サーバーとレシーバー
このチェス盤の主導権は、完全に私が握っているのだ、と。
しかし。
卓球という競技は、チェスとは決定的に違うルールが存在する。
サーブ権。
二本ごとに移り変わる、その絶対的な権利。
現代卓球は研究が進み、サーバー側がポイントを取る確率は七割を超えると言われている。
なぜならサーブは、唯一相手の影響を受けずに、自らが望む「回転」を、望む「力」で、望む「位置」へと送り込める、先制攻撃だからだ。
つまり、レシーバー側は常に三割の不利を背負って、サーブという先制攻撃から守り、一度サーブを捌いてから、つまり受け身の姿勢から戦わなければならない。
私が予測を立てようとも、この構造的な不利だけは覆せない。
サーブ権が、黒木さんに移る。
その瞳には、再び闘志が宿っていた。
彼が放ったのは、私の体を抉るような、鋭く、そして速い下回転のスピードサーブだった。
(…速い…!)
私の反応が、コンマ数秒遅れた。
なんとかラケットに当て返球するが、そのボールは意図しない甘いチャンスボールとなって、彼の元へと飛んでいく。
彼は、それを見逃さない。
完璧な踏み込み。
完璧なスイング。
お手本のような三球目攻撃が、私のコートを撃ち抜いた。
スコアは、3-3。
試合は、再び振り出しに戻った。
レシーバー側の二本。
一点を取り、一点を取られた。
そうだ。レシーバー側で一点を取って、ようやく五分。
それが、この競技の本質なのだ。
私は、静かに息を吐き出した。
卓球とは、なんとままならないゲームなのだろう。
自らの思考という「必然」と、サーバー決める「運」の名を持つ変数が、複雑に絡み合う。
そのどうしようもない理不尽さに、私はため息をつきながらも、しかし心のどこかで歓喜していた。
(…面白い)
サーブ権が、私に移る。
ここからが、本当の勝負だ。
私はボールを手に取り、そしてネットの向こう側で静かに牙を研ぐ、恐るべき挑戦者を見据えた。
そこからの試合展開は、一見、一進一退の攻防に見えたかもしれない。 しかし、その実態は全く違っていた。 スコアはもつれ、お互いに一点一点と積んで行く。
だが、その全てのポイントには、一つの明確な「法則」が存在した。
黒木が点を取るのは、常に彼が「サーバー」の時だった。 彼の、その教科書のように美しく力強いサーブからの三球目攻撃。 それに対し、防戦一方となってしまう。
しかし。 私がサーブ権を握った時、その盤面は完全に反転する。 私の、あのモーションが全く同じに見える下回転とナックルサーブのコンビネーション。 それに加えて、ラケットを反転させる型。
そのあまりにも多彩で予測不能なサーブの前で、黒木は抗うも看破することはできず、ついに彼はまともなレシーブさえできずに点を落としていく。
そして、勝負を分けたのは、たった一つの違いだった。 レシーバー側で、点を取れるかどうか。
彼のサーブのターン。 私は彼の必殺のサーブに対し、アンチラバーを駆使し、あるいは捨て身のカウンターで食らいつき、そして、ついに一点をもぎ取った。
しかし、私のサーブのターン。 彼は、ついに一度も私の魔術を破ることができなかった。
スコアは、静かに、しかし確実に私へと傾いていく。 そして、最後の一点。
私が放ったナックルサーブが彼のラケットの下をすり抜けるようにネットに突き刺さった、その瞬間。 長い熱戦の幕は、下りた。
静寂 11 - 8 黒木
私は、静かに一礼した。 そのスコアは、圧倒的な点差ではない。 しかし、その一点一点の中身には、絶望的なまでの「格の違い」が存在していた。
黒木は、それを痛いほど理解していただろう。 彼は、ただ呆然と立ち尽くしていた。 自らの常識が完全に破壊された、そのチェス盤の上で。




