二日目
翌朝。
私が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの凛月さんの姿はもうなかった。
リビングに出ると、彼女はすでに完璧に着替えを済ませ、テーブルの上には温かい朝食が二人分用意されている。
その完璧な生活能力に、私は静かに感嘆した。
「…おはよう、しおりさん」
「おはようございます、小笠原さん」
昨夜のあの熱い挑戦状が嘘のように、彼女の態度はいつも通りツンとしている。
しかし、その横顔がほんの少しだけ赤いことを、私は見逃さなかった。
その沈黙の中で、私たちはただ黙々と朝食を口に運んだ。
家を出て駅へと向かう道すがら。
昨日とは全く違う、穏やかな空気が私たちの間には流れていた。
凛月さんが、不意に口を開いた。
「…昨日のあなたの試合。監督が褒めていたわよ」
「え…?」
「『ただの異端ではない。その根底には、揺るぎない勝利への哲学と基礎がある』ですって。…まあ、私にはよく分からないけれど」
そう言って、そっぽを向く彼女。
その言葉が、彼女なりの最大限の「賞賛」であることを、今の私にはもう分かっていた。
私の口元が、無意識に笑みを浮かべる。
「…あなたの試合も見事でした。部長とのあの打ち合い。見応えがありましたよ」
「…!あ、当たり前でしょう。あのゴリラに負ける私ではないわ」
慌てたように早口でそう言う彼女の姿が、なんだかとても可愛らしく見えた。
そうだ。
私たちは、ライバルでありながら。
こうして互いを認め合い、そして高め合える、最高の「仲間」にもなれるのかもしれない。
その新しい可能性の光が、私の心を温かく照らしていた。
五月雨高校の校門が見えてくる。
私の心は昨日とは全く違う、穏やかな闘志で満ち溢れていた。
二日目の授業は、昨日とは打って変わって、穏やかに過ぎていった。
私がいることで、クラスメイトたちの間にあった、妙な緊張感も解けたようだった。
昼休みには、高橋くんたちが、また卓球の質問をしに来て、私は昨日と同じように、穏やかな時間を過ごした。
そして、放課後。
部長と小笠原さんが、部活の準備で体育館へと向かう中、私は一人、あの場所へと足を向けた。
屋上だ。
昨日と同じように、ドアを開けると、ひやりとした風が頬を撫でる。
私は、フェンスのそばまで歩いていき、そして、昨日と同じ場所に、静かに腰を下ろした。
眼下に広がるのは、ガラスとコンクリートでできた、巨大なビル群。
夕日に照らされて、その窓ガラス一枚一枚が、まるで龍の鱗のように、オレンジ色にきらめいている。
故郷の町では、決して見ることのできない、圧倒的で、そして、どこか非人間的な風景。
(…不思議な、光景)
私は、ただ、その景色を眺めていた。
昨日、部長と二人で眺めた時とは、また違う感慨が、胸に込み上げてくる。
昨日、この景色は、私にとって「別世界」の象徴だった。
しかし、今は違う。
この、無機質なビル群の一つ一つの中にも、きっと、部長や小笠原さんのような、あるいは、私や葵のような、どうしようもなく不器用で、傷だらけの人間たちが、必死に生きている。
そう思うと、その冷たいはずのガラスの壁が、ほんの少しだけ、温かいもののように感じられた。
そうだ。
世界は、どこへ行っても、きっと同じなのだ。
孤独と、絶望と、そして、その隣で輝く、ささやかな希望。
その、どうしようもない、まだら模様で、この世界はできている。
そんな、哲学的な感傷に浸っていた、その時だった。
背後で、再び、ドアが開く音がした。
「……主将ともあろう人が、部活前にこんなところにいていいんですか?」
そこに立っていたのは、意外な人物だった。




