眠れない夜
カチッと。
時計の針が重なる音が、静かな部屋に響いた。
ベッドサイドに置いたスマートフォンの画面が、無機質に「0:00」を表示している。
…ああ、ダメだ。
…眠れない。
私はベッドの中で静かに伸びをした。
シーツの擦れる音だけが、やけに大きく耳に残る。
天井の淡い模様が、暗闇の中でじっと私を見下ろしているようだった。
目を閉じれば、あの光景が浮かんでくる。
浴室の湯気に、ぼんやりと霞むあの白い背中。
そこに刻まれていた、おびただしい数の線。
暴力の痕跡。
『――父親からの贈り物です』
あの感情の一切を消し去った声。
…何が「贈り物」よ…
胸の奥から怒りと、それ以上のどうしようもない無力感が、込み上げてくる。
私は今まで、一体何を見ていたのだろう。
私が追いかけていたのは、最強の「魔女」
私が倒すべき宿命の「ライバル」
だというのに。
あのパフェを、幸せそうに頬張っていた子供。
あの傷だらけの背中を、隠しもしせずに平然と立っていた、少女。
そのどちらが、本当の彼女なのか。
もう私には分からなかった。
…あの子は今眠れているの?
同じベッド、背中に感じるひとの気配。
あの子はあの壮絶な過去を抱えたまま、この見知らぬ家で、眠りにつけるというのだろうか。
それともあの子にとって眠れない夜こそが「日常」だったというのか。
振り返り、様子を見る勇気は、私にはない。
…明日、私は。
…どんな顔をしてあの子に「おはよう」と言えばいいの?
思考がぐるぐると、同じ場所を回っている。
頭は熱を持ったように冴えわたっているのに、体だけが鉛のように重い。
この感覚を知っている。
大事な試合の前日とはまた違う。
答えの出ない問いを突きつけられた夜の感覚。
遠くで救急車のサイレンの音が、聞こえた気がした。
時計はまだ0時3分を指したばかり。
…長い夜になる。
覚悟を決めて、もう一度ぎゅっと目を閉じる。
無駄な抵抗だった。
瞼の裏に焼き付いて離れないのは、やはりあの傷だらけの背中。
…うるさい。
頭の中がうるさすぎる。
思考を追い出そうとすればするほど、言葉が、疑問が、次から次へと湧いて出てくる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
もう30分は経ったはずだ。私はそっと目を開け、ベッドサイドのスマートフォンに手を伸ばした。
画面をタップすると、目に痛いほどの光と共に時間が表示される。
【 0:10 】
…嘘でしょ。
まだ10分も経っていない。
絶望的な気持ちで画面を消す。
光に慣れた目が再び暗闇に沈むと、先ほどよりも部屋が暗く感じられた。
しんと静まり返った部屋で、今度は背後から聞こえる規則正しい寝息が気になり始めた。
すー…、すー…、と。
あまりにも穏やかで律儀な呼吸音。
…本当に眠ってる…?
信じられない。
あんな告白をした後で、どうしてこんなにも安らかに眠れるというの。
ダメだ。
このままでは朝まで眠れない。
私は昔本で読んだ安眠法を試してみることにした。
ゆっくりと鼻から息を吸って、口から細く長く吐き出す。
…吸って。
…吐いて。
しかし落ち着いていくはずの心臓は、ドクドクとうるさく脈打つばかりだ。
…喉が渇いた。
そうだ。水を飲もう。
キッチンへ行って冷たい水を一杯飲めば、少しはこの頭に上った熱も冷めるかもしれない。
私はベッドの軋む音を立てないように、忍者のようにゆっくりと体を起こした。
シーツが音を立てないように、そっと足を床に下ろす。
―――ミシッ
静寂の中、床の軋む音が心臓に悪いほど大きく響いた。
私はその場で凍り付く。
心臓が喉までせり上がってくるような感覚。
…起こした…!?
私は息を殺して、背後――ベッドの上の気配を探った。
返事はない。
ただあの規則正しい寝息だけが静かに続いている。
…よかった。
安堵のため息をつきかけたその時。
私は気づいてしまった。
…あれ…?
…さっきまで聞こえていた寝息が…。
…止まっている…?
私の背中に冷たい汗が一筋流れた。
暗闇の中、彼女は静かに目を開けているのだろうか。
そして今、私を見ているのだろうか。




