処方箋
私たちの本当の「遊び」の時間が今始まろうとしていた。
カン、カンと。
騒がしい体育館に、小気味のいい音が響く。
私たちはごく基本的なフォア打ちからラリーを始めていた。
その単調な練習。
私の思考はまだ半分だけ氷の下にあった。
…何のためにこんなことを…。
喉の奥がまだきゅっと締まるような窒息感がある。
そして腕の古傷が熱を持ってズキズキと痛む。
無理やり氷を纏った代償。
こんな状態でただのフォア打ちなど無意味だ。
もっと実践的な練習をすべきだ。
私の思考はまだ冷徹な「合理性」に囚われていた。
しかし。
カン、カンと、一定のリズムでボールを打ち返してくる部長の顔は真剣そのものだった。
そのまっすぐな瞳。
その瞳を見ているうちに、私はふと気づいた。
…ああ、そうか。
彼は練習をしているのではない。
これは彼なりの治療なのだ。
このどこまでも単調で、どこまでも安全なラリーのリズム。
その繰り返される音と振動だけが、今の私の張り詰めた神経を唯一緩めることができると知っていたのだ。
私を安心させるために、彼はただひたすらにこの退屈なラリーに付き合ってくれていたんだ。
その部長の意図に気づいた瞬間。
すうっと喉の奥の窒息感が薄れていくのが分かった。
まるで固く閉ざされていた蛇口が緩むように。
傷の痛みの残滓はまだ微かに残っている。
自ら魂を削ったその代償が完全に消えることはないのだろう。
でも、なんとなく心が温かくなっていく。
この不器用でどうしようもなくお人好しな王様の隣は、こんなにも安全な場所だったのか。
カン、カンと。
ラリーは続く。
その音はもう私にとってただの練習ではなかった。
それは私の凍てついた心をゆっくりと溶かしていく、優しい子守唄のように聞こえていた。
後ろでは、凛月さんがスマホをいじりながら、時折ちらちらとこちらの様子を盗み見ている。
その横顔もまた、どこか優しげに見えた。
やがてその単調なラリーは五十球を超えたあたりでぴたりと止まった。
部長がラケットを下ろし、そして少しだけ心配そうな目で私を見つめていた。
「…しおり。少しは落ち着いたか?」
そのまっすぐな気遣い。
私の心の氷はもうほとんど溶けかけていた。
しかしそれを素直に認めるのはなんだか癎に障る。
私はわざと皮肉っぽい口調で答えた。
「…何のことですか?私は最初から至って冷静ですよ」
その言葉。
部長は一瞬呆れたような顔をしたが、すぐにニヤリと口の端を吊り上げた。
その顔はまるで悪戯を思いついた子供のようだった。
「――よっしゃ!ならオールコートで勝負だ!ハンデはなし!俺が勝ったら駅前のラーメン奢れよ!」
彼はそう言ってラケットを構え直す。
その瞳にはもう心配の色はない。
ただ純粋に目の前の好敵手との勝負を楽しもうとする光だけが宿っていた。
…本当に、単純なのか頭が良いのか。
彼は分かっているのだ。
今の私に必要なのは過剰な「心配」ではなく対等な「勝負」なのだと。
そしてその「勝負」の中でなら私が残りの氷も全て溶かしきれるということを。
腕の傷跡の痛みがまだ疼く。
魂を削った代償が消えたわけではない。
しかしそれ以上に強く。
この不器用でまっすぐな部長の「信頼」に応えたい、という想いが私の心を満たしていた。
「…仕方ないですね。その挑戦受けてあげます」
私はラケットを握り直しそして深く息を吸い込んだ。
ここからが本当のリハビリだ。
もう氷の鎧に頼るのではない。
今の私のありのままの力でこの最強の好敵手に挑むのだ。
「…ただし」と私は付け加えた。
「私が勝ったら小笠原さんとパフェを奢ってくださいね」
「はっ、上等だ!」
後ろで小笠原さんが「ちょっと私まで巻き込まないでくれる!?」と叫んでいるのが聞こえた。
私の口元から自然と笑みがこぼれていた。




