常識の終わり
私は気づかないふりをして、ただ部長と小笠原さんの試合を、静かに観測し続けていた。
やがて、二番台の試合が再び終わる。
次に玉座へと登ってきたのは、三年生の佐藤さんだった。
彼は黒木主将のような派手さはない。
しかし、その構えには一切の隙がなく、全身が研ぎ澄まされた刃物のようだった。
「お願いします」
「…お願いします」
サーブ権は彼から。
彼が放ったのは、私のフォアサイドのネット際に、短く、そして鋭く落ちる下回転サーブだった。
教科書のように、完璧なサーブ。
普通の選手なら、これを攻撃的に返すことはできず、山なりに「ツッツキ」で返すしかない。
そして、その甘く浮いたレシーブを、彼は待っている。
逆サイドのオープンスペースに、必殺の三球目攻撃を叩き込むために。
(…見えている)
(あなたのサーブも、私の返球の予測も、そしてその後に待ち構えている、三球目のコースも)
私は、彼の描いた完璧な「勝利への方程式」を嘲笑うかのように、台の中へと踏み込んだ。
そして、その短い下回転サーブに対し、アンチラバーの面で攻撃的なフリックを放った!
アンチが彼の回転を完全に殺し、そして私の手首のスナップがボールに強烈な横回転を与えたように見せる。
ボールは彼の予測とは全く逆の、バックサイド深くにナックルボールとなって突き刺さる。
彼の思考が、フリーズする。
彼が待っていた「三球目」は、永遠にやってこない。
彼は体勢を崩しながらなんとかそのボールに食らいつき、弱々しいブロックを返すのが精一杯だった。
(…終わりです)
そして、山なりに返ってきたそのボール(四球目)。
それを、私は待っていた。
私はその甘いボールを、容赦なく相手コートに叩きつけた。
体育館が、静まり返る。
私は静かに、構え直した。
そして、心の中で彼に告げた。
(…残念です、佐藤さん)
(あなたのその完璧な三球目攻撃は、私のこの予測不能な二球目の前では、意味をなさない)
(現代卓球の常識は、私の前では通用しませんよ)
その、静かなる魔女の宣告。
彼の額に、一筋の冷たい汗が流れるのを、私は見逃さなかった。
試合は、そこから一方的だった。
佐藤さんはその後も、何度も自らが最も得意とする「サーブからの三球目攻撃」を仕掛けてきた。
しかし、その全てのサーブは私の「予測」によって完璧に読み切られ、そして予測不能のレシーブによってその威力を殺された。
彼が築き上げてきた勝利への方程式は、私の前ではただの意味のない数字の羅列と化していた。
スコアは11-2。
黒木主将の時と同じ…いや、それ以上の圧倒的な点差で試合は終わった。
佐藤さんはネットの向こう側で、まるで狐につままれたような顔で立ち尽くしている。
私は彼に静かに一礼し、そして再びベンチへと戻った。
監督が佐藤さんを手招きするのが見えた。
黒木主将の時と同じように、何事かアドバイスを受けている。
その光景を尻目に、私は体育館全体へと視線を巡らせた。
私の、次なる「獲物」を探すために。
その視線は、自然と二番台へと吸い寄せられた。
そこで試合をしていたのは、黒木主将だった。
彼は一度私に敗北を喫した後、一つ下の台へと落ち、そしてそこから再び這い上がってこようとしていた。
その瞳には、もはや先ほどのような混乱はない。
そこにあるのは、獲物を狩る狩人のような、純粋な闘志だけ。
彼は、監督と私のアドバイスを自分なりに咀嚼し、そして新しい戦い方を模索しているようだった。
その圧倒的なパワーはそのままに、しかしその一球一球には迷いがない。
「考えるな。ただ、打て」
監督のその言葉を、彼は忠実に実行していた。
二番台の相手は、彼のそのあまりの気迫に押され、なすすべもなく敗北していく。
(…なるほど)
私は、静かに呟いた。
(私の次なる相手は、あなたですか、黒木さん)
一度砕かれた、主将としてのプライド。
そして、魔女へのリベンジという、新しい闘志。
その全てを手に入れた彼が、どれほどの強さを見せるのか。
私の心の中に、久しぶりに勝負師としての純粋な興奮が芽生え始めていた。
私は静かにラケットを握り直し、そして次なる挑戦者が玉座へとたどり着くのを、ただ静かに待ち続けた。




