父親からの贈り物(2)
「父親からの、贈り物です」
そのあまりにも静かで、そして重い一言。
浴室のドアの前で私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
彼女が背負う闇のその本当の深さを、私はまだ何一つ理解してはいなかったのだ。
私のそんな混乱など意にも介さず、しおりさんは淡々と続けた。
まるで天気の話でもするかのように。
「最初は痛かったんですけどね。切られるのも、水に顔を押さえつけられるのも。…でも段々慣れました。人間の適応能力というのはすごいものです」
何を言っているのこの子は。
私の頭脳は彼女の言葉を理解することを拒絶していた。
彼女は私のそんな戸惑いさえもお見通しだというように、静かに続けた。
「…誰かに…」
「誰かに助けを求めなかったのか、ですか?」
「え…」
「…求められませんでしたよ。母親から言われていましたから。もし誰かにこのことを話したら、…たった一人の『親友』にも同じことをするからって」
その言葉。
私は息をのんだ。
親友を人質に取られていたというのか。
「だから私は親友を突き放しました。私と一緒にいたら彼女も壊されてしまうから」
「…そして絶望の果てに死のうとしました。小学二年生の時です、車の前に飛び出して、…まあ失敗して今こうして生きているわけですが」
淡々と語られる事実。
その一つ一つが私の常識と倫理観を粉々に破壊していく。
私は目の前で平然と立っているこの少女が、もはや人間とは思えない何か別の生物のようにさえ感じられた。
…ああ、そうか。
その時私の頭の中で、昼間の全ての出来事が一つの線で繋がった。
「一緒にお風呂に入りましょう」という私のからかい。
「合理的ですね」と平然と受け入れた彼女の答え。
猛の頭を撫でるという行為に何の反応も示さなかったあの姿。
この子は人と関わった時間が極端に短いんだ。
普通の人間が幼い頃に学ぶはずの「常識」や「恥じらい」といった感情の機微。
その全てを学ぶ機会さえ奪われ、
ただ生き延びるためだけの「論理」だけを身につけてここまで来てしまったんだ。
だから人との距離感が分からないんだ。
何が「普通」で何が「異常」なのか、その境界線そのものが彼女の中には存在しない。
私が感じていた「ギャップ」とはそういうことだったのか。
私は震える手で自分の口を覆った。
私が嫉妬しそして憧れたこの「魔女」の正体。
それは天才などではない。
ただあまりにも過酷な地獄をたった一人で生き延びてきた、傷だらけの子供。
ただそれだけだったのだ。




