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異端の白球使い  作者: R.D
五月雨高校編

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複雑性PTSD

 その日私は、学校の帰り道、富永先生の心療内科を訪れていた、私の日常も元通りになりつつある。


 しおりが東京へ行ってから三日が経つ。


 猛先輩からの短い連絡では「元気にやっている」とあったけれど、私の胸騒ぎは一向に収まらなかった。


「――先生。しおりは…大丈夫なんでしょうか」


 カウンセリング室の柔らかいソファに深く腰掛けた先生は、私のその問いに静かに頷いた。


「…葵さん、心配するのももっともだね。特に今の彼女は非常に特殊で危ういバランスの上に立っているからね」


 先生は机の上のカルテに目を落としながら静かに語り始めた。


「特殊なバランス?」


「…君の親友…、しおりさんが抱えているものは複雑性PTSDという心の傷だ」


「ふくざつせい…?」


「うん、そしてその中核にあるのが『過覚醒』…常に心と神経が張り詰めている状態だ」


 先生は私にも分かるようにゆっくりと言葉を選んでくれた。


「…例えばここに煙に非常に敏感な火災報知器があるとしよう。普通の報知器は火事の煙にしか反応しない。しかし彼女の心に取り付けられた報知器はあまりにも高性能すぎて、料理の湯気やタバコの煙、お風呂の湯気…その全てに最大音量で警報を鳴らしてしまうんだ」


 火災報知器…。


 その言葉に私はハッとした。


 あの全てを見通すようなしおりの「目」。


「その報知器が最大音量で鳴り響いている状態。それが君たちが見ていたしおりさんの正体だ。脳が『今は火事だ』と判断し、生き延びるために恐怖や痛みといった不要な感情の回路を全て遮断している、それが前の彼女だったんだよ」


「…じゃあ」と私は震える声で尋ねた。


「今のしおりは…。あの報知器が止まっている状態なんですか…?」


 その問いに先生は初めて少しだけ悲しそうな顔で首を横に振った。


「…いや。それこそが彼女の抱える問題の根深さなんだ、葵さん」


「彼女の報知器は一度も止まったことがない」


「え…」


「普通に見える時の彼女は警報が鳴り響いていないだけだ。しかし報知器の電源は決してオフにはなっていない。小さなランプが点滅し常に『ジ…』という低い音を立てながら部屋中の空気の流れを監視し続けている。それが彼女の『日常』なんだよ」


 その言葉に私は絶句した。


 …じゃあしおりは。


 …あの子はあの日、病院で目を覚ましてから一度も本当には休んでいなかった…?


 …リハビリも私たちのことを気遣ってくれていたあの優しい時間でさえも、ずっと戦っていたっていうの…?


「彼女の脳はまだ平時を知らない。常に無意識下でアドレナリンを放出し次の火事に備えている。だから彼女は燃え尽きない。…燃え尽きる暇さえ与えられていないんだ」


 私の瞳から涙がこぼれそうになるのを先生は静かに見つめていた。


「大丈夫ですよ、治療法はあります」


「え…?」


「報知器を止める方法は一つ、この部屋はもう絶対に火事になどならないのだと報知知器そのものに教え込むことだ。つまり絶対的な安全を与え続けること」


「二年前に、ある大会で昔の彼女の面影をみたと聞いたよ、そのとき葵さんが近くにいたことも、葵さんという存在、安心できるプレー環境、そのときのしおりさん気持ち、そのときはその全てが重なって安心できたんだと思うんだ」


「だから」


「君という安全基地の中でなら、今の彼女の心でも、本当の休息を得られない。…焦る必要はない。葵さんはただこれまで通り彼女の隣にいてあげればいい。…君の存在そのものが彼女にとって最高の『薬』なんだから」


 先生のその言葉。


 私は強く拳を握りしめた。


 …そうか。


 …私のですべきことは変わらないんだ。


 …しおり、早く帰ってきて…。


 そして今度こそあなたのそのうるさい報知器の電源を私が引っこ抜いてあげるから…!


 私の心に再び小さな、しかし確かな闘志の炎が灯っていた。

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