後の先
私の最初の「獲物」が、今、玉座へと向かってくる。
二番台での激しい打ち合いを制したのは、やはりこの部の主将、黒木さんだった。
彼は汗を拭いながら私の立つ一番台へとやってくると、静かに、そして深く一礼した。
「…お願いします」
「お願いします」
1セットマッチ。サーブは、彼から。
体育館の全ての視線が、私たち二人に注がれている。
黒木さんが放ったのは、教科書のように美しく、そして剃刀のように鋭い下回転サーブだった。
ボールが低い軌道で、私のフォアサイド深くに突き刺さる。
(…なるほど。これが、五月雨のトップクラスのサーブ)
私はあえて少しだけ体勢を崩しながら、そのボールをループドライブで返球した。
その返球は、回転量は多いがスピードはない。
山なりの軌道で、彼のコートの中央へとふわりと返っていく。
それは、誰の目にも「苦し紛れの甘い返球」に見えたはずだ。
黒木さんの瞳が、鋭く光った。
彼はその絶好のチャンスボールを見逃さない。
私のがら空きになった逆サイドへと回り込み、全身全霊のスマッシュを叩き込むための、完璧な体勢に入る。
(…かかった)
私は心の中で、静かに呟く。
そうだ。
それこそが、私が仕掛けた罠。
私が、彼に選ばせた唯一の選択肢。
彼がラケットを振り抜く、そのコンマ数秒前。
私は、すでに動いていた。
彼がボールを叩き込むであろう、その一点。
がら空きだったはずの、私のバックサイドへと滑り込むように。
放たれたボールは、必殺の威力で私の元へと飛んでくる。
しかし、私はそこで待っていた。
私は彼のその力の全てを利用し、そして自らの力を上乗せする。
ラケットがボールを捉えた瞬間、コンパクトに、そして鋭く振り抜く。
カウンタードライブ。
私が放ったボールは、彼が放ったボールの力を借りて、より速く、そして鋭い角度で、彼の全くいないオープンスペースへと突き刺さった。
彼が、反応することさえできずに。
しん、と静まり返る体育館。
黒木さんは、信じられないといった顔で、自分のコートに突き刺さったボールと私の顔を交互に見ている。
彼は理解できていない。
なぜ、自分の完璧な一撃が返されたのか。
なぜ、がら空きだったはずの場所に、彼女がいたのか。
私は静かに、構え直す。
そして、この強豪校の主将に、最初の「挨拶」を告げた。
「…ようこそ、黒木さん」
「私の、チェス盤へ」
その宣告と共に、試合は再開された。
黒木さんの表情は硬い。
彼はまだ諦めてはいない。しかし、その瞳の奥には、先ほどまでの絶対的な自信とは違う、未知のものへの「警戒」の色が浮かんでいた。
彼は、サーブから戦術を変えてきた。
回転の変化をつけたサーブで私を揺さぶり、主導権を握ろうとする。
しかし、無駄だ。
私の前では、全ての回転はただの数字に過ぎない。
私は彼のサーブを完璧に読み切り、そしてあえて甘いボールを返す。
さあ、どうぞ。撃ってきなさい。
そう、誘うかのように。
黒木さんは、その誘いに乗るしかない。
彼は自らのプライドとパワーを信じ、何度も、何度も必殺のドライブを叩き込んでくる。
その一撃一撃は、確かに重い。
しかし、その全てが私の予測の範囲内だった。
私は最小限の動きでその強打をいなし、そしてカウンターを合わせる。
体育館にいる誰もが、異様な光景を目の当たりにしていた。
全国レベルの強豪校の主将が、一方的に攻め続けている。
しかし、ポイントを取っているのは、常にその攻撃を涼しい顔で受け流す、中学生の少女なのだ。
スコアは、進む。
5-1、7-2、そして9-3。
黒木さんの心は、もう折れかけていた。
彼の瞳から自信の色が消え、焦りと、そしてかすかな「恐怖」の色が浮かび上がる。
(なぜだ…!?)
(俺の最強の一撃が、あと数センチのところで届かない…!)
(まるで、見えない壁に阻まれているようだ…!)
そうだ。
それこそが、私の戦い方。
相手に「勝利」という名の希望を見せ、そしてその手が届く寸前で、それを叩き落とす。
そのじわじわとした絶望こそが、相手の心を最も効率的に破壊するのだから。
10-3。私の、マッチポイント。
追い詰められた黒木さんが最後に選んだのは、彼が最も信頼する武器。
ただひたすらに、純粋なパワーのスマッシュだった。
私は、その彼の最後の祈りに応えるように、ふわりとしたチャンスボールを送ってあげた。
体育館の床が震えるほどの一撃が、私の元へと飛んでくる。
しかし、私はもうそこにいなかった。
私は、そのボールが放たれる前から、その着弾点へと移動していたのだ。
そして私が合わせたのは、赤い裏ソフトではない。
黒い、アンチラバーだ。
私は彼の渾身の力をそのラバーで完全に殺し、そしてネットのすぐそばに、ぽとりとボールを落とした。
それは、あまりにも優しく、そして残酷な最後通告だった。
黒木さんは反応することさえできず、ただその場に立ち尽くしていた。
静寂 11 - 3 黒木
試合終了を告げる声が響く。
体育館は、水を打ったように静まり返っていた。
私はネットの向こう側で呆然と立ち尽くす黒木さんに、静かに一礼した。
その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
魔女の、最初の「仕事」が終わった。
ただ、それだけのことだった。




