転をかけるようには見えない。しかし、インパクトの瞬間、私の手首と指先は、常人には感知できないほどの微細な動きで、ボールに複雑な回転を与える。
あるいは、全ての回転を殺し、完全なナックルとして放つ。
どちらが出るかは、見極めなければ分からない。そして、今の高坂選手には、それを見極める力は残されていない。
ボールは、低い弾道で、しかし予測不能な微かな揺らぎを伴いながら、高坂選手のフォアミドル、最も反応しにくいコースへと、まるで吸い込まれるように飛んでいった。
それは、強烈な下回転サーブに見えたかもしれない。
あるいは、全く回転のないナックルサーブに。
もしかしたら、微かな横回転が混じっていたかもしれない。
高坂選手は、そのボールに対して、反応できなかった。
ボールは彼女のラケットの脇をすり抜け、コートにバウンドし、そして静かに転がっていった。
静寂 11 - 7 高坂
第一セットは私のものになった。




