北十字
私の魂は、もはやジョバンニと一体化し、そしてこの銀河の旅の本当の「意味」を探す、孤独な乗客となっていた。
その先に、どんな残酷な真実が待っているのかも、知らずに。
「――さて」と先生の穏やかな声が、再び私の思考を現在へと引き戻した。「汽車は、やがて白鳥座のちょうど首の付け根にあたる停車場へと着きます。そこは、プリオシン海岸と呼ばれる、太古の地層が剥き出しになった場所でね…」
先生は、そこで繰り広げられる幻想的な光景を語り始める。
青白い光を放つくるみの化石。
大きな牛の骨。
そして、その全てを見守るように静かにそびえ立つ、北十字の白い輝き。
クラスの誰もが、その宮沢賢治が描く美しい情景に、心を奪われている。
しかし、私の心は別の場所にあった。
私は、その美しい景色の中で交わされる二人の少年の「対話」の、その一行一句を読み/聞き逃すまいと、神経を集中させていた。
先生が、カムパネルラのセリフを読み上げる。
「『ぼくはお母さんが、本当に幸せになれるなら、どんなことでもする。けれども一体、どんなことが、お母さんの、一番の幸なんだろう』」
その、言葉。
私の心の中で、違和感が重ねられていく。
(…まただ。また、この違和感)
先生は続ける。「ジョバンニはこう答えるんだ。『君のお母さんには、なにもひどいことを、してないじゃないか』と。…しかし、カムパネルラはそれに答えず、ただ寂しそうに窓の外を眺めている…」
(…違う。ジョバンニ。あなたは、まだ気づいていない)
先生は、そのシーンを「カムパネルラのお母さんへの深い愛情を示す、美しい場面ですね」と解説した。
しかし、私の頭脳が導き出す答えは、全く違う。
これは、愛情の話ではない。
これは、「諦観」だ。
カムパネルラは、もはや自らが母親の元へと帰れないことを知っている。
だから彼は、自らの行動を正当化するために「お母さんの本当の幸せとは何か」という、あまりにも大きな哲学的問いへと、逃げ込んでいるのだ。
私の脳裏に、葵の姿が重なる。
もし、葵がこんなことを言い出したら?
それは、彼女が私との未来を諦めてしまったという、絶望のサインだ。
(…カムパネルラ。あなたは、一体何を背負っているの?)
(その優しい笑顔の下で、どんな涙を隠しているの?)
私の違和感は、少しずつ確信へと変わっていく。
この汽車は、ただの幻想ではない。
そして、この旅は、ただの冒険ではない。
これは、何かからの「逃避」であり、そして何かへの「訣別」の旅なのだ。
私は冊子の次のページをめくった。
そこに、どんなさらなる絶望が書かれているのかも知らずに。
ただ、この物語の本当の結末を見届けなければならないという義務感だけが、私の心を支配していた。




