円い地図
私の魂は今、確かにジョバンニと共に、あのケンタウル祭の夜の、暗い丘の上に立っていた。
「――さて」と先生は続けた。「たった一人、暗い丘へと駆け出したジョバンニ。彼は林の小道を走り、真っ暗な草木を掻き分け、そして頂上にある『天気輪の柱』を目指します」
その言葉を聞きながら、私の心もまた、ジョバンニと共にその暗い道を走っていた。
(…そうだ。それでいい)
(辛い時は、走ればいい。何も考えられなくなるまで、無心に)
私の過ごした日々が、彼の姿と重なる。
「林を抜けると、空がまるでぼうっと白く明るくなって、目の前に銀河が広がっていた。彼はそのあまりの美しさに我を忘れ、草の上に体を投げ出すんだ」
先生が、詩を朗読するように語る。
「その時だ。どこかから汽笛の音が聞こえてきた。『ドォン』という地響きのような音。気がつくと、ジョバン二の目の前には、まばゆい光を放つ汽車が停まっていた」
(…汽車…?)
私の思考が、物語の幻想的な展開に追いつこうと必死になる。
「そしてジョバンニは、いつの間にかその汽車の中に座っていたんだ。『銀河ステーション』から出発する、その不思議な汽車にね」
先生の解説が、すらすらと耳へと入っていく。
冊子のページをめくる。
そこには、汽車の中で一人呆然としている、ジョバンニの挿絵があった。
「汽車の中は不思議な乗客でいっぱいだった。そしてジョバンニは気づくんだ。通路を挟んだ向かいの席に見慣れた姿があることに」
「びしょ濡れのままそこに座っている、親友、カムパネルラの姿にね」
カムパネルラ。
その名前に、私の心臓が大きく跳ねた。
私の視線の先、冊子の挿絵の上に、全く別の少女の姿が重なる。
あの、太陽のような笑顔。
葵だ。
「ジョバンニは驚き、そしてこう思うんだ。『僕たちは、一緒にケンタウル祭に出かけたはずじゃなかったか』と。…ザネリたちが乗ってこなかったのを見て、彼は少しだけほっとさえする」
先生の言葉が、私の耳を通り抜けていく。
私の心は、もうこの教室にはなかった。
私はジョバンニと共に、あの銀河鉄道の座席に座っていた。
目の前には、葵がいる。
そうだ。私もそうだった。
あの白い病室で目を覚ました時、最初に目に飛び込んできたのは、葵の泣き顔だった。
失われたはずの半身が、そこにある。
その、奇跡のような感覚。
ジョバンニのそのどうしようもない幸福感を、私は自分のことのように感じていた。
「――さて」と先生は続けた。「汽車の中に親友のカムパネルラを見つけたジョバンニ。彼は夢心地でカムパネルラに話しかけます。他の、みんなはどうしたのか、と」
私は、冊子のページをめくる。
そこにはこう書かれていた。
カムパネルラは「みんな、ずいぶん走ったけれども遅れてしまった。ザネリはもう家へ帰った。お父さんが迎えに来たから」と答える。
「しかし」と先生が続けた。「その時のカムパネルラの顔色は、なぜか少し青ざめていて、まるで笑いをこらえるようにくすりとした、と書かれています。…そして、それを見たジョバンニもまた、何か大切なものを忘れてきてしまったような気持ちになるのです」
(…顔色が青ざめて…?くすり、と…?)
私の思考に、最初のノイズが走る。
親友との再会を喜ぶ少年の表情ではない。
そこにあるのは、何かを隠し、そして諦めている人のそれだ。
「しかし、次の瞬間、カムパネルラはすっかり元気になってこう言うんだ」と先生は楽しそうに語る。
「『ああ、しまった。ぼくは水筒を忘れてきた。スケッチブックも。けれど構わない。ぼくは白鳥を見るのが本当に好きだ。きっと僕には見えるよ』と」
「そして彼は、円い板のような地図を取り出し、楽しそうにそれを眺め始めるのです」
地図。
その言葉に、私の分析の針が大きく振れた。
「ジョバンニは、その不思議な地図に興味を持ちます。『それは、どこで買ったの?黒曜石でできてるみたいだ』と。…すると、カムパネルラはこう答える」
先生は、そこで一度間を置いた。
「『銀河ステーションで、もらったんだ。君は、もらわなかったの?』と」




